第10話:残された十年の記録と、未来への最初の贈り物
茜との「指先の偶然」以来、俺の心は常に波立っていた。彼女への愛は、もはや「償い」という名の鎖で繋ぎ止められるものではない。だが、その愛を認めることは、残された十年の計画を破綻させることに直結する。
放課後の勉強会が終わった後、俺は図書室の隅で、別の作業を始めた。それは、茜には決して見せてはいけないものだった。
静かに広げたノートには、几帳面な文字でデータがびっしりと書き込まれている。茜の学習進捗や進路の情報ではない。
『篠宮茜 未来設計書(佐伯悠真 代理)』。
ノートの一ページには、茜の志望校の合格に必要な情報、奨学金や一人暮らしの初期費用の見積もりが並んでいる。次のページには、彼女の二十歳から三十歳までの「理想のキャリアパス」、そして**「三十歳で結婚、子供を二人」**という、ささやかな未来の夢までが具体的に設計されていた。
これは、俺の命が尽きた後も、茜が何一つ迷うことなく、自らの未来を歩み続けるための、詳細なマニュアルだった。
俺が死ねば、この世界で俺という存在を真に理解している者はいなくなる。茜は俺の死を乗り越えなければならない。その時、彼女の足元がぐらつかないよう、俺の愛を全て形にして残しておく必要があった。
俺がシャーペンを走らせていると、茜が静かに俺の席までやってきた。
「佐伯くん、まだいたの? 何か難しいことしてるの?」
茜は興味深そうに、俺のノートを覗き込もうとする。俺は反射的にノートを閉じ、その上に腕を乗せた。
「大したことじゃない。自分の進路の最終チェックだ」
「ふーん。佐伯くんは、本当に几帳面だよね。私なんか、志望校を決めるだけで精一杯なのに」
茜はそう言って、少し寂しそうに笑った。その笑顔に、俺の胸が締め付けられる。
「俺は、君の未来のために几帳面なんだ」
俺はそう答え、バッグから一つの封筒を取り出した。
「これを、君に渡しておきたい」
「え? 何これ?」
茜は戸惑いながら封筒を受け取る。その重みは、分厚い紙束が入っていることを示していた。
「これは、『未来のための特別口座』だ。これから、君が勉強に集中できるように、大学の受験料や、教材費はこれで全て賄える。君がアルバイトをする必要はない」
茜は信じられないものを見るように目を見開いた。
「どういうこと? 佐伯くんが、私に?」
「ああ。君の未来は、それだけの価値がある。だから、余計な心配をするな。これは、君が進路を叶えるための出資だと思ってくれ」
実際、その口座に入っているのは、俺が命の譲渡の代償とは別に、限られた時間で集めた全財産だ。俺が死ねば、金銭は無価値になる。しかし、茜の未来にとっては、何物にも代えがたい「希望」の資金になるはずだった。
「そんな、受け取れないよ! これは佐伯くんのお金だろう!」
茜は慌てて封筒を返そうとする。その拒絶の姿勢は、俺の孤独な献身を否定するものだった。
「受け取ってくれ、茜」
俺は初めて、『命の恩人』の立場を最大限に利用して、彼女に命令した。
「これは、君の未来のための俺の計画の一部だ。君が迷うことなく前に進むことが、俺の目的だ。もし受け取らないなら、俺は君の進路指導をやめる」
その言葉に、茜は息を詰まらせ、封筒を握りしめたまま俯いた。その小さな肩が震えている。
「……ずるいよ、佐伯くんは。いつも、私のためって言うから」
「そうだ。全ては君のためだ」
俺はそう言って、茜の頭にそっと手を置いた。彼女の髪の温かさが、手のひらに伝わる。
(俺の愛を、どうか償いとして受け取ってくれ)
茜は涙をこらえながら、静かに頷いた。
「分かった。私、このお金を無駄にしない。絶対、志望校に合格する。そして、私が成功したら、全部佐伯くんに返すから」
茜の言葉は、俺の十年という期限を知らないが故の、未来への約束だった。その未来は、俺が受け取ることはできない。しかし、その約束こそが、俺の残りの人生を照らす、唯一の希望だった。
俺の左手首の刻印は、その瞬間、静かに熱を帯びた。それは、代償の痛みではなく、愛の成就に近い、穏やかで強い熱だった。
俺の計画は、着実に最終局面へと向かっている。