第4話:命の恩人の定義と、隣で見る初めての景色
図書室での一件以来、茜は俺に対して以前より一歩踏み込んだような、しかしどこか遠慮がちな態度を見せるようになった。その変化は、俺の胸に微かな罪悪感を植え付ける。
放課後の勉強会は続いている。今は茜の苦手な現代文の読解だ。
「佐伯くん、この主人公の気持ち、全然分からない。『生きることに意味がない』なんて、私には思えないよ」
茜は教材を指さしながら、率直に疑問を投げかけた。その瞳は、純粋な驚きと困惑に満ちている。
俺の喉が詰まる。茜が「生きることに意味がない」と思わないのは、彼女が一度死を宣告され、そこから生還したからだ。そして、その命は俺が差し出したものだ。
「……そうだな。でも、この世界には、生きる意味を見失う人もいる。持っているものに価値を見いだせない人間もいる」
それは、能力を持つ以前の、価値のない自分を卑下していた俺自身のことだ。そして、命を譲渡した今、その命が「償い」としてしか機能しないと考えている、現在の俺自身の姿だった。
「でも、佐伯くんは違うよ」
茜は俺の目をまっすぐに見つめた。そのまっすぐな視線に、俺は思わず目を逸らしたくなる。
「佐伯くんは、自分が持っている力で、誰かの未来を真剣に考えている。それだけで、十分すぎるくらい価値があるよ」
(違う。君が持っている『未来』に価値があるから、俺はその『命』と交換したんだ)
俺は心の中で反論する。俺の行いは、贖罪だ。価値を見いだせない自分の命を、価値のある君の命と交換した。ただそれだけだ。
「そうだな。じゃあ、聞くけど、篠宮にとって『命の恩人』って、どういう存在だ?」
俺は話題を変えるために、少し意地悪な質問を投げかけた。
茜は一瞬考え込んだ後、静かに答えた。
「うーん……命の恩人って、私にとっては、未来の道筋を示してくれた人かな。もちろん、病気を治してくれた誰かに感謝している。でも、今はそれ以上に、この時間をどう使うかを教えてくれる人が大切。それが佐伯くんだよ」
茜は、自分が命を譲渡された事実など知る由もない。彼女にとって、俺はただ勉強を教え、未来の設計図を描いてくれる、優しくて真面目なクラスメイトなのだ。その言葉は、俺の胸の奥をじんわりと温めた。
その温もりは、俺の残り時間が減る代償として感じる、漠然とした孤独な痛みを、一時的に遠ざけてくれた。
その日の勉強会が終わり、図書室を出ると、廊下の窓から夕焼けの空が見えた。鮮やかなオレンジと深い紫が混ざり合い、一瞬一瞬で色を変えていく。
「きれい……」
茜が小さく息を漏らした。
「佐伯くんは、いつも下を向いてるから、空なんか見ないよね。でも、この景色って、今日だけのものなんだよ」
茜は俺の顔を見上げた。その瞳には、空の色が映り込んでいる。
「明日には、この空の色はもう二度と見られない。だから、私は今日という一日を、ずっと大切にしたいんだ」
その言葉は、「失われかけた命」を知る者からしか生まれない、重い哲学だった。そして、俺の「期限付きの命」に、強烈なメッセージを投げかけていた。
俺が彼女に贈ったのは、十年分の命だけではない。彼女は、「明日を生きる尊さ」を知る存在になったのだ。
茜の隣で見た、今日だけの夕焼けの景色。それは、俺の残り十年の設計図には含まれていなかった、あまりにも鮮やかで、危険な「愛しさ」の色彩だった。
俺は、茜の未来を守るためにいる。だが、茜は俺に「今日を生きる意味」を与えてくれる。
この関係は、いつ、どこで「命の恩人」という境界線を越えてしまうのだろうか。俺の心は、すでにその境界の向こう側へと踏み出し始めていた。