第3話:命の恩人の優しさと、初めて芽生える熱
放課後の図書室は、静寂の檻だ。
茜と向き合うテーブルに座り、俺はノートに図形を描きながら、彼女の息づかいに耳を澄ませていた。静かな空間だからこそ、彼女が引くペンの音、ページをめくる指先の微かな摩擦音が、俺の残り時間を刻む時計の音のように響く。
「佐伯くん、ここ、どうしてこの公式を使うの?」
茜は戸惑ったように眉をひそめる。その表情は真剣そのものだが、どこか楽しそうだ。以前の茜は、病のせいで疲労が激しく、こんなにも長い時間、一つのことに集中できるはずがなかった。
(俺の十年が、今、君の集中力に変わっている)
俺は心の中でつぶやき、優しく解説を加える。「これはパターンだよ、篠宮。難しいことじゃない。命に関わる問題じゃないんだから、気楽にやれ」
俺の言葉に、茜はふわりと笑う。
「ふふ、佐伯くんらしい言い方だね。でも、佐伯くんはいつも私の未来のことを、私よりずっと真剣に考えてくれる。本当に感謝してるんだ」
その純粋な感謝の眼差しが、俺の胸を締め付けた。彼女にとって、俺はあくまで「命の恩人」であり、「優秀な家庭教師」だ。それ以上の感情は、あってはならない。
俺は言葉を濁し、「目標を達成するためには当然だ」とだけ答えた。
図書室を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。昇降口へ向かう廊下は、薄暗く、誰もいない。
「佐伯くん、今日のお礼に」
茜が立ち止まった。彼女は、小さな手のひらを俺に向ける。そこには、包装されたチョコレートが一つ。
「別に、お礼なんていらない」と拒否しようとした瞬間、茜の言葉が俺の足を止めた。
「これは、命の恩人へのお礼じゃないよ」
茜はそう言うと、顔を少し赤らめて視線を逸らした。
「佐伯くんが、私を『篠宮』じゃなくて『茜』って呼んでくれるようになったら、その時のお礼。……なんて、冗談だけど」
彼女の瞳は、冗談と呼ぶにはあまりにも真剣な熱を宿していた。
その時、俺の左手首の刻印が、ズキリと鋭く痛んだ。肉体的な代償というよりも、心の境界線を破ろうとする警告のようだった。
(駄目だ。俺はただの佐伯悠真じゃない。俺は、君の未来を背負った、余命十年の男だ)
「約束はできない」
俺は静かにそう言って、チョコレートを受け取らなかった。
「……そっか」
茜の顔から、一瞬にして光が消える。その寂しそうな横顔を見た瞬間、俺は自分の胸に激しい後悔の痛みを感じた。それは、代償による痛みよりも遥かに重く、鋭かった。
茜はそのまま俯き、そっとチョコレートを俺の机の上に置いた。
「じゃあ、また明日。ありがとう、佐伯くん」
茜が去った後の廊下には、彼女の微かな残り香と、俺の孤独な心臓の鼓動だけが残された。
俺は机に戻り、茜が置いていったチョコレートを手に取る。包装紙越しでも感じる、彼女の手のひらの温もり。
「茜……」
俺は無意識に、彼女の名前を呟いた。その声は、誰もいない教室の闇に溶けていった。
命の恩人として守るべき相手への「初めての熱」。それは、俺の残り十年の計画にはなかった、最も危険で、最も愛おしい変異だった。