二話
生まれたときから世を倦んでいた。
くだらないものを背負わされたものだ、と。
「今日もお早いですな、マグナス閣下」
「斯く言うお前も随分と早い。なにかあったのか、ナイゼル」
ナレシュが執務室へ向かっていると前方からふらりと影のようにナイゼルが現れ、ナレシュを見るなりゆうるりと敬礼してみせた。
今更この男にどうこう言うのも馬鹿馬鹿しく、ナレシュ自身もおざなりな敬礼を返せば相も変わらず品のないいやらしい笑みを向けられる。
「朝からマグナス閣下の御尊顔を拝謁できて、なんとも光栄だと感謝に震えている次第です」
「戯言だ。常々思っているが、お前はもう少し真面目な顔をしたほうがいい」
「おや、私は常に真面目なのですが」
頬をなぞる仕草は道化染みていて、真面目からは程遠い。分かっていてやっているのであろうことは明白で、そういうところも含めてナレシュは苛立ちを覚えるのだ。
そうしてナレシュが苛立つと、ナイゼルの碧色の目は愉快を帯びて細められ、いっそ童女のような純粋さすら感じられるようになる。その皮肉な差異を見ていられず、ナレシュは視線を逸してナイゼルの横を通り過ぎようとする。
ふわり、鼻先を掠める香り。
先日のパーティーで会った際につけていた香水は、普段遣いのものらしい。鼻につくようなものではないからいいが、病んだ女が如き風情のナイゼルがまとえば健気な花のような印象を抱かせた。
この男に健気などと、とナレシュは自身に呆れる。
執務室へ向かう脚は、自然と早足になった。
聞こえた足音に、ナイゼルもまたどこぞへと向かったのだと背中に感じて、態々気配を辿ってしまった己にナレシュは苛立ちを重ねる。ナイゼルと関わって心穏やかでいられた例がない。だからこそ、余計にあの男を好ましく思えないのだ。
眉間に皺を寄せて執務室へ入ってきたナレシュを、先に来て諸々の準備をしていた副官が苦笑を浮かべて迎えた。
「エリアスにでも会いましたか?」
「……何故ナイゼルが出てくるのだ」
「閣下がそのように不機嫌を顕にされるのは、ナイゼル・エリアスのこと以外にありませんから」
「それ以外では内心で納めてしまうでしょう」と年上の顔をする壮年の副官に、ナレシュは苦いものを飲み込んだ顔をする。自覚がないといえば嘘になる。
威嚇のために内心を見せることはある。だが、それは一瞬見せればいいもので、今のように態々距離を歩いてまで引きずってくるようなものではない。
ナイゼルという男に対する苛立ちは長引くのだ。ナレシュの神経に引っかかって暫くぶら下がり続ける。質が悪いことに、引っかかりがなくなったと思えば本人が再びナレシュの前に現れて、道化染みながらちっとも面白くない言動でナレシュの神経を引っ掻いていく。その繰り返しだ。
浅いひっかき傷も、いずれは深くなって、いまではナイゼルの姿を見るだけで眉間に皺が寄るようになってしまった。
「あれで優秀な男です、どうか寛大なお心でいてやってください」
「お前はどうにもあれに甘い」
「エリアスくらいですからね。閣下に面と向かって平然としているのは」
微笑む副官の視線は、正確にはナレシュの目を見ていない。眉間、額、その辺りを見ている。
思い返せばナレシュの目を無遠慮に覗き込むのは、碧色の眼差しばかりだ。
同じアルファであっても長く目を合わせるものはいない。睨みつけようものなら先日のように青褪めて飛び退る。
「……あれは頭がおかしい」
「抜けているネジがあなたへの過剰な畏怖であるのなら、それはそれで歓迎するべきでは? 一々煩わしい反応をされない相手など、友人にぴったりではありませんか」
「友人? あれを?」
ばかなことをいうな、とナレシュは失笑する。
反応が煩わしくないとしても、存在はそうではない。
「視界に入るだけで煩わしい。あれの長所など剣術と……顔に似合わず品のいい香水選びくらいだろう」
しみじみと言ったナレシュに、副官は不思議そうな顔をした。
「香水ですか? はて……エリアスからそういったものは……まあ、私は閣下ほどエリアスに絡まれたことはありませんからね」
一人納得したように頷く副官の反応に違和感を覚えたが、差し出された書類の重要性に勝るものはなく、ナレシュは違和感の正体を考えることなく流した。
平時となれば後方勤務に務めていられるが、一度争いが起きればナレシュは前線に立つことになる。
書類一枚も、そのときの状況を左右するものになりかねない。
ささやかな違和感など、一々かかずらっていられるわけがないのだ。
そのはずなのだ、とナレシュのどこかで言い聞かせる自分がいた。
「…………まずい……効きが段々悪くなっている」
呟くナイゼルの青褪めているのに熱っぽい目元は病んだ女の風情を増して、いっそ扇情的に見える。
人気のない廊下で、ナイゼルは取り出した錠剤をがりがりと噛み砕いた。
がりがり、がりがり。
がりがり、がりがり。
病的なまでに必死に、多くの錠剤を噛み砕き、飲み込んだ。
涙が滲むほどに苦い味を、ナイゼルは飲み込んだ。