08.何かが起こりそうな予感
手の甲に口付ける、というキザったらしい別れの挨拶をしてきたカルサエルの後ろ姿を、理子は呆然と見送った。
見目麗しい男性に頭を下げられて微笑まれたら、大概の女性はときめくだろうが、理子は妙な違和感を覚えた。
彼の視線に含まれていたものは、理子が彼にとって有益であるかどうかを探っているようだった。
手の甲への口付けは「合格」だと捉えていいのか。
「マクリーンさん、今の方は……」
理子と同じ様に、前方を見詰めていたマクリーンの表情は固いままだった。
「ダルマン侯爵は、力のある魔貴族家の御当主様でございます。ですが、あまりお心を許さぬようにしてくださいませ。魔貴族達の中は、腹心以外は近寄らせない魔王様に取り入ろうと考えて、リコ様に御近付きになろうという方もいるのです」
確かに、取り入りたいけれど近寄りがたい魔王が急に現れた妃候補を傍に置いたら、まだガードが緩そうな妃候補に近付こうとするかも知れない。
先程のカルサエルの鋭い視線を思い出して、背筋が寒くなった。
夕食を済ませた理子は、部屋へと戻り漸く訪れた休憩時間をまったりと過ごしていた。
ルーアンが淹れてくれる紅茶が身に染み入る。
慌ただしい一日だった。
彼方の世界で夕方まで仕事して、此方へ戻って来たらまだ昼間とか、時間軸はどうなっているんだろうか。仕事後に王妃教育を受けるのは、気力体力的にしんどい。
退職まで毎日この生活を続けたら、さすがに倒れるかもしれない。
ソファーに座ってボケッとしている理子のもとへ、嬉しそうなエルザがやって来る。
「リコ様。魔王様がいらっしゃいました」
「魔王様が?」
一日ぶりなのに顔を合わせるのは久しぶりな気がして、理子の頬はだらしなく緩む。
周囲には、冷酷で無慈悲な魔王だと畏れられているシルヴァリスに逢えるのが嬉しいとは末期だな、と思う。
「シルヴァリス様」
満面の笑みで出迎えた理子に、シルヴァリスはフッとやわらかく微笑み、直ぐに眉間に皺を寄せた。
「リコ」
眉間に皺を寄せたまま伸ばされたシルヴァリスの手が、理子の手首を掴んで引き寄せ……
バチッ!
「きゃあ!」
青い静電気の様な光が弾け、理子は悲鳴を上げた。
「静電気?」
派手な音を発したのに、痛みが無いのが不思議で理子は首を傾げた。
「随分、舐めた真似を……」
理子の手首を掴み、手の甲を凝視していたシルヴァリスが低い声で呟く。
ビシッ!
赤い瞳に剣呑な光が宿り、何かが軋む音が室内に響く。
「今のは? もしかして、私、何かされてたんですか?」
カルサエルに口付けされた時、魔法でもかけられたのか。全く気付かなかった自分は「鈍い」のかもしれない。
眉尻を下げる理子に、シルヴァリスからはクツクツと笑いが漏れた。
「お前からは目を離せられぬな」
掴んでいた手首を放して、解放された理子の手のひらとシルヴァリスの手のひらが重なる。
そのまま自分の方へ二度引き寄せると、カルサエルに口付けられた痕跡を消すように、彼は手の甲へと口付けを落とした。
先程された挨拶と同じなのに、シルヴァリスにされるとすごく恥ずかしい。
頬を赤らめる理子の反応に、満足したシルヴァリスは口の端を吊り上げた。
片手は繋いだまま、もう片手の人差し指でシルヴァリスはローズピンク色へと変化している胸元の印をなぞる。
「もうすぐ、この印は真紅へ変化しよう」
聞いているだけで背中が粟立つような色を含んだ、愉悦に満ちた声色で言われて理子は全身が熱を帯びるのを感じた。
「ひゃっ」
胸元の印を撫でていた指が、スルリとドレスの中へと侵入する。
胸の形を確かめるように進む指先を、理子は慌てて押さえた。
「ちょ、ちょっと待って! シルヴァリス様、お願いがあります。彼方の世界で仕事を辞めるとか色んな手続きとかしたいので、仕事の後に自由な時間をください」
「何だと?」
ピクリッ、胸を弄っていたシルヴァリスの指が止まる。
焦った勢いで言い切った理子は、こほこほと噎せてしまった。
「それと今週末、三日後は実家に帰りたいので彼方の世界で過ごしてもいいですか? 久しぶりに父親と話したいの」
「王妃教育が出来ないと、侍女長が残念がるな」
目を細めると、シルヴァリスはドレスの胸元から侵入させていた指を抜いた。
「実家に帰ってもいいの? シルヴァリス様は、」
寂しく無いの? とは、口には出せずに理子はじっとシルヴァリスを見上げた。
胸に触れていた指先は、するする頬を滑り落ちて顎を掴む。
「今日は、寂しかったのか?」
そう問いかける声には甘いものが混じっていた。
赤い瞳の中に映り込む自分の姿に、理子は頬に熱が集中するのを感じて、コクリッと素直に頷く。
「クククッ、お前は本当に可愛い女だ」
近くなるシルヴァリスとの距離。
彼が求めるものを察した理子は、そっと目蓋を閉じた。
***
ガタンガタンッ
吊り革に掴まりながら、理子は電車に揺られていた。
今日は、仕事が終わった後に自宅の片付けをするためシルヴァリスに許可をもらい、魔国ではなく自宅へ戻ることにしたのだ。
電車の振動が心地よくて、理子は眠気に負けてしまい一瞬だけ意識が途切れる。
かくんっ
吊り革に掴まったまま眠りかけてしまい、首がガックリ垂れてハッと目を覚ました。
寝てしまったかと慌てた理子は、キョロキョロ周囲を見渡した。
満員とまでもいかないが、寝てしまう前の電車内はそれなりに混み合っていた筈だ。
いつの間に自分以外の乗客は下りたのだろうか。
「う……」
電車の走行音以外の音が聞こえ、理子は後ろを振り向いた。
「え?」
音が聞こえた方、車内の扉の前にはTシャツと黒いズボンを穿いた若い男性が蹲まっていた。
苦しそうに呻く男性を放っておけず、理子は彼におそるおそる近付く。
「あの、大丈夫?」
声をかければ男性は弾かれたように顔を上げる。
短髪の黒髪に焦げ茶色の瞳の疲れた表情の男性は、まだ若い、少年と言ってもよさそうなくらいに見えた。
理子に気付いた男性、否、少年は大きく目を見開いた。
「あんたは……?」
少年の顔を見て、理子はあれッと首を傾げた。
「あれ? 君は、席を譲ってくれた高校生の子?」
苦しそうにしている少年は、数日前の通勤時に席を譲ってくれた男の子だったのだ。
自分の周囲の状況に気付いた少年は、目を見開いて驚きの表情になる。
「っ!? あの時の女の人!? 何で、じゃあ俺は……」
少年はキョロキョロ周囲を見渡して、何度も「マジかよ」と呟いた。
「戻って来れたのか!?」
驚愕とも嬉しさとも取れる声で叫ぶと、少年は立ち上がろうとして小さく呻く。
「よく分からないけど、怪我しているの?」
横っ腹を手で押さえる少年の頬には、刃物が掠めたような切り傷があった。
裸足で電車に乗っているし、不良に絡まれてカツアゲされたのかもしれない。もし一人で歩くのが大変ならば、駅に着いたら一緒に警察へ行ってあげよう。
少年の側にしゃがんだ理子は、バッグから絆創膏を取り出した。
「気休めにしかならないけど」
頬の切り傷に絆創膏を貼る。
上から覗き込むように少年を見ていると、彼の頬は赤く染まっていく。
「あ、あのっ」
少年の手が理子の腕へと伸びる。
触れるか触れないかという時、少年が顔を歪めた。
「くそっ、まだ消えるな! 俺は……」
少年の輪郭が徐々に、端から崩れていく。
何かを訴えているような泣きそうな表情のまま、あっという間に彼の姿は空間に溶けて消えていった。
ガクンッ
吊り革に掴まったまま、理子の首は大きく揺れて一瞬飛びかけた意識が戻る。
ぱちくり、何度か目を瞬かせて周囲を確認した。
「夢?」
ほぼ満席の電車内は、一瞬寝かける前と同じ。蹲る少年の姿は何処にも無い。
夢か幻だったのだ、とも考えたが、理子の手のひらの中に残っていた絆創膏の包み紙があれは現実だったと、物語っていた。
泣きそうな表情の少年は何を訴えたかったのか。
目的の駅に着くまでの間、理子は少年が蹲っていた場所をじっと凝視していた。
少年登場。
ヒロイン、カルサエルにちょっかいを出されていました。




