05.祝福と恐怖と
翌日、上司に時間をとってもらい理子は結婚の報告と退職の旨を伝えた。
急な退職願いになってしまった理由は「結婚相手の海外赴任が決まったため」とし、上司と同僚達に頭を下げる。
「急だし、全くそんな素振り無かったから吃驚したけど」
入社当時から何かと気にかけてくれ、田島係長から苛めを受けていた時も庇ってくれていた上司は、困惑の表情を浮かべて白髪が目立つ頭をポリポリ掻いた。
「見守っていた娘を送り出すような気分だ。理子ちゃん、おめでとう」
初めて「おめでとう」と言われた事に気付いて、理子の頬は嬉しさとほんの少しの恥ずかしさで熱を持つ。
パチパチパチッ
部署中の同僚達から一斉に「おめでとう」と拍手をされて、理子の視界が歪んでいく。
「理子ちゃんは頑張ったからねー良かった」
何かと世話を焼いてくれていた女性の同僚も目を潤ませる。
山本さんも複雑そうな表情を浮かべつつも、拍手をしてくれているのを見てついに理子の涙腺は崩壊した。
終業時刻となり、理子は渡された書類入りの封筒をバッグへしまうと身支度をする。
退職の決意を固めて周りの同僚に伝えたせいだろうか。
職場の空気が何時もと違う感じがして、あと少しでこの場所から去るのかと寂しくなった。
帰宅途中の電車を待っている間、これからの手続きについて手帳を開いてチェックしていた。
これからやるべき事を書き出して、優先順位を決めていく。
「大家さんに連絡するのは明日にして、あとは……」
重要な事を思い出した理子は、さらさらと動かしていたボールペンの先で手帳をつつく。
「実家、忘れてた」
退職の事も結婚の事も、実家の家族へ伝えるのを忘れていたのだ。
はぁーと息を吐いて、理子はバッグからスマートフォンを取り出す。
今の時間なら母親は家に居るだろう。
久しくかけていなかった実家の電話をディスプレイに表示させ、理子は通話ボタンを押した。
『はい、山田です。亜子ちゃん? あらやだ、理子か。どうしたの?』
数コールで出た母親は、電話は姉の亜子ではなく理子だと気付いて、あからさまに声のトーンを下げた。
「お盆休み帰らなかったから、週末に帰ろうかと思ったの。お母さんとお父さんに話したいことがあってね」
『えー、土日は亜子ちゃんと温泉に行くのよ。結婚前の亜子ちゃんと二人で行く予定なのに困ったわ~。来週末も亜子ちゃんと買い物だし、電話じゃ話せないの?』
最愛の姉との予定を邪魔されると、母親は心底困っているのだろう。
遠回しに帰ってくるなと言われているようで、理子は苦笑いしてしまった。
ピーナッツ母子と言うのか、母親とベッタリな姉の仲良しっぷりは昔からだから、今さら苛つく事も何も無い。
『帰ってくるならもっと早く言ってくれればいいのにぃ~』
「お父さんはいるの?」
『ええ』
やはり、父親は家に置いてきぼりか。毎回お留守番とはさすがに可哀想だ。
「お父さんと話すから週末に帰るね。お母さんと亜子お姉ちゃんは気にしないで旅行楽しんで来てね」
理子の事は眼中に無い母親に退職と結婚の相談をしても無駄だろう。
報告は父親にして、父親から母親と姉へ伝えてもらえばいいと判断した。
『ごめんなさいね~じゃあね』
ガチャッと電話を切られてしまい、理子は父親宛のメッセージを打ち始める。すぐ母親は理子からの電話があったことは忘れてしまい、父親には伝わらないだろうから。
「お父さん、吃驚するかな」
それとも、事前に相談もしないで退職と結婚を決めてしまったから、怒るかもしれない。
せめて、父親には祝福されたい。結婚相手の職業が魔王とは言えないけれど。
メッセージを送信してから、携帯電話を操作して写真フォルダーに入っている渾身の一枚を表示させる。
「お母さんと亜子お姉ちゃんが居なくて良かったかもね」
表示させたのは、昨夜シルヴァリスと一緒に撮った写真。
結婚報告と共に写真を見せたら、姉が会わせろとうるさく言って来るだろう。香織に見たいからとせがまれて撮ってきた写真だったが、今日は一緒に昼休憩を取れなかったため見せられなかった。
(ふふっ、待ち受けにしようかな)
写真に映る銀髪赤目の麗しき魔王の姿に、理子はニヤニヤと口元を緩めてしまった。
***
満員状態の電車に乗り込み、何時も通り理子は吊り革に掴まってぼんやりと車窓から薄暗い外を眺めていた。
(今日の夕飯はどうしようかな、たまには作ろうかな)
簡単に作れる夕飯のメニューを考えていると、ふと、背中に貼り付くように立つ誰かの気配を感じた。
相手の体が当たるのが気になり、隙間を空けようと少し前へ体を動かすが、背後の人物も同じように前へと動く。
離れたいのに密着してくる背後の人物に、理子は身を固くする。
耳に届く息遣いと、後ろで一纏めにしていた髪を弄られる感触がして、理子の背中が粟立った。
「髪、綺麗ですね」
耳元で囁かれたのは、まだ若い男性の声。
「え、あの?」
(痴漢!?)
戸惑いと恐怖の感情が、じわりじわりと湧き上がってくる。
「これだけの魔力を受け入れても、歪まないとは」
男性が感嘆と恍惚が入り混じった声と、ねちゃりっぴちゃりっという水っぽい音が理子の耳に届いて、生理的な気持ち悪さに吊り革を持つ手が震えた。
(髪を舐められている!?)
嫌悪感と恐怖から上げそうになる悲鳴を、何とか抑え込む。
「さすが、魔王様の選んだお妃様だ」
ザワリッ!
腰を撫でるように触れられて、嫌悪感と恐怖が限界を越えた。
身体中の毛穴が総毛立つ感覚が理子を襲う。
バチバチバチ!
青白い光と共に、強烈な静電気が弾ける音が電車内に響き、理子の後ろに立っていた男性の体が傾いでいく。
ドサリッ
「キャー!?」
「うわっ何だ!?」
「人が倒れたぞー」
急に倒れたように見えた男性に、何事かと騒ぐ乗客達の間をすり抜けて理子はドアの前へと立った。
電車がホームに滑り込み、開閉音楽と共にドアが開く。
迷わず理子は騒ぐ周りの人を押し退けて、電車のドアからホームへ飛び降りた。
「今のは……何?」
見知らぬ男性に痴漢され、髪を触れられて舐められた。
後ろで一纏めにしていた髪の毛の先が濡れているし、さっきのは気のせいじゃない。
ふらつく足取りでホーム中央のベンチへ座る。
ねっとりと絡み付く嫌な声と、ぺチャリッと髪を舐められる音が耳に残っていた。
大丈夫、あれはただの頭のおかしい人だったと思い込もうとしても、触られた気持ち悪さと恐怖が体の中で膨れ上がっていく。
バチバチッと弾けた静電気のようなものがなければ、もっと体を触られていた。
嫌なのに、怖くて拒絶の声が出せなかった。小刻みに震え出す体を落ち着かせようと、理子は両腕で肩を抱き締める。
「シルヴァリス様」
痴漢に触られるのは、大好きな魔王に触られるのとは全然違う。
じわりっ、理子の瞳に涙の膜が張られていく。
「リコ」
理子の呼び掛けに応えるように、シルヴァリスの声が聞こえる。
まさかと思いつつ、顔を上げれば目の前に眉間に皺を寄せたシルヴァリスがホームに立っていた。
どうして此処に、黒いシャツとズボンだから此方でも違和感は無いな、とか思いつつ理子は両目に涙を浮かべて座ったまま彼へと両腕を伸ばす。
中腰となって椅子から倒れるように、シルヴァリスの胸へ抱き付いた。
抱き付いた途端、シルヴァリスの腕の中に囲われる。
騒がしい周囲の音と光がすべて、彼の体で遮断された。
花の香りと彼の体温に、恐怖でいっぱいだった理子の心がほどけていく。
もう大丈夫、という安堵がじんわりと胸の中に広がっていった。
痴漢を攻撃したバチバチした静電気は、魔王様がヒロインにかけた守護魔法です。




