パワーバランス
春、息子が小学校に入学した。毎日ランドセルを背負い、明るい笑顔を見せて登校してくれるのはありがたいんだけど、もう少し物を大切に扱ってほしい。入学一週間で消しゴム一個、鉛筆三本、どこかで失くしてしまった。もう失くさないでね、と溜め息交じりの小言。せめて、ランドセルだけは大事に使ってほしい。高かったんだから。
「おかーさん、これ」
息子が一枚の紙を手渡してきた。『参観日のお知らせ』か。上から下までざっと目を通すと、懇談会のお知らせも書かれていた。
(懇談会ね)
いつか来るとは思っていたけど、少しだけ気が重い。
「おかーさん! おれ、めっちゃ手挙げるの早いから」
傍で息子が何度も挙手する。確かに動き自体は素早いけど、ちゃんと分かって挙げくれるんでしょうね。
「『おれ』じゃなくて『ぼく』でしょ。で、『めっちゃ』じゃなくて、『すごく』」
一応言葉の手直しをしておく。「はーい」と言いながら、息子はなおも手を挙げる練習に精を出していた。まあ、元気が一番、……よね。
それにしても不思議な感覚だ。私が息子ぐらいの時、親は今の私と同じくらいで、親が今の私と同じぐらいの時、私は息子くらいだったのだから。
小学生のころの記憶が蘇る。私はもう一度、『参観日のお知らせ』に目をやった。
私が小学校に上がり、初めて担任となったのはミドリという先生だった。小柄で優しくて、少し儚げな感じの先生だった。
音楽の時間に、『先生のあだ名はマントヒヒ』という歌詞がある歌を習った。その時、クラスのリーダー的な男の子、……ううん、ガキ大将かしらね、――が、声を上げた。
『先生にマントヒヒは合わない。他の名前がいい!』
私はその時まだ、マントヒヒという動物がどんな動物なのか知らなかったけど、クラスメイトがガキ大将の意見に同調したため、そのまま流された。(今なら結構酷い動物に例える歌だなと思う。ガキ大将の意見は正論だった。)
ミドリ先生のあだ名は『モンシロチョウ』に決まった。白くてひらひら可愛らしい蝶々はミドリ先生にピッタリだった。それ以降、私のクラスだけ『先生のあだ名はモンシロチョウ』と歌うようになった。
二学期の終業式で、ミドリ先生がお休みされることが告げられた。理由は、赤ちゃんが生まれるから。つまり、ミドリ先生は産休に入られたのだ。幼すぎて事情があまり呑み込めなかった私は、ただ『そうなのか』と流した。
三学期から、アオイ先生という新しい先生が来られた。今でも鋭い記憶として残っている。
小学一年生は、まだ幼稚園児の延長みたいな存在だ。授業が始まっても騒ぐ子などざらにいた。
『うるさい!』
アオイ先生の怒号に、一瞬にして教室内が静かになった。叱責に委縮して静かになったのではなく、驚愕で皆黙ったのだ。今の音は何だったんだろうと、呆けてしまったのだった。
土地柄が良かったのか、私たちは声を荒げられることに慣れていなかった。大人というものは、怒鳴ったとしても後には優しく諭してくれるものだとも思っていた。大人になった今だからこそ思いつく表現だけど、子供に遠慮する素振りがあるものだと思っていたのだ。つまり、ミドリ先生なら、『皆、静かにして』と注意したと思われるところを、アオイ先生は自身の感情のままに怒鳴ったのだった。
アオイ先生は怖い先生だった。厳しいのではなく、怖い先生だったのだ。
授業中、どこをやっているのか分からなくなって、きょろきょろしている生徒がいると、先生はその子の頭を思いっきり掴み、その子の顔面を机に置かれた教科書に押し当てた。
『どこを見ているの! ここよ! ここを見るのよォオオオオ!』
ヒステリックに叫んで、子供のおでこを教科書にグリグリ。今やろうものなら、一発でアウトの事案ではないだろうか。
そして、冷たい人だった。
『先生、誰々ちゃんと何々くんが喧嘩をしています!』
そんな生徒の報告に、
『なら遊ばなきゃいいでしょ!』
と面倒臭そうに、でもヒステリックに、言いつけた生徒に声を散らす人だった。
私はそれまで、大人とは子供に寄り添ってくれる存在だと思っていた。なので、もしそういった報告を受けたなら、先生は喧嘩をする二人の間に入り、双方の言い分を聞き、和解へと導くものだと考えていたのだ。でもアオイ先生が子供同士の喧嘩に仲裁に入ることは滅多になく、入ればとても面倒臭そうだった。無垢な私の大人に対する理想像は、アオイ先生によって打ち砕かれたのだった。
私は母親に、アオイ先生は怖いから嫌だと訴えた。でも当時は、親より教師の方が立場が上だったのだろう。地域柄もあったのだろうが、いち保護者が教師にクレームを入れるなど当たり前ではない時代だった。勿論、そんな保護者が全くいなかったということはないのだろうけど、『モンスターペアレント』などといった言葉もない時代の話だ。
『あの先生は低学年を教えるのに向いていないのかもね』
私の母親もアオイ先生の態度に憤ることはなく、クジ運が悪かったといった程度の口調で私の言葉を流してしまった。
そんなアオイ先生にも、一人お気に入りの生徒がいた。名前は、モクダさん。
モクダさんは、大人しい女の子だった。そのうえ真面目だったから怒られるようなことをすることもなかったのだけど、とにかくアオイ先生はモクダさんがお気に入りだった。
授業中、懸命に手を挙げるクラスメイトの中でさりげなくモクダさんが手を挙げれば、先生は嬉々としてモクダさんを当てた。他の子なら目も呉れず当てるのに、モクダさんを当てるときは決まって、『私、あなたが手を挙げてくれるのをずっと待っていたのよ』と言わんばかりに微笑んだのだ。
他の子が『寒い』と訴えれば、『冬が寒いのは当たり前でしょ』と素っ気なく答えるのに、モクダさんが『寒い』と零せば、先生は慌てて体育準備室に向かった。体育時に使っている自分のジャケットを取りに行ったのだ。先生はそれをモクダさんに着せて、
『大丈夫かな。風邪引いちゃったかな』
と、いつもでは考えられないくらい細い声で、モクダさんを気遣ったのだった。
大人になった今では、先生にも言い分があったんだろうなと想像できる。既出だけど、モクダさんは大人しい女の子だった。そんな子がわざわざ、先生に『寒い』と訴えたのである。モクダさんの声に敏感に反応したのは、『普段そのようなことを言わない生徒が訴えてきたということは、その子に非常事態が起こっているということだ』と考えたからではないか。そう捉えると、ジャケットを貸したのは、的確な処置だとも考えられた。ただそれを今の私が考慮しても、当時の私は何となく、もしそれが別の生徒だったのなら、アオイ先生はそこまでしなかったのではないだろうか、と思ったのだった。
ある日、私はモクダさんにお誕生日会の招待状を貰った。当時、私の学校ではお誕生日会が流行っていたので、例に洩れずモクダさんもお誕生日会を開いたのだ。私はプレゼントを持って、モクダさんの家に行った。
モクダさんの家に着いた私は、感嘆の声を上げた。三階建てのコンクリート住宅には部屋が何室もあり、お風呂やトイレが何個もあった。余談だけど私の実家もそこそこ大きな家で、それまで遊びに来た友達が感嘆の声を上げる姿を幾度となく見ていた。今まで自分の家以上に大きな家に遊びに行ったことがなかった私は、初めて『負けた』といった感情を抱いたのだった。
帰り際、モクダさんのお母さんが来てくれたお礼にと、手作りのクッキーを持たせてくれた。勿論、お礼を言って帰ったのだけど、家で袋を開けた私は何とも言えない顔をしていたと思う。
当時の私の頭にあるクッキーというものは、ハートや星型といった形に整えられた『型抜きクッキー』のことだった。ところが、モクダさんのお母さんがクッキーだと言って下さったものは、歪なラングドシャの様な生地の上に、アーモンドスライスが散りばめられたものだったのだ。今ではそういったクッキーを洋菓子店で見ることがあるし、『当時ならデパートでしか売っていなかったようなハイセンスなクッキーだったな』と判断できるだけの知識、経験もある。子供だった当時の私は『これがクッキー?』と、首を傾げたのだった。
豪邸にハイセンスなクッキー。(勿論、当時の私はそのクッキーがハイセンスなものだと分からなかったけど。)当時から少しばかり斜に構えていた私は、ある仮説を立てた。
『モクダさんはお金持ちだから、先生のお気に入りなんだ』(無垢な私とやらはどこに行った。)
私はその仮説を母に話した。
母はすぐに私の仮説を否定した。
『昔ならあったかもしれないけど、今、公立の先生は『公務員』って言って、市や国からお給料を貰っている人たちだから、お金持ちの家からお金やプレゼントを貰ったりしてはいけないのよ。だからお金持ちの家かどうかで生徒を可愛がったりしないと思うわよ』
丁寧にかみ砕いた口調だとは思うけど、小一の子供相手に随分シビアな説明をしたものだ。今、母と同じくらいの年になって思う。
そして、母は自身の意見を述べた。
『そうじゃなくて、モクダさんのお家が――をしているからじゃないかしら』
当時の私は、『――』という言葉を知っていた。けど、その単語の正確な意味までは知らず、そのためモクダさんの家がそうなら、なぜ先生がにこにこするのかも分からなかった。特に興味もなかったので、私はそれ以上突っ込んだりせず、その話を終わらせた。
三学期が終わり、アオイ先生は学校を去った。二年からは別の先生となり、二学期の後半からミドリ先生が戻ってきた。
三年の終わりに、モクダさんは転校した。引っ越しをしたのではなく、私立の小学校に変わったのだ。当時の私はすでにクラスが違ったので、それを知ったのはそれより後のことだった。
私が高校生のころ、母親とお茶を飲みながら話をしていると、モクダさんの話題が出た。
『エスカレーター式の学校に進んだから、今は時々学校を休んで、お父さんの仕事に付いて海外とか行ってるらしいわよ』
それを聞いた私は、やっぱりお金持ちだったんだと頷いた。(大体合っているのかもしれないけど、海外を飛び回るような仕事をしている人はお金持ちだと思っていた。)
久しぶりにモクダさんの話を聞いて、私は先程述べた記憶を思い出した。モクダさんに甘かったアオイ先生。アオイ先生の態度で、私やクラスメイトは『贔屓』という言葉を覚えた。
でも、モクダさんはそれを鼻にかけることはしなかった。だからクラスの誰もモクダさんを嫌ったりしなかった。
『そうじゃなくて、モクダさんのお家が――をしているからじゃないかしら』
当時の母の声も蘇った。
そうか、と、私はその年になりようやく理解した。
『そうじゃなくて、モクダさんのお家がPTAをしているからじゃないかしら』
モクダさんのお母さんは、『PTA』の会長だったのだ。保護者個人がなかなか教師に訴えられなかった時代、唯一教師陣と対等の立場を得ていたPTA。モクダさんのお母さんはそんなPTAの会長だったのだ。なるほどね、と、思わず呆気に取られ変な笑みが零れた。
アオイ先生は、モクダさんを気に入っていたのではない。先生は、モクダさんを恐れていたのだ。勿論、親の立場に関係なく、ただモクダさんが可愛かったという可能性は考えられる。PTA会長の娘がモクダさんだったからこそ、本当に可愛いと思っていた可能性も考えられる。けどきっと、愛情より強い畏怖の念を抱いていたのだと思う。
モクダさんに向けるアオイ先生の優しい目は、モクダさんに媚びを売る目だったのだ。たった六つ、七つの少女に、先生は媚びていたのだ。
モクダさんのお母さんは、決して高慢なタイプの人ではなかった。キビキビというほどの威圧感もなく、教育ママらしい研ぎ澄まされた空気も纏っていなかった。(後々私立に行ったのだから、多かれ少なかれ教育ママだったのかもしれないけど。)
勿論、それは当時子供だった私が抱いた印象でしかない。けど、今思い出してみても、今で言うところの『ボスママ』ではなかったと思う。少なくとも、『もしそうだったのなら、少しショックだな』と感じる意識が芽生えるほどには、モクダさんのお母さんに好印象を抱いていた。
そんなモクダさんのお母さんは、アオイ先生に何かを言ったのだろうか。モクダさんが『寒い』と訴えた時、もし先生が他の生徒と同じようにモクダさんを扱っていたなら、彼女のお母さんは先生に何か言っただろうか。もし言ったとしたら、何を言っただろうか。
モクダさんは、自分の母の立場を知り、自分の立場を分かっていたのではないだろうか。先生の贔屓に、時折居心地の悪そうな苦笑を浮かべていたモクダさん。でも彼女は、先生が自分を他の生徒と同じように扱えないことを、知っていたのではないだろうか。
『私を他の子たちと同じように扱ったら、どうなるか分かりませんよ?』
両目にそんな色を湛え、大人しい彼女は静かに微笑んでいたのかもしれない。
自分の最早妄想ともいえる想像が怖くなり、私は『参観日のお知らせ』を机に置いた。