放っておいただけのマリアンネ
マリアンネは突然呼び出されて、すぐに魔法具の使用をやめるわけにはいかずに応接室へとやってきた。
そして妹と婚約者のランディが隣り合って座っている様子にパチパチと瞳を瞬く。
それから本を膝の上にのせて彼らに向かい合って座ると、妹のグレイスがいつものようにマリアンネに向かって祈るように手を組んでキラキラとした瞳で言ってきた。
「お願いですわ! お姉さま、ランディ様をわたくしに譲ってくださいな!」
彼女は紺碧の瞳をキラキラと潤ませて、マリアンネに言った。
……譲ってくださいとはどういうことですの?
意味がわからずに首をかしげると、補足するように婚約者のランディが口を開く。
「グレイスは俺に惚れてしまったらしい。俺も実は、マリアンネよりもグレイスの方がタイプなんだよ。別にいいだろ? 結婚相手ぐらいいくらでも探せるはずじゃないか。婚約を解消させてくれ」
ランディは適当にへらへら笑いながらそう口にする。たしかに、マリアンネは跡取りだ。新しい婚約者など簡単に見つかるだろう。
しかし一応、跡取り令嬢のマリアンネの配偶者にはライノット男爵家次男のランディを貰うという話で両家には話がついている。
それを跡取りではないグレイスに代えてしまったら主にライノット男爵家の方から批判があるのではないだろうか。
「いろいろと問題があるように思いますわ。グレイス、ランディ、もちろんもう成人していますもの、勝手に変更してしまうこともできないことはないのかもしれませんわ。でも禍根を残しますわよ」
「それはいいの! そんなこと気にならないぐらいわたくしはランディ様のことを愛してる! お姉さまはそんな熱い気持ちもわからないの?」
「まぁ、マリアンネは割と鈍感だよな」
「お願いよ! いつもわたくしになんでも譲ってくれたでしょう? わたくしランディ様がいいの!」
お願いお願いと強請ってくる妹に、マリアンネは少し考えた。
彼女は昔からこうして強請るのがうまかった。父にも母にも、たくさんの可愛いお願いをしてたくさんの物を買ってもらった。
そんな彼女が失敗しても、いつもマリアンネは助けてきた。彼女は割とそそっかしく、愛らしい外見もあってか同年代の令嬢たちからは虐められることもあった。
そうするとグレイスは気の強くあまり芯のブレないマリアンネに引っ付いて回るようになってマリアンネはしょっちゅう色々なものを強請られた。
ドレスに宝石、友人に果ては従者まで。
その関係は今でも続いている。
そして、今までで一番大きなものを彼女は強請っている。
ここぞとばかりに、大きな瞳をこちらに向けてくるグレイスに、あまりにキラキラしているのでマリアンネは目をそらしてはたと思い立った。
……そうだ、使いどころが来たかしら?
そう思って膝の上に置いてある大きな本をぱっと開いて自分だけに見えるようにした。
背表紙に魔法石がたくさんついているそれは、とある魔法の研究者が作った魔法具だ。
白魔法で指定した人間の心を物語のように書き起こしてくれるスグレモノである。
「お姉さま? なんですの、ソレ」
『わたくしはお姉さまに「お姉さま? なんですの、ソレ」と問いかけましたわ。
部屋に入ってきたときから持っていると思っていましたけれど、装飾の多くて変な本ですわ』
するすると文字が表示されてうまく機能しているようだと確認できる。
先ほどまで動作確認をしていたので一番近くにいる人物で魔力がある人間であるグレイスがちょうどいいだろうと彼女の魔力を少々拝借し、対象者を彼女に設定してある。
しめしめと思いながら、マリアンネは「急に呼び出されたので、先が気になってしまって」と言い訳をしてから、彼女の気持ちを読み取るために話を戻すような質問した。
「それで婚約解消の話でしょう? わたくしと婚約を解消したとしてライノット男爵家の方々は納得するかしら?」
「大丈夫ですわ! わたくし、がんばって男爵や男爵夫人に精一杯説明しますもの! それでもダメだっていうのならあきらめがつく、そうでしょう?」
「だから譲ってほしいと」
「そうですの! お願いですわ! お姉さま!」
彼女と少し会話をして本にちらりと目を落す。
すると、到底会話の量と釣り合わないほどの文字がずらずらと浮かび上がって来る。
『姉の聞き分けの良い言葉に「そうですの! お願いですわ! お姉さま!」とわたくしは追い打ちをかけましたわ。
そして思案している姉に心の中ではほくそ笑んで思ったわ。
ばあぁか!!! わたくしがそんなに無能で出来の悪い女だと本気で思ってますのぉ?
頭悪いんじゃありません?? ンッフフフ!! 聞いて驚きなさいお姉さまったら!! まぁ! 言いませんけれど!! 跡取りになるのはこのわたくし!!
わたくしですのよぉお!!』
マリアンネはとりあえず本をぱたりと閉じてそれから、頭の上に疑問符を浮かべて怪訝な表情をした。
おかしい、目の前にいるグレイスはいつも通りにおねだりをしているだけで愛らしい表情も、可愛くおっとりとしたたれ目も変わっていない。
……この本ちょっと壊れているのかしら……。
そんなことを思いながらまた問いかけた。
「言っておくけれど、グレイス。ランディと婚約を許されたからといっても跡取りの地位になれるというわけではありませんのよ?」
しかし、万が一そのように思っているのだったら本の内容にも納得がいく。
真偽をたしかめる為にマリアンネは問いかけた。
すると彼女は当たり前の顔をして必死に頷いて返す。
「そんなの分かっていますわ! リンドグレーン伯爵家の跡取りはお姉さましかませんもの!」
『……ンッフフフ!! そう思っているでしょう!? そう思い込んで疑っていないでしょう!! お姉さま!! この馬鹿アホ間抜けお姉さまめ!!アーハハッハ!!
まずわたくしがお姉さまから譲り受けてランディ様と婚約をする! そして揉めている間にお姉さまはあたらしい婚約者を探すわ!!
するとその間になんと!! 悪くてひどぉい人たちがやってきて?
それからそれから?
お姉さまをエイッって傷モノにしちゃうのよぉお!! その事件は社交界中に広まって~♪
お姉さまは配偶者を見つけられずに~♪
わたくしは憐れみながらも、仕方なくリンドグレーン伯爵家の跡取りになるのですわ~!
ああ、完璧! わたくしったら完璧! もう襲う役の男の子たちとも渡りがついてますの!
ランディ様が紹介してくれましたわ。そんなことをできる人とつながりがあるなんて、なんでか知らないけど!!
とわたくしは考えましたわ。我ながら完璧で、最高に頭の良い計画だと思っていますの。
隣にいるランディ様にこれで完璧よ! とアイコンタクトをおくったけれども彼はわたくしを見てくれないわ。
心が通じ合っているフリをしようと言ったのに、演技が下手な人なのね』
本から目線をあげてマリアンネは彼らの方を見た。
たしかに、ランディはマリアンネの方を見ていて、グレイスは彼にアイコンタクトをおくろうとしている。
本の内容に間違いはない。それはわかる。しかし内容がとんでもない。
彼女はこれが通常運転なのだろうか。今までもそうだったのか。様々な疑念が浮かんでは消えていく。
しかし最終的に残る考えはライノット男爵家領地付近の事柄についてだ。
リンドグレーン伯爵家の領地は比較的穏やかで作物もよく育ち魔法的な資源も豊富で治安もいい。
けれどもライノット男爵領のある辺りは、この国の先祖となっている民族とは違った血筋の人間が入ってきている。
だからこそ、ランディもグレイスやマリアンネとは少し毛色が違って切れ長の瞳に黒髪をしている。
常々なにを考えているかわからないとは思っていたし、人種によって差別をするつもりはないが、事実として彼の出身地は治安が悪い。
おのずと違法行為をするような人間と繋がりがあるのも頷ける。
……それなら、本の内容は間違っていないのですわね。
納得してマリアンネは、瞳をキラキラとさせている彼女を見返して、一つため息をついた。
今までたくさん彼女を助けたり、譲ってやったりしてきたが、そのつけが回ってきたのだろう。
ただこんなふうになってしまったことを悲しむという気持ちがマリアンネの中にあるわけではない。
……厄介だとは思うだけでそれ以上でも以下でもない。だから今までもなんでも譲っただけですわ。
だからきちんとしなければならない時が来ただけですの。
そう思ってマリアンネは小さく息を吸って、笑みを浮かべて口を開く。
「許しませんわ。許さない。こうなったからには婚約解消は受け入れますわよ。ただあなたのことは勘当するべきだとお父様には伝えておきますわ。さようなら、あちらの家に受け入れられたらいいわね」
「え!?」
「あら、よかったでしょう? 好きなランディと一緒になれるのよ? それでもわたくしの婚約者を奪ったのだから当然の措置ですわ、わかるわよね?」
「え、で、でも! いつものお姉さまなら笑ってかまわないわよって……!」
「あなたは欲しがりすぎたのです」
そう言って本を閉じる。
中身がどうなっているか気にはなるけれども、それはどこからでも読むことができる。
べつに今見る必要はないだろう。
「ウソウソウソ、待って、待ってったらお姉さま!」
グレイスは声をあげるが侍女が止めに入って、マリアンネに手が届くことはない。
静かに応接室を出て、マリアンネは彼女はこれからどうなるだろうかと考えた。
強請ってくるばかりの彼女は、マリアンネにとってうっとうしくて面倒くさいものであった。
元からマリアンネはあまり情が深い方ではないのだ。叱りもせずに放置するぐらいには、マリアンネは元から彼女を正しい方向に導こうとしていない。
マリアンネはいつも彼女のように情熱的にはなれなかった。なりたいと自分が思っているのかどうかもマリアンネはよくわからない。
そしてよくわからないまま問題が起こって、そして後はもう放っておこうと思ったのだった。
それからマリアンネは父と母の元へと向かい、グレイスとランディが相手方の了承を得ずに勝手に婚約をしようとしていることを告発した。
それに今まで無条件に与えすぎていたことがグレイスの人格にひどく影響したのではないかということも同時に伝えた。
もちろん、マリアンネが言えることではなかったが、マリアンネはグレイスを教育する立場にあるわけでもないし、基本的には親の責任だろう。
重く受け止めた彼らはマリアンネの言葉に従い勘当する形になった。
しかし、十五の少女をどこにでも行けと放逐するのはさすがに鬼畜の所業だ。
当面の彼女の生活を支えて欲しいとライノット男爵家に依頼をしていた。
なんせ父や母からするとグレイスにとってのランディは自分の生活を犠牲にしてまで一緒になりたかった人なのだ、リンドグレーン伯爵領から出してもう手助けをしない代わりにそうするのは彼らの甘さでもある。
けれどもそんな甘さにも口を出すようなマリアンネではない。
それにこれから彼女がどうなるかは彼女自身にゆだねられているのは事実だ。だからこそ、関与しなかった。けれども試運転の為に渡されている本の魔法具には彼女の未来が物語のようにつづられる。
そのことを丁度良く思いながら本を開いた。
『お姉さまはいつもとは違う反応を示して、いつもだったらなんでもくれるしお父様やお母様にもなにも言わないのに、今回に限ってわざわざ告げ口をしたみたいだったわ。
それでわたくしは呼び出されて、一生懸命に弁明しましたの。
けれども二人は散々対応を話し合った後みたいに、整ったセリフをわたくしに言いました。
「今までの私たちも悪かった。だが、それは多くを継がせてやれるマリアンネとは違って、将来お前には支援をすることができない、だからこその配慮のつもりでいた」
父はそう告げて申し訳なさそうな顔をする。
「でもそれでグレイスはマリアンネよりも優先されていると勘違いしたのかもしれないとわかったわ。でも私たちはただ平等に……ね、あなた」
母も神妙な顔をして付け加えたわ。
「そうだ。だからこそマリアンネが跡継ぎとして得るはずだったものを奪い取ったグレイスには、この家に居場所はない。……これは決定事項だ。グレイス、お前は傲慢になり過ぎたんだ」
「っ、待ってくださいませ! ただほんの少し、そうちょっとだけお姉さまに話をしただけですわ。勘違いですわよ」
わたくしは、どうにかそういうふうにごまかすように言ったけれども父も母も想定していたとばかりに冷静で、汗で肌着が張り付いて気持ちが悪いですの。
そしてお姉さまへの憎悪が膨れ上がって、どうしようもなくなってしまい叫びだしたいくらいでしたわ。
……こんな時に限ってお姉さまったら急に手のひらを返したようにぃ!! なんだって言うんですの!? まさかわたくしの計画が漏れていた? そんなわけありませんわ!
いいえそんなことより、今はお父様とお母様にどうにか取り入らなければなりませんわ!! ああもう!! いっつもあんなに優しかったはずですのに!!
彼らを説得するための言葉を次から次に探してわたくしは頭を回転させます。
けれどもお父様は首を振って「すまないな」と短く告げる。
もう処置は決まっているとばかりの頑なな態度にまた叫びだしたくなりましたの』
『勘当されたわたくしは、ランディ様と一緒にライノット男爵領へと向かうことになりましたわ。
ランディ様は、跡取りではありませんけれどわたくしのことをしばらく面倒を見てくれるそうですわ。
……昔からついてくれた侍女とお別れをしたのでひどく不安ですの。一体これからわたくしのドレスは誰が着せてくれるのかしら?
それにしてもあの時お姉さまがうんと言ってくれていたらこんなことにはならなかったはずですのに、はぁ~!! 腹立たしいですわ! 今更ながらあのすました顔つきを乱せなかったことが悔やまれますの!!
一度でも、喧嘩で勝ったことがあれば思い出してスカッとできましたのにぃ!!』
『ライノット男爵家では侍女のような仕事をするように言われて、わたくしがそんなことはできないと言うとランディ様に打たれましたわ。
打ったことはあっても打たれたことはありませんでしたのに。
わたくしの可愛い顔に傷がついたら責任を取ってくれますの? と怒って聞きましたの。
そうしたら彼、こう言ったんですのよ?
誰かに聞いてほしいですわ。お父様でも、お母様でも、誰でもいいですの。侍女のカスタードでも、飼いネコのショコラッタでも誰でもいいですの。
いいこと? こう言ったのよ?
「責任取って、傷が目立たなくなるような顔にすればいいってことか?」
あんまり平然として言ったから、わたくし怒り損ねたわ。ついでにちょっと怖いんですの、あの人。
お姉さまはどうしてあんな人と婚約をしていて平気でしたの? 怖くありませんの?
それにわたくし、今頃は悠々自適に屋敷でお姉さまの代わりに跡取りの地位に座って、王都ではやりのお菓子を片っ端から食べる予定でしたのに。
どうしてこんなところにいるのかしら? なんだかわたくしの人生そのものがおかしくなっている気がしますわ。
『ランディ様に連れられて、わたくしは今日デートに向かいましたの。ご友人の別荘でパーティーが開かれるらしく、ランディ様の新しい婚約者となったわたくしを紹介してくれるそうですわ。
でも人気がなくて変なお屋敷ですの。そこにはお姉さまの”襲い役”として紹介されたランディ様のご友人がいらっしゃったのですわ。
女の子はわたくしだけで、皆は何故かわたくしのことを舐めるように見つめていますのよ。
「お久しぶりですわ。皆様、以前は協力をしてくれるという約束をしたのにごめんなさいね」
大きな応接間で彼らに向かって手を組んで、わたくしはいつもどおり可愛い顔をしましたわ。
これで言うことを聞かない男なんかいませんもの。
それに怒ってなんかいないだろうと思っていましたの。
……でも、なにか状況がおかしいですわ。もしかして可愛いわたくしとみんなおしゃべりをしたいから自分の婚約者は置いてきたのかしらぁ?
そんなふうに考えて仕方がないから少し優しくしてやろうと、父ぐらい身長のある体格のいい彼らに目線を向けますわ。
けれども彼らはランディ様のことを窺っていて、わたくしの一歩後ろにいた彼は急にわたくしの手をおもむろに掴んで言いましたわ。
「さて、見ての通り上物だ! せっかくお綺麗な跡取り娘で遊べると思ったがこいつでも問題ないよな。お前ら」
「それはもちろん。ランディ様はいつもお上手ですな」
「まったくだぜ。お貴族様の女をどう取り込むんだか」
「思っているよりずっと簡単だ。大したこともない、それにっ」
「な、きゃぁ……っ、ぐ……っ」
彼がわたくしの腕をひねりあげて、気が付いたときには既に跪かされていましたの。
驚くべき早業でしたわ。咄嗟のことでまったくもって上手な判断ができませんわ!
「こいつらは皆、自分たち貴族以外には敵なしだと思い込んで、間抜けなもんだ。身内同士、子供同士でいざこざを起こして、結婚だ婚約だなんだかんだとバカバカしい。適当な貴族をのっとって爵位を得ただけで簡単に懐に入れる、ガバガバなんだ」
「っ、へ? ……え? なな、なにを言ってるのかわかりませんわっ」
わたくしが混乱して声をあげると、ご友人方がドッと湧いてそれぞれが笑い声をあげる。
そんな下品な笑い方も、こんなに非道なことも見たことも聞いたこともありませんわ。
「ははっ、ほら。貴族令嬢は愛らしい。こいつらにとっては純潔を汚すぐらいが最大のヒドイコトなんだろ? もっと惨いことがこの世には山ほどあるってのにな。さて、遊びの時間だ」
ランディ様はわたくしのことを蹴とばして体が勢いに任せてゴロゴロと転がる。
ご友人方がぞくぞくと、わたくしの方に寄ってきますわ。もう何が何だかわからないけれど、逃げなければと思ってわたくしは必死に立ち上がろうとしましたの。
でも蹴られたわき腹がきしむみたいに痛くてうまく立ち上がれもしないんですの。
それを見て笑っているこの人たちは、わたくしが知っている思いやりがあって優しい“人”じゃない。別のなにかなのだって、そんな気がしましたわ』
『ぼろ雑巾、みたいなと自分を形容したのは初めてのことですわ。
わたくしはあの後、彼らが別荘と呼ぶ場所で数日間監禁されていましたわ。
彼らは貴族でもなんでもありませんの。わたくしたちとは違う生き物ですわ。だってそうでもなければあんな、酷いことを出来るはずもありませんもの。
気品のかけらもない、気高さを花びら一枚分もも持ち合わせていない正真正銘のひどい怪獣ですわ。化け物なのよ。でもわたくしはそれ以上、汚い言葉を知らない。でもそれ以上を知っていたらいいと思う。
それぐらい滅茶苦茶に罵ってやりたいけれども知りませんの!
あの人たちにはなんだか汚い言葉で罵られたけれども知りませんの!
お綺麗なことしか言わないと笑われましたの!
腹が立ちますわ! でも今はとにかく逃げなければなりませんの、なんとしても。
だからこそ、必死になって足を動かしますわ。どんなに不安で恐怖にさいなまれても。
どうしてわたくしがこんな目に遭わなければならないのかしら。もう耐えられなくて自死しようとした時もあった。でも、逃げてこられたからにはあの時死ななくてよかったですわぁ!!
でも、足が痛いですわ。裸足で森の中は厳しいですの。でも道沿いに出てもし見つかったりしたら……。
そう思うとぞっとして喉がぎゅっと締められる思いがしますわ。
そしてワンピースの裾をたくし上げてわたくしは必死で走りましたわ。
暗い森の中、魔獣に食べられるかもしれなくても別荘に戻るよりはマシに感じて走りましたわ。
わたくしは今! 貴族令嬢の中で最も早く走れる令嬢かもしれませんわ!!
そう思いながら彼らに襲わせようとしていたお姉さまのことを思い出しましたの。
……ひどい目に遭ってもいいと思ってましたけれど、こんな目に遭わされるのはいくらお姉さまでも可哀想ですわ!! というか、わたくしがあんなことを企んでいなければ誰もこんな目に遭わなくて済んだのかしら?
それならあの時に戻りたいですわ。
そしたらわたくし、もうなにもいらないって言いますの。
宝石もドレスも、従者もネコもなにもいらないって言うから、だからそのままの暖かいベッドで一人でぐっすり寝たいとそれだけ望みますわ!!
そう思うと涙が出てきて、息が上がって、それでも走って、なんとか森を抜けて朝になったころに道に出て、わたくしはぼろ雑巾のように道端に野垂れたのですわ』
そこまで読んでマリアンネは思わず瞳から涙をこぼした。
数日のうちに一回は彼女のことを見守っていて、進展がないので放置していたら、とんでもないことになっていた。
このまま不遇ながらもランディの元でそれなりに生活をしていくと思った矢先の出来事だった。
それにまだ更新されているページの半分も読んでいない。
ここからどうなるのかと焦ってページをめくった。
『目が覚めると体が小さく揺れていて、体にはなにやら毛布がぐるぐると巻かれていましたわ。体を起こすと平民の乗る簡素な馬車の中だと気が付きました。
それから一緒に乗っていた小人のような老婆と老父がわたくしに話しかけてきましたわ。
「あらまぁ、目が覚めたのね。お嬢ちゃん」
「おやぁ、よかったなぁ。もうすぐ街につく。なにがあったか知らないが、無事でよかったなぁ」
彼らはしわくちゃな顔をさらにしわくちゃにさせて笑みを浮かべましたわ。
それはとてもお淑やかではない笑みだったけれど、わたくしはそれでも全然かまわなかったのですわ。
だってやっと人のいるところにもどってこられたんですの。
「っ、ええ……ええっ、よかったですわぁ」
「おやおや、つらいことがあったのだねぇ」
「大丈夫、この馬車の御者は私たちの息子なんだ、きっと少しなら手を貸してくれるさ」
そう言って慰めてくれましたの。人ってこんなに優しいものですのね。わたくし人が大好きになりましたわ!』
『結局、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に街へと入ったわ。
それから行商人のジャンとは違って、もう一人の息子で一つの町で商いをしているジョンの家の手伝いをすることになりましたわ。
わたくしは勘当されていて帰る当てもないのだというと、一人で放り出すわけにはいかないと彼らは言ってくれましたの。
それにわたくしのこと、看板娘ですって!
全然仕事だって出来ませんのに。毎日かまどに火を入れるだけでも手こずるのに!
食事も簡素なものばかりで、ドレスだって着られない、でも問題ありませんわ。
「グレイスちゃーん。お会計ー!」
「はーい。すぐ行きますわぁ!」
ジョンのそのまた息子のアランに呼ばれてわたくしはトングを持って駆けだしましたの。
最近は日々がとても楽しいですわ。
暖かく眠る場所があって、それから毎日パンが焼ける匂いで目覚めて好きなように食べられる。
人間って本当は必要なものはそれだけだと思うのですわ。
わたくしは今の考えを誰にも報告できませんけれど、それも仕方ないし、今思えば昔は欲しがりすぎでしたわ、だからわたくしは合わせる顔がありません。
ただ、一つ心残りがあるとすればお姉さまに……ごめんなさいと言えなかったことそれだけですわ。
いつか会えたら、お姉さまはパン屋の看板娘になったわたくしになんて言うかしら。想像もつかないですの』
最後はそう書かれていて、マリアンネは柄にもなくホッとして、それから思った。
……生きがいを見つけるなんてすばらしいことだと思いますわ。そうグレイスに言いたいわね。
いつも、なにに対しても興味も無く、感情豊かな妹に対してもなにもいうことができなかったマリアンネはやっとその結末を読んで気が付いた。
グレイスのことをうっとうしいと思いながらも、やはり同時に尊敬していたし、うらやましかったのだ。
情熱的で、強い思いを抱く人、行動に移してなんでもする彼らがマリアンネは少しうらやましかった。
だから、いつも放っておいてもマリアンネはグレイスのことがそれなりに好きだ。
彼女は可愛い妹だ。気の強く欲しがりな、妹だ。荒療治ではあったが本当に求めるべきものを見つけられたようでなによりだと思う。
きっと際限なくこのまま欲しがり続けたらいつかは、大失敗をしていただろう。
だからこそ一線を決めてけじめをつける覚悟をしたのは正解だったといえるだろう。
しかし自分のおかげというわけでも無い。彼女にはもともと自分の道を作り出すだけの力があったのだろう。
マリアンネにはそういった情熱はない。マリアンネはただ放っておいただけの無責任な登場人物なのだ。
マリアンネは本を持って魔法協会の研究施設へと足を運ぶ。
フィルの部屋にノックをしては入るが彼の部屋の半分以上はなにかよくわからない研究物と本が占領していて、彼が作業できるスペースは三分の一程度だ。
……窮屈とは感じないのかしら?
そう思いながらも床で作業する彼に声をかけた。
「フィル、随分と長い間借りてしまっていて申し訳ありませんでしたわ。こちらは使用感のレポート、使用魔力の表記はこちらに。……それであなた、次はなにを作っていますの?」
魔石と魔石を合わせてなにやら細工をしている彼に問いかけると、ぱっと顔をあげてフィルはマリアンネに視線を向けた。
「今は、スタンガン。最近なにかと物騒だし? 君にも使ってもらおうと思って」
当たり前のように彼は言うが知らない単語だ。きっとまだ彼の造語だろう。
フィルは、ほかの魔法の研究者とたがわず少々変人で、自分で作った造語をあたかも当たり前の物のように口にする人である。
それに作る物も変な物ばかりだ。
空を飛べる風魔法の道具を作ったと思ったらなぜか箒の形をしているし、遠くの人間と話ができる鏡を作ったと思えば、本当は占いのできる喋る鏡を作ってみたかったというし。
この本も彼の作品であり、本当は未来を示すトシデンセツ? の預言書が作りたかったらしい。
とにかくユニークな人物だ。
「……そうですの。武器かしら」
「そうそう、君の婚約者の……ええと、なんだっけその辺の事情がやばいって噂に聞くよ?」
そう言いながら彼は適当に立ち上がり、今まで作っていたものを放り出してマリアンネが差し出した物を受け取った。
それからペラペラとレポートを見ていく。
「ライノット男爵家の地方ですわね。……わたくしも最近、闇を見たところですわ。国として対応をするべきだと考えていますのよ」
「ねー、本当に。怖い怖い。……あれ、これって結構、魔力の使用量多かった?」
「ええ、それはもう。わたくしでなければ維持は難しいでしょうね」
「そっかぁ。もうちょっと改良しないとだね」
そう言って机の方にレポートを持っていき、転がっていたペンでさらさらと加筆し、本についている魔法石の様子をうかがった。
こうして彼とマリアンネの間に交流があるのは、彼が一切魔力を持っていない平民であったからだ。
なので魔法学園で知り合い、マリアンネは跡取りとして優遇されるだけの非常に潤沢な魔力を、彼の魔法具制作の為に使うことにしている。
いつもものづくりに熱中している彼に、熱烈に求められたからという理由が大きいが、マリアンネはそういう人を無条件で尊敬してしまう節があるので二つ返事で受け入れた。
「よし。いつもありがとう、マリアンネ様。君のおかげでなんとかやっていけてる」
「いいえ、わたくしとしてもいろいろと不思議な魔法具を試せて勉強になりますわ」
そうしていつも通りの会話をして、マリアンネはいつもならここで研究室から退室するのだが本を返してしまった以上は、中にあるグレイスの事情も彼の知るところとなるだろう。
驚かないように言っておくべきかと考えた。
「……ところで、本の対象者はわたくしの妹ですの。丁度、わたくしの婚約者を奪い去って勘当された関係で、一悶着あったものですから」
短く言うと彼は目を見開きキョトンとして、それからアハッと笑みを浮かべる。
「え? なにそれ、小説みたい!」
「?」
「あ、ごめん。不謹慎だった……って、え? マリアンネ様、婚約解消したの? 長年連れ添った相手でしょ?」
「いいえ、それほどでもありませんわ。たしか魔法学園入学前に急遽、決まった相手よ」
「そうだったんだ……貴族様は皆小さいころから婚約していろいろと大変だって聞くから」
彼は謎の偏見をもっているようでそう口にして、それから難しい表情をした。
もちろんそういう貴族もいるだろうが、必ずしもそうとは限らない。だが今回の件を鑑みれば幼いころから長い歴史を持つ幼少期も知っているような相手と婚約するメリットはマリアンネが想像しているよりもずっと大きいのかもしれない。
「とにかくそういう理由で、グレイスのことが書いてありますわ。少々過激な部分がありましたが、あまり毒されないように」
純粋な彼が、あのグレイスの話を読んで、貴族とはこういうものなのかとまた偏見を持たないように一言添えた。
「……」
しかしフィルは返事をせずに、口元に手を当てて考える様な仕草をする。
どうやらマリアンネの言葉は届いていない様子だった。
こうなったら彼になにを言っても無駄だろう。マリアンネはその長考が終わるまでの間、静かにしていていた。
するとしばらくして彼はぱっと顔をあげて、きらっと輝く瞳でマリアンネのことを見る。
あどけなく見える表情だった。
「あのさ、僕、ずっと魔力が欲しいなって思ってたんだ」
彼の瞳はお願いをするときのグレイスによく似ている。違う点があるとすれば、その瞳には欲だけではなく、なにか謎の熱が含まれている点だろう。
「はい、知っていますわ」
「でも、手に入るものじゃないし、君は今“協力”してくれるけれども僕の物じゃない。ああ、これは君をもの扱いしているわけじゃなくてね。比喩的表現だから気にしないで?」
「はい」
「一応これでも国に貢献して、男爵の爵位をもらったんだ」
「知っていますわ」
「これって、もしかしてチャンスだって考えたいんだ。君をさ」
そう言ってフィルは、そばにいたマリアンネの手を取る。あどけない青年だと思っていたのにどこか違うように見えて、マリアンネは一歩引いたが、ここは狭く逃げ場が少ない。
「僕の、にすることって可能性はあるかな」
「…………」
「ゼロ?」
問いかけられて考える。
もちろん、魔力が有り余るほど潤沢なマリアンネの結婚相手は魔力に左右されない。貴族ならば、割と多くの人間に可能性がある。
「……ゼロ、ということではありませんけれど」
「じゃあ、君が欲しい。尽くすよ、僕。前世の知識も、才能も君の為に使う。お願いマリアンネ様」
彼は何か引っかかることを言ったけれどもそれどころではない。
彼のお願いはグレイスとは違って、いつもマリアンネにも何かを与える提案を含んでいる。つまりマリアンネにも益がある。
そして一線を越えてもいない。正当な願いといってもいい。
「魔力だけじゃなくて、君が欲しい。にっちもさっちも行かなくなって、困っていた僕を助けてくれた君がいい。好きなんだ。こんなに綺麗な人に僕なんかでいいのかって思うけれど、手を伸ばせないで後悔するのは嫌なんだ」
「っ」
それを断る理由も思い浮かばないし、かといって、グレイスのように放っておくこともできない。
いつもマリアンネは傍観者で、情熱的になにかをすることのできる物語の主人公でもない。だからいつも了承するか、グレイスのように放っておくことが多いのだ。
けれどもこれはマリアンネ自身に関することで放棄などできない。
彼の熱い視線を受けて、マリアンネは喉がキュウッと締められるみたいで、苦しくなる。
いつも感情を乱さず、一歩引いていたマリアンネにもついに対処すべき事項がやってきて初めて一歩を踏み出すことにした。
妹の良くも悪くも踏み出すその姿勢に、無自覚にも勇気をもらいながら。
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