サヨナラの手前
ふらふらとした足取りのまま、私は神社に辿り着いた。
午後六時。夏の日はだんだんと傾き始めている。こんなに神社が遠くに感じたのは、自転車を置き忘れてしまったからだろうか。それとも、
私は砂利を踏みしめるようにして歩く。その時、小さな影が提灯の灯りに照らされてうっすらと浮かび上がった。
「……彩乃?」
縋るようにして叫ぶ。返事はない。その代わりに、影の主がその声に反応して振り返る。
リン、と鈴の音が鳴った。
果たしてそこにいたのは、彩乃ではなかった。
白装束を纏った、小さな女の子。頭の上には狐のような耳、服の裾からは大きな尻尾が伸びている。
「おお、そなたか。……実は儂らは夢の中で一度話しておるんじゃが、そなたは覚えてはおらんじゃろう」
狐の姿をした少女は薄ら笑みを浮かべながら言う。その声は彩乃とどこか似ているように感じるが、どこか重々しいような、貫禄が入ったように聞こえた。
「あの、彩乃……私と同じくらいの歳の女の子が、ここに来ませんでしたか」
「ああ、あやつはさっき成仏してしまいおったぞ」
「嘘」
分かっていた。
そんな気がしていた、なんていう曖昧なものではなく、そうなのであるという確信があった。
だが、いざ目の前でその事実を告げられると、やはり私は受け止めることができないでいる。
何かを言おうとしたが、それは声にはならず喉の奥から乾いた音がヒューヒューと鳴るだけであった。
「嘘ではない」
「嘘よ。嘘に決まってる。だって私、まだ……」
「まだ、何かあるのか? それとも、儂が嘘をついて何か良いことでもあるか?」
「それは……」
私はまだ、期待しているのかもしれない。
誰かが、彼女の死を否定してくれることを。
狐の姿をした少女は静かに私のことを見ている。一方の私はと言うと、その場にぺたりと座り込んでしまう。しかしまたすぐに立ち上がり、切羽詰まって少女の肩を掴んだ。
「ねえ、お願い。もう一度、もう一度だけでいいの。彩乃をここに呼んで」
「それは無理な願いじゃの。そなたの友人は既に儂の手を離れてしまった。もう儂の力ではどうすることもできん」
「お願い、そんなこと言わないで。本当はできるんでしょう? ねえ」
声が擦れ、視界がぼやける。
「だって、私、まだ、何も」
「まったく、せっかくあやつは未練を晴らして成仏したというのに、今度はこっちが残心ありといった様じゃの。人間というのはつくづく面倒な生き物じゃ。……仕方ない。いいな、よく聞け。最初から、お前の友人はここにはおらなんだ。あれは、儂があやつのフリをしておっただけじゃ」
「嘘」
「さっきも言ったじゃろう。儂が嘘をついて何になる。儂は性来、化け狐じゃ。人を騙すためにここにおるようなものじゃからの。……ここの神主は毎年儂に油揚げを供えてくれるのじゃが、どういうわけか去年はそれが無かった。だから儂は今、機嫌が悪い。一つ、誰かを化かしてやりたくなった。そこに現れたのが、そなたじゃ。丁度良いと思い、儂はそなたの供人のフリをすることにした」
「そんな、一年も前のこと……」
「儂にとっては一年など些細な時じゃ。何百年も前から、ずっとこの神社に住み着いておるのだからな」
眉一つ動かさず、狐の姿をした少女は言う。
「儂の声がどう聞こえている? あやつと似ておるじゃろう。それはな、そなたには儂の声があやつと同じように聞こえているだけじゃ。全て儂がそうさせておる」
「そんなの嘘よ。だって」
私の目の前にいた彩乃は、間違いなく私が知っている彩乃だった。楽しそうに笑う彩乃。慌てた表情をする彩乃。そして、寂しそうに別れを告げる彩乃。
膝に力が入らない。私はまたその場に崩れ落ちる。涙を堪えきれず、そのまま泣き出してしまう。
「だって……だって……」
私には、狐の少女が嘘を言っているのだと確信があった。否定する理由ならいくらでもある。だけど、
「いや……そう、なんだ……」
私がその嘘を否定しなかったのは、それが人を化かすためについた嘘ではないということに気づいていたからなのかもしれない。
涙が溢れる。もういつの間にかびしょびしょになっていた服の裾で顔を擦り、上を見上げる。夜空に浮かび始めた星が滲んで見えた。
「手のかかる人間じゃな。……一つ、いいことを教えてやろう」
「……何?」
「儂があやつのフリをしておったのは本当じゃ。儂はなんでも知っておるから、たかだか人間の真似をすることなど容易い。そして儂は、あやつがどんな残心を持っていたかも知っておる」
電車で隣に座った人間のことを言うように、狐の少女はさも興味がないというような口調でそう告げる。
「それはな。そなたが、自分が死んだことに残心なきようにすることじゃ」
リン、と鈴の音が響く。涼花は背後に誰かの気配を感じ、振り返る。
が、そこにいたのは初老の男性であった。手にしているお盆には、数個のいなり寿司が載せられてある。ここの神社の、神主だろうか。
「こんな時間に、ようお参りで。でも、お嬢さん一人だと夜道は危ないですぞ」
「……すみません」
呆気に取られる私に、神主の男性は、はっはっは、と朗らかに笑った。
「何も謝ることではありませんが……くれぐれも、狐なんかには気をつけてくださいな」
「狐?」
「そうです。狐……と言っても化け狐ですがな、この町には古い言い伝えがありまして。
夏の夕方……それも日が暮れかけた大渦時になると、狐の妖怪が出ると言われておるんです。それがまた悪い狐で、人間に悪い悪戯ばっかりするもんですから、大人しゅうしておいてもらうために、こうして毎年夏になるといなり寿司を神棚に置いておくんですな。お供え物……というのはちょっと違うかもしれませんがな」
「いなり寿司……そうだ、毎年、そうしてるって言いましたよね。去年は、どうしていなり寿司を供えなかったんですか?」
「はて、毎年同じ日にお供えするようになりましたからな。去年もちゃんと、お供えした筈ですがな……供えた後のいなり寿司は、毎年家内と一緒に食べるんです。去年も食べたことははっきり覚えてますし、供え忘れたということはないと思いますがなあ」
「そう、ですか……」
「丁度いい、誰かのお供え物でしょうが、昨日ご神体の前にこれが置かれてあったんです。供え終わった物はお参りに来た人に順に召し上がって頂くんですが、折角ですし、お嬢さんもいかがですかな」
「……じゃあ、一つだけ」
私は神主の男性が差し出したお盆に手を伸ばす。その時、
リン
と鈴の音が再び鳴った。私は振り返る。しかし、そこに狐の姿をした少女はいない。
「……でも、たぶん私を騙したのは、悪い狐じゃなかったみたいです」
神主の男性は呆気に取られたような表情をする。
「はて、化け狐が悪さをしないなんて、妙なこともあるもんですな」