11.魔王の挑発
「火急の用がある」とやって来た魔王の従者に連れられて、大陸諸国会議の間魔王が滞在している神殿を訪れたアネイル国宰相は、強張った表情で魔王の待つ部屋へと足を踏み入れた。
豪奢な椅子に足を組んで座する魔王は、在位年数からみたら信じられないくらい自分よりも若く美しい外見をしている。
しかし、その身に纏う他者を圧倒する雰囲気と魔力に、宰相はごくりっと喉をならした。
恭しく頭を垂れて挨拶をする宰相に、魔王は椅子へ座るように指示する。
「安心するがいい。この空間は閉じてある。我と同等以上の魔力の持ち主以外は遠視も盗聴も出来ぬ。今宵、宰相殿を呼んだのはじっくりと話をしたかったためだ」
静かな口調で用件を告げる魔王に、宰相は内心で安堵の息を吐いた。
行方知れずだった自国の第三王子が秘密裏に国へ戻ってきたのは、魔王の力が働いたためだとテオドール本人から聞いていた宰相は意を決して口を開く。
「魔王陛下、無礼を承知で御聞きします。アネイル国王が病に臥せったのは、魔王陛下がサーシャリア王女に呪いをかけた事が原因だと第二王子、マクシリアン殿下が仰っていたのですが……それは真なのですか?」
「王女に呪い、だと?」
ピクリと魔王の片眉が器用に上がる。
「あの王女は、我に魅了魔法をかけようとしたため魔力を封じただけだ。だが、我が怒りに任せて国王と王子を滅した方が、宰相殿には都合が良かったようだな」
「いえ、それは……」
クツクツ肩を震わせて笑う魔王とは逆に、顔色を悪くした宰相は口ごもってしまった。
「臣下の声に耳を傾けず国へ禍を招き入れようとする王子、王女の魅了魔法により傀儡と化す王など不要。であろう」
「それは……」
頷く訳にはいかずに、宰相は膝の上に乗せたままの両手をきつく握りしめた。
「大陸中の王が集うこの会議に、王族が参加しておらぬのはアネイルだけだ。反感を持たれても仕方あるまい。しかも議題は、緊張した情勢の打開策。招集依頼を無視し、暗黒時代の禁術を復活させてまでアネイルが隣国との戦を企てている事は、明白だ。これ以上は看過出来ぬ」
頬杖をつくは姿は一見、気怠そうに見えるが魔王を取り巻く空気や魔力が鋭く研ぎ澄まされていくのが分かり、宰相は「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
ビシリッ
室内に張られている結界壁がギシギシ軋む。
「ま、魔王陛下、戦を望んでいるのは、ごく一部の者だけです」
これ以上、体を傾けたら引っくり返るのではないかというくらい、宰相は無意識に上半身を引いてしまっていた。
宰相の白髪混じりの髪の生え際から、目尻を通り顎先へと汗が流れ落ちる。
「宰相、自国の行く末を憂いているのならば、話は簡単だ」
ニヤリと口の端を吊り上げた魔王は、圧から宰相を解放する。
「王の首をすげ替えればよいだけだ。テオドール王子は既に動いているのであろう?」
圧力から解放されたとて、宰相は緊張を緩めることはできなかった。
自分を呼びつけた魔王の言動の意図するものが、十分すぎる程分かっていたからだ。
おそらく、魔王も自分がまだ決断を下せないのは見透かしている。
その上で、決断をするように迫っているのだ。
アネイル国の宰相は、先代国王から現国王と二代続けて王に仕えていた。
王子達は孫のような存在。
特に第二王子マクシリアンは、幼き頃から覇気に満ちており、彼は更に国を繁栄させてくれるものだと期待していた。
何故、禁術に手を染める愚かな真似を始めてしまったのか。
王が道を誤りだしたのを正すのも、臣下の役目。
宰相はギリッと奥歯を噛み締めた。
「魔王陛下、マクシリアン殿下は何れ仕掛ける戦のために半年前に異界より勇者を召喚しております。勇者は、我が国に伝わる聖剣を抜くことが出来ました。杞憂かも知れませぬが……お気を付けください」
肩を震わせながら頭を下げて言う宰相の様子に、魔王は愉しそうに目を細めた。
「ほぅ……マクシリアン王子も考えたのだな。果たして勇者とやらはどの程度楽しませてくれるのか。宰相殿、伝達魔法で伝えよ。“魔王が禁術を使用した事に怒り、アネイルを焼き払うつもりだ”とでもな」
「ははぁっ」
足元をふらつかせながら立ち上がった宰相は、魔王に向かって最上の敬意を払う臣下の礼をとった。
「魔王様、よろしいのですか?」
危うい足取りで部屋を後にする宰相の後ろ姿を見送った従者は、遠慮がちに魔王へ問う。
「勇者か? 会議中の退屈しのぎにはなるだろう」
くくっ、シルヴァリスは魔王の表情を崩さないまま嗤う。
宰相の報告により、マクシリアン王子が魔王の挑発に乗れば必ずや勇者が動くだろう。
他の者ならばいざ知らず。人族の王にとっては、魔王が動くとなったら国の存続を脅かす程の脅威となる。
魅了の魔力を持つ王女という駒を失った、愚かな王子は必ず勇者をけしかけてくる筈だ。
「茶番は早々に終わらすだけだ。あれが里帰りとやらから戻る前にな」
下らぬ会議、これから繰り広げられるだろう茶番は早々に終幕させる。
「リコ」
数日もの間、抱く事が出来ない寵愛する女の名を舌の上に乗せた。
***
遅めの朝食に、スクランブルエッグとトーストした食パンにチーズとハムを挟んだサンドイッチを作り、父親と食べた理子は、忘れ物は無いか確認をして洗面所から出た。
「もう帰るのかい? もう少しのんびりしてけば良いのに」
帰り支度をする理子に、何度もゆっくりしていけと言う父親の背中は寂しそうに項垂れていた。
「のんびりしていきたいけど、明日は仕事だし、お母さんと亜子お姉ちゃんが帰ってくる前に出たいから」
母親と姉が帰ってきたら面倒だ。
父親に、次は未来の旦那様を連れてくると約束して、理子は実家を後にした。
もう少しゆっくり父親と話していきたい気持ちもあったが、それ以上に理子は帰りたかった。
以前、理子の部屋だった場所は今や姉の衣装部屋となり姉の物で溢れかえり、自分の物はほぼ処分されていたのは寂しさを覚えた。実家を出た身ではそれは仕方がない。
実家へ帰って父親に会って、確かに気持ちは落ち着けたけれどはっきりと実感した。
此処には、自分の居場所はない、と。
早く帰って、魔王に逢いたかった。逢いたい、声を聞きたい、抱き締めて欲しい。
たった数日間逢えないだけで、こんなにも寂しく感じるだなんて末期だと自分でも思う。
駅までの道を歩いていた理子は、ふと違和感を覚えて足を止めた。
(何か変?)
地元は都会ではないとはいえ、歩いているのは普段賑わっている筈のアーケード街。
特に今は昼前の時間帯で、買い物客が多いだろうに人が歩いていないのだ。
買い物客だけでなく、店頭に立つ店員の姿も見当たらない。
明らかにおかしい状況に、理子の背中に冷たいものが走る。
誰かいないのかと、不安に駆られながら理子はキョロキョロと辺りを見渡した。
「お前……」
背後から低い女性の声が聞こえて、理子は振り返った。
「っ!?」
振り返ってハッと息を飲む。
足首までの長い丈の、元は光沢あるシルクの薄汚れたネグリジェを着た、くすんだ長い金髪の女性が俯いて立っていた。
ネグリジェ姿の上に裸足という異様な姿の女性に、怯んで無視しようか一瞬迷う。
「あの、大丈夫、ですか?」
大丈夫では無いだろうと思いつつも、無視も出来ずに理子は彼女に声をかける。
理子の声に反応して、女性はゆっくりと顔を上げた。
「えっ!?」
女性の顔を確認して、ギョッとして目を見開いてしまった。
とても、綺麗な女性だった。
くすんでいるけれど、腰まである金髪に水色の瞳を縁取る長い睫毛、さくらんぼみたいにぷっくりとした赤い唇。
綺麗より、可憐な女性。だが、彼女の顔中は薄い黒い靄のような物に覆われていたのだ。
薄い霧のような物は、ざわざわ蠢いて彼女の肌にまとわり付く。
驚く理子へ向かって女性が伸ばした腕の、ネグリジェから出た部分、両手首から指先まではネックレスのチェーン程の黒い鎖にびっしりと覆われていた。
後退る理子を、女性は水色の瞳を吊り上げて睨み付けた。
「これが? この女が私より綺麗で優れているですって?」
一歩前へ進んだ女性は、理子との距離を詰める。
「これが、お前が、魔王様が選んだ寵姫ですって?」
“魔王”“寵姫”という言葉から、彼女が彼方の世界から来た事を覚った。
早く逃げなければ、気持ちは焦るのに体が動いてくれない。
目を吊り上げた女性に、射殺されるのではないか、というくらいの殺意を向けられて、理子の体は金縛りにあったみたいに動いてくれなかった。
「貴女は……」
女性の瞳から感じられるのは、嫉妬、憎悪。
彼女は魔王に何かされたのだろうか。
「許せないわ! お前のせいで、私は!」
固まる理子の腕を女性が掴む。
爪が皮膚に食い込むほどの力で掴まれた腕の痛みに、我にかえった理子はうっと小さく呻いた。
魔王様仕様のため、口調が戻っています。




