06.安心出来る場所
自分より低い体温に包まれて、改めて一番安心出来る場所は此処だと実感する。
抱き締めるシルヴァリスの腕の中で、理子は漸く強張らせていた体の力を抜いた。
「シルヴァリス様っ」
高級そうな黒いシャツに理子はぎゅうっと顔を擦り付ける。
布地に涙と鼻水を吸い込ませてしまったのは申し訳ないけれど、胸いっぱいに彼の纏う花の香りを吸い込むと乱れた気持ちが落ち着いていく。
「リコ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
見上げれば、視界いっぱいにシルヴァリスの綺麗な顔が飛び込む。
急に恥ずかしくなって、理子は視線を逸らした。
視線を逸らして気付いた。
シルヴァリスの背後は駅のホームでは無く見慣れた場所、お盆休み中滞在していた時に理子が使わせてもらっていた部屋だった。
「あ、あれ?」
駅のホームに居たのに、いつの間に?
転移したとしても、いつの間に此処まで移動したのか。
どうやって彼は理子が嫌な目に遭っている事を知ったのか。
混乱してシルヴァリスへ視線を向けると「名を呼んだだろう」と彼は笑って、理子の頬を優しく撫でた。
そっと抱き上げられて、横抱きでソファーに腰掛けたシルヴァリスの膝の上へ座らせられる。
涙が乾かないままの理子の目元を、彼は人差し指で拭うと手をぎゅっと握ってくれた。
「落ち着いたか?」
聞かれた途端、先程の電車内での出来事がぶわっと脳裏に甦る。理子はシルヴァリスの胸に顔を埋めた。
男性に触れられた部位が気持ちが悪くて、上書きをする様にシルヴァリスにすがり付いてしまった。
「私、ち、痴漢にあったみたいなの。初めて痴漢されたし、くっつかれて髪の毛も舐められて、すごい気持ちが悪くて。シルヴァリス様が来てくれなかったら、ベンチで動けなくなるくらい、相当参っていたかもしれなくて。ありがとうございます」
ひきつる口元を動かして無理矢理笑みの形にする。
「リコに手を出した男には、制裁を与えた」
すうーと表情を消して何やら物騒なことを言ったシルヴァリスは、理子の髪を纏めているヘアゴムを外して電車内で男に舐められた髪に触れた。
ふわり
あたたかい風が理子を包み込み、髪や汗でベタついていた肌を優しく撫でる。
「あ……」
痴漢に舐められた髪も、汗ばんでいた肌もサラサラになる。
髪から仄かに香るのは、リンゴに似たフルーティーなカモミールの香り。
カモミールの効果は、リラックス。
不安や緊張を和らげたり、心を落ち着けて安らかな気分にさせる効果があるという。
その香りを選んだ彼の気遣いに、嬉しさと愛しさで理子の心臓の鼓動が速くなる。
「汚された髪は清めた」
綺麗になった黒髪をシルヴァリスは指に絡ませる。髪を弄る指がくすぐったくて、理子は目を細めた。
「想定以上に、リコの魔力が異界に影響を及ぼしているようだ。魔力が安定するまでの間は、此処で過ごせ」
「此処で? でも、仕事には行かなければならないよ。退職までの間に、引き継ぎの資料を作らなければならないもの」
退職の話をした翌日から休む訳にはいかない。祝福してくれた職場の人達に、迷惑をかけないようにしたいのに。
心配してくれる気持ちは嬉しいが、退職と引っ越しの手続きをしなければ此方の世界には行けない。
「では、此処から通えばよい。これは、命令だ」
「此処から? 私は、」
話している途中なのに、理子は強烈な眠気に襲われる。
命令とは、どういうつもりか。眠らされると焦って目蓋を開けていようと抵抗を試みても、強制的な睡魔には抗えずに、あっさり理子の意識は眠りの淵へと追いやられてしまう。
グラリ、と傾いだ体をシルヴァリスの腕が抱き締める。
「……今宵はこのまま眠るといい」
完全に意識が途切れる直前、遠くの方からシルヴァリスの声が聞こえた気がした。
***
強制睡眠により眠らせた理子を、シルヴァリスはベッドへと横たえる。
清めた髪を一撫でして、額に口づけを落とした。
眠る理子に背を向けたシルヴァリスは、やわらかい表情を瞬時に消して無慈悲な魔王へとその身を一変させる。
執務室へと転移をした魔王は、近くに控えているだろう者へ声をかけた。
「キルビス」
ざわり、空気が揺れて青銅色の髪の腹心の部下が姿を現した。
「はいはい、此処にいますよ。お嬢さんはもう寝かしつけたんですか?」
ニヤニヤした嫌味ったらしい笑みは無視して、魔王はキルビスが持つ報告書の束に視線を移した。
「アレはどうなっている」
「概ね順調のようです。ただ、魔王様が怒りで冷静さを失って、暴走しないでいてくれたら、の話ですがね」
「はい、どうぞ」と渡された報告書を受け取り、魔王は一通り目を通し内容を頭の中へと入れた。
「フンッつまらぬ。順調で無ければ、今から全てを焼き払ってやろうかと思ったのにな」
「憂さ晴らしが出来なくて残念ですね。全く、今の貴方は躊躇無く世界をも滅ぼしてしまいそうだ」
わざとらしい溜め息を吐いたキルビスは、両手を顔の横へ持って来て手のひらを見せて降参のポーズをとる。
「世界を滅ぼすなどと下らぬ。だが、俺のモノに手を出そうとした愚か者には……その身が滅びた方がマシだと思う程の苦しみを与えねばな」
クツクツ冷酷な顔で笑う魔王を見て、キルビスは苦笑いを浮かべた。
操られていたとはいえ、寵姫に触れて泣かしただけの異世界の者を、間接的にとはいえ手を下して葬るとは。
畏れ多い魔王だ。
異世界へ赴いての後処理は少々面倒だったが、寵姫を手に入れてから変化した魔王は、残虐性が無くなった訳でも無いようだ。
魔王の全てが変わった訳ではなかったと安堵している自分がいて、キルビスは自身を嘲る。
「……怒りに任せて即、焼き払いに行かないとは、無慈悲な魔王様も随分と丸くなったな」
以前の魔王だったら、気に入らない相手に対しては策を巡らせずに焼き払うか引き裂いていた筈だ。
猶予を与えるとは、変わるものだ。
「黙れ。引き続き監視と、頃合いを見て誘導をしろ。手段は貴様に任せる」
ボウッ
もう用はないとばかりに、魔王の手の中で、報告書の束が燃え上がる。
「仰せのままに」
報告書が灰になって消滅したのを確認して、キルビスは恭しく頭を下げた。




