第1話:十年という刻印と、再会した君の笑顔
コンクリートの壁に反射した午後の日差しが、俺の左手首を容赦なく照らしていた。喧騒に満ちた教室の中で、俺は制服の袖口を静かに捲り、その数字を見つめる。
《10年 0ヶ月 0日》
命のカウントダウン。それは、俺が篠宮茜に「未来」を与えた代償として、左手首に深く刻まれた紋章だった。文字は皮膚の奥深く、血管の色を写したような薄い青で浮かび上がり、脈動と共にチクリと痛む。佐伯悠真、高校二年生。俺の命の残りは、あと十年。
あの日、冷たい病院の廊下で茜の父と密かに交わした「契約」から、ちょうど一年が経つ。病室で茜が見せていた、「成人まで生きられない」という現実を前にした、諦念に満ちた瞳。あの色を、俺は一生忘れることはない。
俺の奥底に眠っていた能力、『命の譲渡』は、その絶望に反応し、理性を振り切り暴走した。俺は自分の未来の半分を削り、茜の「いなかったはずの未来」を買い取った。その結果、茜の病状は奇跡的に改善し、医者たちを驚かせた。そして今、彼女は俺と同じ、この光の差す教室にいる。
窓際の席。茜は春のまばゆい光を浴びて、笑っていた。その笑顔は、まるで凍てついた湖面に春の太陽が反射したかのような、圧倒的な光を放っている。
「佐伯くん、どうかした? 私の顔に変なものでもついてる?」
茜はいたずらっぽく首を傾げる。その明るい声、溌溂とした仕草のどこにも、一年前までその全てを覆い尽くしていた「死の影」は感じさせない。彼女の髪は太陽を透かし、柔らかい金色を帯びている。
俺は反射的に袖を戻し、刻印を隠した。刻印は熱を持ったように脈打ち、警告を告げている。この代償の暗い秘密で、茜の新しい未来という名の光を汚すわけにはいかない。
「……いや、なんでもないよ、篠宮」
「最近、佐伯くんってよく私の方見てるよね。もしかして、私のこと好きなの?」
茜は頬に手を当て、茶目っ気たっぷりに問いかける。その冗談めかした問いかけは、俺の心臓を激しく波打たせた。
(ああ、そうだ。好きだよ。君が生きていることが、俺の人生の全てだ)
だが、俺の言葉は、命の譲渡という「償い」の壁に阻まれ、口から出ることはない。俺はただの「命の恩人」として、「未来を背負う者」として、彼女の輝く未来を遠くから見守らなければならない。
「まさか。ただ、君が元気になって良かったと、本当にそう思ってるだけだ」
俺の返答に、茜はふふ、と小さな笑い声を漏らした。
「そっか。佐伯くんって本当に優しいよね。あの時、私のクラス委員の仕事まで手伝ってくれたし」
彼女はそう言って、再び窓の外の景色に視線を戻した。春風が、茜の長い髪をふわりと揺らす。その向こうに見える桜並木は、一年前には咲き誇ることさえ許されなかった茜の「生」の象徴だ。
彼女は知らない。その一歩踏み出す力も、その優しい笑顔も、全てが俺の残り時間でできていることを。そして、彼女の隣にいるこの「十年」という時間は、「真実の恋」を始めるには、あまりにも短い期限なのだということを。
チャイムが鳴り、休み時間が終わる。教室の喧騒が収まり、先生が教卓に立つ。茜はノートとペンを取り出し、背筋を伸ばして前を見つめた。その真剣な眼差しは、未来に希望を持つ普通の女子高生そのものだ。
放課後。
俺は、誰もいない屋上の隅、錆びたフェンスにもたれかかった。上空には、都会特有の薄い青空が広がっている。屋上からは、茜が友人と楽しそうに笑いながら校門を出ていくのが見えた。
俺は再び、左手首の刻印を見た。数字は、一秒たりとも止まらず、着実に減り続けている。この数字がゼロになった時、俺の人生は唐突に終わりを迎える。
(後悔はしていない)
茜が笑って生きている。それだけで、俺の命の価値は無限大だ。
俺は、能力を発動した時に告げられた「最悪の可能性」を思い出す。
『譲渡された命は、二度と元には戻らない。片方が尽きれば、運命の繋がりは切れる』
つまり、俺が死んでも茜は生きる。だが、彼女は「命の恩人」の死を経験することになる。その結末だけは、絶対に避けなければならない。俺の死が、彼女の人生を永遠に照らす光になるように。
俺に残された時間は十年。この短い時間で、俺は茜の「命の恩人」から「命を懸けて愛する人」へと、彼女の心の中で立場を変えなければならない。そして、「俺の死が、彼女の人生を永遠に照らす光になる」ように、全ての準備をしなければならない。
茜が、その短い時間で得た「初めての恋」に気づく前に。そして、この秘密を知ってしまう前に。
俺は、決意を新たに、屋上を後にした。
階段を降りる足取りは重いが、心の中では、十年後の別れという終着点へ向かう設計図が、すでに描き始められていた。
命の砂時計は、止まらない。
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