第一世界 リスタート⑤ 目の前の何か
突然、姫野さんが立ち止まった。隣で歩いたぼ僕は三歩進んでからそれに気づく。ずっと笑顔の緑の瞳は、その表情を崩さず僕に問いかけた。
「ちょっと寄り道しませんか?」
「いいよ、どこ行きたいの?」
すると彼女は「着いてきてください」と僕の手を引き、どこかに向かって歩き始める。
僕の知らない道。通りを二、三個通るだけで街並みの色が変わる。何度か本当に道は合っているのかと聞いてみても「大丈夫」とだけ。少し不信感を募らせるがそれもすぐに止んだ。
古びれた商店街、あの日は見えなかった街並みも晴れた今なら見えてくる。と言っても系統の違う不気味さしか残っていないけど。
錆びた看板に、割れたアスファルト。ボロボロの屋根にへこんだフェンス。どこを見ても廃墟としか言えない街並みを進むと例の橋に着いた。
「大丈夫なの?」
恐る恐る問いかける僕に対して対照的に、姫野さんは笑顔を崩さないでニコッと返す。
「大丈夫ですよ。それより大事なお話があります」
深刻そうな顔ではない。むしろ笑顔の方が強い。多分相談ではないのだろう。しかし、それならなんの話なんだろう。
蓮は全くの心あたりが無く、小首を傾げ姫野さんの声に耳を傾ける。
「あの……その……好きです。付き合ってください」
「…………は?」
不意に出てしまった声。これは単に意地悪で言っているわけでも気持ち悪がっているとかでもない……単純に心の底から出た疑問なんだ。
これは、僕がこういう場面でチキンになってしまう人だからではない。むしろ僕はこういう場面なら否が応でも調子に乗るタイプだ。
じゃあなんでこんな反応になるかだって?それは……
僕の事を全く見ていない姫野さんは、まだ笑顔を崩さないで話続ける。
「いつも見てました。教室でも……帰り道でも……放課後でも……家の中でも……ずっとずっと見ていました」
「待って待って……え?ごめん理解が追いつかないんだけど、君は好きなのは晴人でしょ?」
そう。彼女は以前の事件の時に色々手伝って助けてくれたイケメンの晴人を好きになってしまったらしい。
当然彼女がいることは知っているがそれでも諦めきれず、僕にどうしたらいいか度々相談しにきている。
だからこそわからない。なぜこんなことを言ってくるのか。どうしてこんなことになっているのか。
姫野さんは僕のことなんかお構いなしに話し続ける。
「昨日だって、家でプリンを食べていましたね。私も好きです。それに不意に筋トレしようとして、でも途中で飽きて辞めちゃったりして…………」
続々と綴られる彼女の話はどれも知っている内容だった。僕がここ最近行っていた行動だった。
背筋が震え、足取りが重くなる。貼り付けられた笑顔が僕の心を抉り取る。目の前にいる少女はなんなのか一瞬でわからなくなる。
それからというもの目の前の何かは、僕の昨日の行動、一昨日の行動、その前の日の行動を事細かに感想付きで語る。一挙一動鮮明に、笑顔は崩さず。狂気的なその姿は……
確かに目の前の何かは僕を見ていたのだろう。内容は合っている。
……でも無理なんだ。姫野さんが僕の行動を知ることは、だってここ最近、君は、新しくできた友人と遊んでいたじゃ無いか。嬉々として僕に送られてくる写真で僕もそれを知っていた。
「……君は誰なんだ?」
差し迫る恐怖が口を滑られる。
「どうして……そんなことを言うの?どうして……そんなことを聞くの?ねぇ?どうして!?」
不意に出たその言葉は目の前の何かの琴線触れたらしい。激昂するそれは今にも差し迫る勢いでこちらに迫ってくる。
溢れ出る恐怖が、差し迫る狂気が、焦る背後に僕の頭の中に一つの答えが導き出される。
頭の中にある会話内容が流れ出た。
瞬時に姫野さんの首元に目をやる。案の定、不気味にひかる銀色のチェーンが胸の中にまで伸びている。
「……スワンプマン」
口から溢れたそれを見て、目の前の何かはピタッと言葉を止める。
「え?どうして、あなたまでそんな事言うの?ねぇ、ねぇ、ねぇ!」
張り付いたはずの笑顔から狂気が漏れ、その瞳は血走り赤く染まり、纏う空気はまるで絶対的な死を前にしているような……
急に激情するそれは、胸元からドス黒いペンダント取り出す。
赤と銀で構成されるそれは、どす黒く、酷く禍々しい。心臓のように形付けられた赤い物体に血管を模したような銀の線。
目の前の何かがそれを握りしめると、禍々しい光を放ちペンダントからは赤黒い泥のようなドロドロとした液体が噴き出たした。
噴き出た泥は、辺りを巻き込みながら姫野さんの体に集約し、赤い繭のようなものを形成した。
さらにその繭の表面を覆うように赤黒い泥が溢れ出て新たな形を作った。
周囲を覆うように作られた無数の触手と繭の頂点から、先端に三角の物体をつけた頭のような部位が生える。
「──っ!!」
姫野さんが繭に取り込まれる一瞬、僕と目があった。
……彼女は多分、助けを求めていた。助けてと目訴えていた。
理解していた。……僕は、それを理解していた。
だがその心とは裏腹に、尋常ならざる化け物を前に蓮は、足を一歩後ろに引いてしまった。
これは蓮の意思とは関係ない。生物に備わっている本能的なものだ。
普通、こんな化け物を前にしたら人は恐怖で気絶するだろう。
それを前に蓮は意識を保っているそれだけで十分立派な方だ。
……そう、普通の人ならば。
子供の頃、誰もが一度は想像したことがあるだろう。テロリストが自分たちの学校を襲ってきてそれを撃退したり、目の前で事故が起こってそれを救ったり、異世界に転生してそこで最強になったり……もしそれが目の前で起きたなら僕は全力を出せる!
……そう思っていた。
今……目の前で起きたじゃないか。超常的な何が出てきて、女の子が助けを求めてきて……僕は、何をやった?怖くて逃げただけじゃないか。
今まで目指していて……憧れていて……理想で……
今この瞬間、僕は己の理想を自分自身で否定してしまった。
『お前は主人公になれなよ』
己を責める絶望は、目の前の狂気なんて忘れ去れるほどに。
放心して無抵抗な蓮を泥な化け物は無数にある触手を四本ほど束ねて太くし、蓮を包み込むように軽々しく持ち上げた。
「どうしたの?」
暗闇に覆われたようで光も音も何もかも、蓮には何一つ届かない。
もし今の蓮に届くものがあるとするならば、それは新しい理想だけだ。
ニタニタと顔を近づける泥の化け物は、反応のない蓮に首を傾げ、また何かを思いついたような顔をしては徐に蓮を地面に叩きつけようとした。
次の瞬間!!刹那の一瞬。振りかぶろうとする太い泥の触手に、一人の女性が軽やかに飛び乗る。着地する場所には右手をかざし、着地した瞬間何かを唱えた。
「『ラージュ・バン』!!」
唱えた瞬間、彼女の右腕を吹き荒れる荒々しい風が覆う。纏われたその風は彼女のしなやかな腕を伝うように流れ、太い泥の触手に接触する。瞬間、風は火薬のように大きく爆ぜ、太い泥の触手は花弁のように舞い散り蹴散らされた。
太い泥の触手から解放された無抵抗な蓮を空中でお姫様抱っこで回収し、バックステップで化け物との距離を稼ぐ。
目に映る煌びやかな光景はまるで理想の物語のよう。
一度諦めた光が今、現実となって目の前に現れる。漠然とした不安の暗闇を晴らし、現実に引き戻される。
この感覚は少し前に、一度だけ感じたことがある。明らかにおかしくて、変な人で、それでも瞳だけは真っ直ぐで……
朝にあった人物とは見紛うほど姿が違う。
美しい白髪に内包されるインナーの漆黒を強調するように金色の装飾をつけた黒い帽子を頭にかけ、胸元を隠す黒いワイシャツのような物に、すらっとした美しい長い足を隠せていない短いスカート。
それらを覆うように羽織る、所々に金色の装飾のある黒色のロングコート。
腕は肘から先までを露出させるようにロングコートの袖をまくり、右足のももにはガーターベルトの様なもので小さな本を固定している。
……姿は違うが、あの瞳だけは変わらない。
「えっと確か……蓮くんだっけ。大丈夫?」
その瞳を前に、少しだけ心に温かい何かが湧いてくる。
「……今、大丈夫になりました」