遺影
家の前まで辿り着く。先ほど彩乃が言った通り、中に誰かがいる気配はない。
郵便受けには乱雑に差し込まれた新聞がそのままになっている。手を触れると、少し湿っていた。昨日の夜に少し降ったのかもしれない。
私が自転車を家の前に止めると、彩乃は先に自転車から下りた。
「鍵はポストの中に入ってるよ」
「分かった」
ポストを内側から開けると、確かに鍵が入っていた。私はそれを手に取り、おそるおそるドアの鍵穴に差し込んだ。
かちゃ、と気の抜けた音がして、ドアが開く。
「おじゃまします……」
ドアを開くと、どことなく重苦しい雰囲気が漂っていた。
誰もいないからだろうか。いや、それはきっと違う。
私は靴を脱ぐと、砂が落ちないようにそのまま左手に抱えた。なんだか悪いことでもしているような気分だった。
「お茶でも淹れてくるよ」
そう言ってキッチンに向かおうとする彩乃を、私は引き留める。
「待って」
誰かが入った形跡があったらまずいだろう、と私は言おうとするが、私が言うよりも早く、彼女は理解した。
「……そうだね。上の部屋に上がろっか」
彩乃の部屋は二階だ。私は彩乃に連れられて階段を上る。
その時、リビングの扉が少しだけ開いていることに気がついた。私はその隙間から中を覗き込む。そこには、
――私は無言のまま階段を上った。
「さて、と」
彩乃は綺麗に整えられたベッドに腰掛ける。綺麗に整えられたシーツにしわが入る。
「凉花も座ってよ」
彩乃が指差す。私は小さなテーブルの前に置かれた座布団に腰掛けた。
なんだか変な感じだ。
いつもよりよそよそしい彩乃。きっと私もそうだ。私達は、いつも二人でいるときどんな風だったのだろう。
二人きりの部屋の中に、沈黙が流れる。何か話題を探さなければ。
「ねえ、人間って死んだらどうなると思う?」
言い終えてから、私ははっとして口を手で覆う。何を言っているのだ、私は。
「うーん……さあ?」
が、以外にも彩乃の答えはあっけらかんとしたものだった。
「現に、私はこうしてここにいるんだし。死んだらはいこれでおしまい、ってワケじゃなくて、何かしら魂みたいなモノは残るんじゃないかな」
あの狐の少女が言っていたと聞いた。人は死んだら輪廻転生の輪の中に戻る。新しい命として生まれ変わる。
それは素敵なことなのかもしれない。でも、たったそれだけのことなのだろうか。今まで生きてきた自分という存在は、どのみち消えてしまうのだ。それってそんなに良いことなのだろうか。
「ねえ、怖くないの」
私はたまらず口にした。彩乃はそう言った私のことをじっと見ている。
「私は怖い。だって――」
その時。玄関のドアが開く音がした。
まずい。彩乃の姿を見られるわけにはいかない以上、今の私がやっていることは泥棒と同じだ。
助けを求めるように振り返ると、彩乃と目が合った。
「行くよ」
そう言って、彼女はカーテンを開き、窓の鍵を外した。
「待って、」
「大丈夫だよ」
彩乃は私の手を取る。その手はさっき自転車に乗っていた時よりもずっと重く、そして温かかった。
「私がついてる」
彩乃は私の手を強く引き、窓から飛び降りた。私はぎゅっと目を瞑る。そして、次に目を開いた時――私は地面の上に仰向けになって倒れていた。そのまま起き上がる。どこも、痛いところはなかった。
『まったく、手間をかけさせよって。寿命を延ばす話はこれで帳消しじゃ』
どこからか、そんな声が聞こえた。
何はともあれ、ひとまず助かった。私までここで死んだらまるで友人の後追いをしたみたいじゃないか、と我ながら面白くもないような冗談を考える。
彩乃は無事だろうか、まああれだけ軽ければやはりこの高さから落ちてもなんともないだろうか。そんなことを考えながら、私は声をかける。
「彩乃、どこ? 大丈夫?」
返事は無かった。
「彩乃?」
辺りを見回すが、誰の気配も感じられなかった。
「返事してよ。ねえ、」
私は起き上がり、ふらふらと歩きながら呼び続ける。
道行く人が、訝しげな目で私のことを見る。そんなことはどうでも良かった。
先に逝ってしまった親友の名を口にしながら、私は駆け出した。
止めたままの自転車のことも忘れて。
開けっぱなしの窓のことも忘れて。
けれど、どれだけ呼んでも、
声が嗄れるほどに叫んでも、
走り続けるうちに、段々と足に力が入らなくなってゆく。
何かに躓いて転けた。
うずくまったまま見ると、膝を擦りむいていた。
私は振り返る。私の足下には何も無く、代わりにポケットから転がり落ちたケータイがすぐ手元にあった。私が拾い上げると、画面が点灯した。そして、私がどれほど長い間泣き続けていたのかを思い知る。
午後五時。どこか遠くから、チャイムの音が聞こえた。
あと三部くらいで終わります。