01.彼女の事
転性恋愛のススメ
「今日は冷えるなぁ」
吐く息が白い。ゲームパッドを持つ手が震えている。最近、流行っていると聞いて始めていたFPSのゲームだが、さっきから調子が悪いと思ったら、これが原因らしい。
「えー、寒いとパフォーマンスが落ちるんだよねぇ、って痛っ」
カーテンを開けて外を見ようとするが、部屋がゴミだらけでカーテンまでいけない。むしろ、右足の親指をテーブルの角にぶつける始末だ。カーテンまで行くのがすでに避けゲーみたいになっていた。
「うぅ、痛いけど小指をぶつけるよりは傷は浅い」
年中カーテンの閉まった薄暗い部屋の主、伊藤カンナはそうやっていつものように自分を慰める。この部屋で過ごすならこれくらいで挫けてはいられない。ぶつけた足の指を確認すると少し赤くなっていたが、腫れるほどではなかった。
「もう、冬なんだ」
外を見るのは諦めて部屋の定位置(画面の1メートル後ろ)に戻り、なんとなくつぶやく。4年前に学校に行かなくなってから、あんまり日付や時間を気にしなくなっていた。特に、自動で空調を調整してくれるハイテクなエアコンが来てからは、たまに散歩をする時くらいしか季節を感じない。1日中電気を点けているから、時間も分からない。たまに食料補給で外に出たら、深夜1時でコンビニが閉まっていた事は悲しい思い出だ。
コンビニは24時間?田舎ではそんな常識は通じない。
「早く、エアコン直らないかな」
壁の変色していない一角、エアコンのあった場所に視線を移す。
うちのハイテクエアコンは耐久性に自信があるとの触れ込みだったが、引きこもっている私の為に年中無休というブラック企業も真っ青な職場環境から、限界がきたらしい。2日前にはよく分からない液体を垂らしながら動きを止めてしまった為、入院と相なった。私の求める理想の生活にはまだ時代が追いつかないらしい。
「よしっ」っと気合をいれて、ずっと使っている猫柄の布団と、兄さんが貸してくれた布団の2枚を身体に掛けなおす。少し暖かくなるが、指先の感覚は弱いままだ。覚悟を決めて服の中に指を入れる。指が回復しなければFPSでキルレートを下げるだけなので、今は耐える時間なのだ。
そうして布団に潜っていると、身体が暖かくなって、だんだん意識が薄れてきた。
現実と夢の挟間。その現実感のない瞬間。無意識に4年前の記憶がフラッシュバックする。
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「で、誰が好きなの?」
中学2年の春。昼食後の騒がしい教室の一角。窓際にある私の机の前でクラスの女友達がそう聞いてきた。もう名前どころか顔も覚えていない。記憶の中でも顔にもやがかかっている。
「別にいないよ」
私は曖昧にはぐらかす。
「もう中学生だよ。普通いるよね」
そう言って、もう一人の女友達も詰め寄ってくる。
恋愛話は定期的に行われているが、毎回同じような話をして何が面白いのだろうか?
そもそも“普通”でまとめられるのが納得いかない。むしろ、それなら自分の話をすればいいのに。
「何度も言ってるけど、いないよ。なんで私に聞くの?」
「だって」
「ねぇ」
二人はお互いに目配せし合う。新しいオモチャをもらった子どものように楽しそうだ。
「カンナは分かりやすいのよ。いっつも誰かの事を考えてるでしょ」
その瞬間、私は動揺して視線が宙をさまよう。
女のカンは鋭いっていうけど、まさか女の私がそれを感じる事になるとは思わなかった。
「誰にも言わないから」と
「私たちだけの秘密にしよ」と二人は言う。
秘密は誰かに打ち明けられたがっている。重ければ重いほどに、それを誰かに話したいと、共有し受け入れられたいと。だから、その時勘違いをしてしまった。きっと理解を得られると思ってしまった。
あの人が何でも受け入れてくれる人だったから。
「私の好きな人は・・・」
それは普通の事じゃないと分かっている。さすがに中学生だ。世間の常識だって少なからず持っている。だから、自分の中に隠していたのに。
受け入れられなければ、それは恐怖になる。その時の女友達の目は私に十分な恐怖を与えた。
それから、別に目立ったいじめがあったわけじゃなかった。ちょっと一部に無視されたくらい。でも、少しずつ学校で息を吸うのが苦しくなって、身体が重くなった。そうして、セミが鳴き始める頃には、家の中で毎日を過ごすようになっていた。
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「おい、カンナ起きろ。死ぬぞ、カンナぁ」
「あっ」
気づいたら寝ていたみたいだった。目を開けるとよく見知った男の人の顔があり、私の体を揺さぶっている。分かりやすく心配している表情をしていて、なんか近所の子犬みたいだなとか思うと笑えてくる。
「兄さん大丈夫だから」
カンナが声をかけると「本当か」と兄さんと呼ばれた男、伊藤裕は安心したようにその場に座り込んだ。
「兄さん、今日は帰り早かったんだ」
兄さんは家の近くの施設で介護職をしている。うちは母子家庭であり、母親は仕事であんまり帰ってこない。その為、昔から兄さんが親代わりで私の面倒を見ていた。つまり介護職は面倒見のいい兄さんにとって天職ではないだろうかと私は思っている。
「今、もう21時だからな。また時間も見ずにゲームしてたんだろ」
「あはは・・・」
兄さんは軽く睨んでくるけど、威圧感はない。いつもの事なので曖昧に笑って流しとけばいいだろう。兄さんは忘れっぽいので明日には忘れてくれる。
「でも、ただ寝てただけなのに。なんでそんな必死に起こすかな」
「話の変え方が露骨すぎないか?まあ、いいけど」
兄さんは間を置いて続ける。
「部屋が寒すぎるのもあるけど・・・ちょっと泣いてたみたいだから」
そう言われて、目尻が濡れているのに気づく。
正直やっちゃたなと思う。ただでさえ、引きこもりで迷惑をかけている分、なるべく心配をかけない事を目標にしていたのに。さすがに、寝ている時までは責任をとれない。
「眠たくて、あくびをしたからかな。何でもないよ」
そういいながら、いつもの癖で左手首の傷跡を右手でなぞる。
何とか誤魔化そうとしてみるけど、そんな私を見て兄さんは「・・・そうか」といって寂しそうに笑った。
ああ、またダメだった。私はいつもうまく誤魔化せない、あの頃からずっとそうだ。せめて、大切な人を傷つけない嘘がつけるようになりたいけど、引きこもりの自分にはコミュニケーション的な能力を得るのは絶望的だ。
「そうだ。兄さんにやって欲しい事があったんだよ」
分かりやすく思い出したとでも言うように、右手で拳をつくって左の掌を叩く。そしてテレビの上にあるゲームをとって兄さんに渡す。
なるべく明るい感じで、兄さんとはできれば楽しくしていたいと、その思いが伝わるように。
「・・・ああ、次は何をやらされるんだ。まったく」
兄さんも気づいたみたいで、わざとらしく“仕方ないな”って感じを出す。これは私たち兄妹のいつもの雰囲気だ。すごく安心する。
「これはね。『星降る場所で』っていう乙女ゲーだよ」
手に持ったゲームを笑顔で紹介する。兄さんはあからさまに顔が引きつっていた。
「え、なんでだよ」
「私はね、好きなものを兄さんと共有したいの。それともダメ?」
なるべく可愛らしくお願いしてみる。まー化粧どころか、顔も洗っていないし髪もぼさぼさの今の状態にどれだけ効果があるかは不明だが、妹というフィルターに期待するしかない。といっても大丈夫だろうけど。
兄さんは少し考えた素振りをしていたが、「分かった、やってみる」とゲームを持って部屋に戻って行った。昔からずっとそう、そういう人なのだ。
ちなみに、帰り際にゲームの時間がどうだとか、しっかり寝ろとか何とか言っていたが気のせいだと思っておこう。私はそういう人なのだ。
「よしっ」
本日2度目の気合を入れる。兄さんと話したら、身体も気分も暖まったので、再度ゲームパッドを持ち直す。でも、布団から手を出すとやっぱり寒い。兄さんが居なくなった部屋は最初よりもさらに寒い気がする。早く明日になって兄さんが起こしに来てくれないかなと、もう一度兄さんの出ていった扉に視線を向ける。
(ははは)
そんないつも通りの自分に少し笑えてくる。ゲームは少し惜しいけど、今日は早く寝よう。明日は特別な日なのだ。とても、とても特別な日。
布団の中でさっきまで話していた兄さんの顔を思い出す。少し抜けていて、かっこいいとはいえないけど、とても優しい表情の人。思い出すだけで幸せな気分になってくる。今日は兄さんが夢に出てくるといいなぁと考えながら目を閉じた。
それからすぐに睡魔がきて、両手で握っていた“それ”は思ったより睡眠の邪魔をする事はなかった。
私の思考が闇に沈んでいく・・・
ねえ、兄さん。私の最後のお願いキイテクレル?