06.今更ながら気付いた
「直ぐに修理業者を手配します」と返答した筈の管理会社からは修理日についての連絡は来ず、理子と鈴木君の壁越しの会話は続いていた。
意外な事に、鈴木君は彼女や浮気相手を部屋へ連れ込むことはせず、理子の話とは少々ズレた会話のキャッチボールをしてくれる。
就寝前の30分程の会話。
僅かな時間でも、彼と話せば仕事で疲れた気分は楽になる。
一人暮らしを始めて以降、仕事関係以外の知り合いと会社の愚痴や日常会話が出来るのは、こんなにも貴重なのだと知った。
「やっぱり余計なお世話だったんですかねぇ。新入りちゃんが可愛くて、私が新入社員の時に困った事を色々アドバイスをしていたら疎ましく思われちゃったみたいで……」
今夜も理子は、隣室と繋がる壁の前に座布団を敷いて座る。
防音シートを貼った壁に向かい、最初は当たり障りの無い日常会話をしていたのに、いつの間にか職場での愚痴を吐き出していた。
睡眠不足の悩みを解消した理子が煩わされているのは、新入社員として同じ部署に配属された後輩の事だった。
入社して三年目、初めて指導を任された可愛らしい、小動物っぽいふわゆる系の新卒の後輩ちゃん。
可愛い後輩ちゃんから「面倒見のよい先輩」と慕ってもらえるよう、張り切ってやれたのは最初の二週間だけ。
彼女の覚えの悪さと、時々見える男性社員に媚を売るような仕草に、少しばかり言葉に棘が混じってしまっても仕方がないと思う。
「まさか陰口をたたかれているとは思わなかったな。でも、仕事を円滑にするためと私の評価にも関わってくるため仕事を覚えてもらわなきゃならないので、陰口は聞かなかったことにして仕事を教えているんですよ」
今日の昼休み、トイレへ行く途中で目撃してしまったあの光景。
まさか、勤務時間中の職場の階段前で上司に理子の愚痴を訴えた後輩を上司が抱き締めるなんて。
見た瞬間は、衝撃と共に頭痛と目眩で倒れそうだった。
上司は30歳と若く、見た目もなかなかのイケメンだが、生まれたばかりの赤ちゃんのお子さんもいる既婚者だ。
(不倫はまずいだろ)
職場恋愛肯定派の理子でも、不倫や浮気は受け入れ難い。
明日から二人にどんな顔をして接すればいいのかと、気分はどんよりと沈んでいた。
可愛がっているつもりの後輩に嫌われた事もショックだけど、同時に最近上司に冷たくされていたのはそう言うことか、と理解出来た。
「何故、気に食わぬ者に対して我慢する必要がある? 従わぬ者は叩き潰せばよかろう」
悶々と考えていた理子の思考は、鈴木君の言葉によりスッパリと断ち切られる。
「いや、私の言ったこと分かってる? 仕事を覚えてもらったら会社も助かる私も助かるって」
「くっ、馬鹿な女だ。我は気に食わぬ者は直ぐに消すぞ」
(それって、社会的に? 存在そのものを?)
果たして彼の言う「消す」とはどちらの意味か。
「け、消すってどんだけ権力者? ってか鈴木君はお坊っちゃまですか?」
今時青年の鈴木君は、実はお金持ちか権力者の血縁者なのか。
庶民の生活を知るために、お忍びで庶民的のマンションに住んでいるとかだったらどうしよう。
理子の問いに、鈴木君がフンッと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「我はお前の隣人だろうが」
「あぁ、確かにお隣さんだったね。あのね、愚痴を聞いてくれてありがとう。ちょっと楽になった、かも」
いくら落ち込んでいたとはいえ、年下の鈴木君に愚痴を聞いてもらうだなんて情けないような恥ずかしい事かも。
今更ながら、そう思った私の頬は熱をもった。
壁越しで良かった。今の私は赤面している筈だ。
「やはり……変わった女だ」
黙ってしまった理子の耳に、壁の向こう側からクツクツ笑う声が届いた。
***
「山田さん、お帰りなさい!」
残業を終えて疲労困憊でマンションの部屋まで辿り着いた私に、お隣の鈴木君がにこやかな笑顔で挨拶をする。
パーカーにジーンズという若者らしい服装の鈴木君は、これから何処かへ出掛けるようだった。
「こんばんは。鈴木君、これからお出掛け?」
「夏休みに向けて金貯めたくて、昨日から夜から朝までのバイトを始めたんっすよ」
「へーバイト? えっ……?」
口に出してから、言葉の意味を理解した私は驚きのあまりに大きく目を見開いた。
「昨日、から? えっ? じゃあ昨日の夜は? 家に居なかったの?」
動揺してせいで若干声が裏返った私を、不思議そうに見ながら鈴木君は首を傾げる。
「朝の6時までバイトだったから、家には居なかったっすよ?」
「……誰かが泊まりに来ていたとか、は無い?」
「勝手に入る以外は……いやいや、怖いことを言わないでくださいよ。あ、やべっ、俺そろそろ行きますね」
チラリと腕時計を見た鈴木君は、軽く頭を下げると慌てた様子で走り出す。
「いってらっしゃい」も言えずに、理子は走り去る鈴木君の後ろ姿を呆然としながら見送った。
「……うそ。鈴木君じゃ無いの?」
昨夜、壁の向こう側にいて会話をしたのは一体誰なのか。
「じゃあ、あれは誰?」
違和感は最初からあったのだ。
もしかしたら、初めて声を聞いたら時から壁の向こう側の彼は鈴木君では無かったのかもしれない。
「どうしよう」
今夜も“彼”から話し掛けられたらどうしようか。
見知らぬ相手とずっと会話をしていたなんて。
玄関扉の鍵を開けずに今夜はホテルに泊まろうかなと、理子は途方に暮れてしまった。
ちょっと気付くの遅い。