第2話:十年の計画と、無自覚な未来への挑戦
放課後の教室は、人の気配が消え、空気の密度まで薄くなったように感じられる。屋上から戻った俺は、自分の机ではなく、篠宮茜の机へと向かった。
茜はまだ教室に残っていた。分厚い参考書と、その横に広げられた進路希望の用紙。
茜は、死の宣告が消えた今、「失われた時間」を取り戻そうと必死だった。
「篠宮、まだ残ってたのか」
声をかけると、茜は少し驚いたように顔を上げた。夕暮れの光が差し込み、彼女の頬を淡いオレンジ色に染めている。
「佐伯くんこそ。……うん、進路のことでね。今まで、こんなこと真剣に考えたことなかったから」
その言葉が、俺の胸に鋭く突き刺さる。「考えたことのなかった未来」。それは、俺が命を懸けて彼女に贈ったものだ。
「茜……いや、篠宮の希望は、どんな分野なんだ?」
「えっとね、迷ってるんだけど……医療系かな。人を助ける仕事」
茜は少し恥ずかしそうに用紙を指さした。その選択は、あまりにも皮肉だった。かつて助けられる側だった彼女が、今度は人を助けようとしている。
「すごいな。でも、難しい分野だろ?」
「うん、だから、もっと勉強しなきゃ。私、失われた時間が多すぎるから」
茜がそう言って笑った瞬間、俺の左手首の刻印が、ズキンと熱を持った。
(違う。君の時間は失われてなんかいない。君の時間は、俺の命で買い取った、確かな未来だ)
しかし、その真実を口にするわけにはいかない。俺の役割は、彼女が取り戻した未来を、確実なものにすることだ。
「そうだな。もしよかったら、俺で良ければ協力するよ。得意な分野なら教えられる」
「えっ? 佐伯くんが? でも、悪いよ。佐伯くん、進路も成績も完璧じゃない」
「問題ない。俺の目標は、君がその志望を叶えることだ。そのための計画は、もう立ててある」
俺は半ば強引に茜の隣の椅子を引き寄せ、彼女の進路希望用紙を見た。そこには、漠然とした憧れと、実力との間に横たわる大きな隔たりが明確に見えた。
「これは、高校二年の冬までの計画だ。赤点回避レベルじゃなくて、トップを目指すためのもの。ついてこれるか?」
茜は、俺の真剣な眼差しと、几帳面に書き込まれた計画表を見て、目を見開いた。
「すごい……まるで、誰かの人生を設計するみたいだね」
「まあね。君の未来は、それだけ価値があるから」
俺はそう答えるのが精一杯だった。実際、これは茜の人生を設計する計画であり、同時に俺が彼女に捧げる残りの十年の計画の、第一歩だった。
茜は、その計画表を食い入るように見つめた後、深く息を吸い込んだ。
「分かった。佐伯くん、ありがとう。私、絶対、この未来を諦めない」
茜が微笑む。その瞬間、教室に残された夕日の光が、彼女の瞳の中で七色に輝いたように見えた。その瞳には、かつての諦めは微塵もなく、未来への希望だけが満ち溢れていた。
俺は、自分の残りの十年が、この眩い光を永遠に守り続けるためのものなのだと、改めて確信した。
茜との二人きりの「勉強会」という名の「命の共有」は、この日から始まった。その時間は、俺の余命を削りながらも、俺の人生に初めて「価値」を与えてくれたのだ。