三位一体は正しいか
三位一体は所謂正統派キリスト教の基本的な教義になっている。神というのは三つにして一つ、一つにして三つなのだという。それは正確ではないにせよ、神性を持つ三者の存在を仮定して本質において同一であるという。
私は三位一体に対しては否定的な感情を持っている。なぜならば神を第一位格、第二位格、第三位格と三分する訳だが、イエス・キリストを子なる神の子として第二位格なのだという。この時にイエスは信者における主なのだが、主は第一であるべきという思想による。
端的に言って三位一体の問題点は父を三者のうちの一つに過ぎないとしているところである。父は余りにも偉大な方で三者を父、子、聖霊とした時に全て父に折り畳まれうる。「父なる神は神」「子なる神は神」「聖霊は神」ではなく「父と子は神で子は父から生まれた」「聖霊は神の霊で今からおよそ二千年前に父から子へ継承された」とすべきである。
そもそも私にとってイエス・キリストとは磔刑という形で理不尽な仕打ちを受けたために神からの報いを受けて永遠の命に到達した唯一の人間である。この時旧約聖書におけるアドナイの座を父であるヤハウェから継承し新約聖書の段階における正式なアドナイとなった。更に言えば彼は神の言葉であるため神を言葉として知る限り旧約聖書の段階においても主の側にあった。
イエス・キリストは今から二千年ほど前に神の王国の王として戴冠しこの世の全てを父から相続した。このためこの世の全てのものはそれを越えた神の霊を含めて彼のものなのである。第一義的であったヤハウェから主題の交代が起こり今では第一の存在としてイエスがあると言える。
イエスはまたダビデの子孫としてこの世に現れた光なのであるがダビデの子孫としてダビデの座に着いているということは非常に重要であり、人の子としての一面と神の子としての一面を一つの人物の内に実現している。
三位一体においては第三位格と言われる聖霊或いは神の霊は三つの分け方をする限りにおいてイエスの次の者ということになるが、聖霊とはヤハウェの霊であり永遠かつ無限の命の源である。ここではイエスが父の全てを相続したという観点を働かせるためには初め第二位格は聖霊であったということにならないだろうか。また父と子は一つであるためやはり第二位格は神の子ということになる。ここでは第一、第二、第三という区分が永遠の関係という意味において正統性を失う。
イエス・キリストは今や主であり王であるがこれは初めからそうではなかった。彼は二千年前の十字架の上での業を認められて神の王国の継承者となった。これはかつて神の子と呼ばれていたような天使には叶わないことであり旧約聖書の時代の預言の成就としては甚だ素晴らしいものであった。
そこで永遠の関係としては父と子があり父と父の霊があるということは確かで王の子が王となるように神の子も神であり神は霊であるから神の霊は神である。私にとっては父、子、聖霊とはこの順序でしかないのであるが位格ではない。父と子は一つであるから番号によって切り離されるものではなく、それは父と聖霊もそうである。
三位一体ではなく三聖名などと言い換えても良いかもしれない。それは本質的な問題ではないにせよ、父と子を一と二で分断するのはよろしくないと思われる。よく三位一体の図で三者を同一に三分しているが何よりも最も偉大なのは父である。これによって第一と第二ではなく数学的に言えば非可算無限と可算無限のように「無限の中にも格がある」という様相になっているはずである。これは正確ではないもののイエスが全知全能たりうるのは父と子が一つであること(神は父と子である)と聖霊の力によるのであって完全な人間としての限界を超えるものではない。
神の子が人の子となってこの世に現れた奇跡について私はただただ感動を覚えるのであるが私にとって父は第一、神の子も第一、聖霊も第一である。永遠の関係として子は父から生まれた。二千年前からの関係として子は父から出る全ての霊を継承し自分が決めた相手に永遠の命の保証となるその霊を分配するようになったというのが正しい。