03.人であって人ではない存在
昼休憩中の社員食堂の隅で、理子は香織と共に同僚達から頂いたお菓子を広げる。
佐野さんから貰ったチョコレート専門店の詰め合わせ、男性社員から貰ったチョコレート、女性社員から貰った飴。
高級チョコレートに歓喜の声を上げた香織は、持参した紙袋から包装紙に包まれた箱を取り出した。
「はいこれ、お土産の温泉まんじゅう」
「いいなー、婚前旅行」
「いーでしょー」
お盆休みに、香織は婚約者のまーくんと有名観光地を巡ったらしい。
包装紙に有名温泉の印刷がされた温泉まんじゅうを受け取り、理子は包み紙に印刷されたご当地キャラを指で撫でる。
異世界滞在をしたのに、私は色々あってお土産を忘れていた。
今週末に異世界へ喚ばれたら、可愛いアイテムでもお返しに買ってこなければ。
「今回は奮発して、高級ホテルに泊まってきたの。理子はどこかに行ったの?」
香織に問われて言葉に詰まってしまった。
いくらなんでも、異世界に行ったとは彼女が酔っぱらっていても言えない。
「実家に帰って、地元の友達と買い物に出掛けたくらい?」
「例の彼とは会わなかったの?」
以前から香織にはシルヴァリスの事を相談していた。お盆休みに彼と会い、関係が進展したのを黙っている理由も無いかと少し考えてから、理子は口を開いた。
「けっ結婚を前提? で、お、お付き合いをすることになったよ。彼氏じゃなくてもう婚約者、かな」
「えー!?」
食堂で大声を出す香織に、シー! と理子は口元に人差し指を当てて落ち着くように伝えた。
「結婚を前提って、名前も知らなかった魔王様と?」
声を抑えて問う香織に、理子はこくんと頷く。
恋人関係をすっ飛ばして婚約者と言うのは躊躇したが、シルヴァリスは理子が頷けば直ぐに妃にすると、婚姻届を書くと言っていた。まだ待っていて欲しいと心の準備をさせて欲しいと頼み、待って貰っている。
理子は、ブラウスの上から胸元を押さえた。
今はうっすらとした桜色の胸元の印が、真紅に色付いた時、嫌だと拒んでも魔王シルヴァリスの正妃とされる。
拒否しても妃の印は赦してくれず、シルヴァリスの執着を考えると彼は強制的に正妃に据えるはず。
印が真紅に色付くのが何時になるのかは分からない。毎晩抱かれて彼の魔力を与えられている状況では、遠い未来ではないだろう。早いうちに、周囲や上司へ婚約者の存在を知らせて、退職する準備を考えた方がいいのかも知れない。
「でも、まだ内緒にしてね」
早いうちに動かなければと言っても、まだ両親にも伝えてないのだ。婚約者が出来たこと、退職について上司と会社へ伝えるのは、今後の事をシルヴァリスと話し合った後だ。
「何でー? どしたの?」
「今日の私、朝からやたらと男の人に声をかけられる気がするの。冗談だろうけど、告白みたいな事まで言われたし。からかわれてるって分かるから、告白されても嬉しいより疲れちゃう。婚約者が出来たって、退職するって知られたらもっと周りにからかわれるかなって思って」
以前、田島係長や後輩の高木さんからイジメを受けていた時のように、周りから妙に気を使われて気疲れする日々にまたなるのかと思うとつい溜め息を吐いてしまう。
「理子、それは冗談とか、からかいじゃないかもよ……」
ニヤニヤしていた香織の表情が、急に真面目なものへと変わる。
「急に理子が綺麗になった、色っぽくなったって言うか、近くにいると惹き付けられるって感じかな? さっき、上目遣いで見られた時は私でもドキッとしたもの。これってその彼の影響かな。何だろう、理子に見詰められると落ち着かなくなる感じがするんだよね。私ってノーマルなのに、触りたくなるの」
「はぁ?」
予想もしない事を言われて、理子はすっとんきょうな声を上げる。
暑さで頭が沸いてしまったのか。香織まで何を言い出すんだ。
お盆休み明けだし、今日はなるべく定時で仕事を終わらせて早く帰ろう、と思った。
昼休憩後、抱いた妙な胸騒ぎを払拭することは出来ず、なるべく同僚と会話や接触をせずに理子は脇目を振らず仕事に意識を集中させた。
終業時刻まであと15分になり、出来上がった書類をまとめてノートパソコンの電源をオフにする。
デスク周りを片付けた理子は、デスクチェアに座ったまま大きく伸びをした。
ガリッ
「いたっ」
右手小指に鈍い痛いが走り、理子は小さく呻いた。
伸びをした際、隣の机の上にあるセロハンテープカッターのギザギザになったカッター部分で、小指を引っ掻けてしまったのだ。
ジワジワと引っ掻けた傷から血がにじみ出てきて、地味に痛い。
「あちゃー」
ティッシュで滲む血を拭き取り、机の引き出しから絆創膏を取り出す。
絆創膏を貼ろうと、小指の傷に視線を移して……理子は大きく目を見開いた。
「あれ? 傷が?」
引っ掻けた傷が消えていたのだ。
まるで、最初から傷など無かったように。ピリピリした痛みも、無くなっていた。
「何これ」
傷口から滲み出た血を拭き取ったティッシュは机上にあり、痛みを感じたのだから怪我はしていた。
それが、一瞬目を離した間に治っているとはどういう事なのか。
小指を凝視したまま、暫くの間理子は固まっていた。
***
最寄り駅の併設ビルで夕食を済ませて帰宅した理子は、パンプスを脱いでバッグを玄関の床に置いた。
その瞬間、足元に魔王のもとへ向かう魔法陣が展開される。
落下する理子の体を受け止めたのは、ベッドでは無く魔王シルヴァリスの腕だった。
「臭うな」
理子を抱き止めたシルヴァリスは顔を歪める。
床へ顔面ダイブを覚悟した理子は、抱き止めてもらえて少しときめいて彼の顔を見上げたのに、開口一番に傷付くことを言われ口元をひきつらせた。
「それは、帰ってきたばかりで汗だくですから」
ほぼ満員の電車に乗って来たしシャワーも浴びていない。汗臭くて当然だ。だいたい帰宅したばかりのタイミングで喚ぶのが間違ってる。
「お前に懸想している男の欲が纏わり付いている」
抱き止めていた理子の体を下ろすと、シルヴァリスは眉間に皺を寄せた。
「それって、どういう」
コンコン
私の言葉を遮って部屋へやって来たのは、エルザとルーアンの二人だった。
二人の侍女を呼んだということは……理子は溜息を吐いた。
「湯浴みを」
「「畏まりました」」
シルヴァリスは二人に短く命じ、理子はエルザとルーアンの手によって汗臭さなど気にならないくらい、ピカピカに磨きあげられるのだった。
入浴後、汗でベタつく肌も気分もさっぱりした理子は、シルヴァリスによって濡れた髪を乾かされた。
髪から香る仄かな柑橘の香りに、今日一日で気疲れした気持ちが爽やかなものへと変わっていく。
「今日、朝から変なの。やたらと人から声をかけられるし変な感じがするの」
湯浴みをしてさっぱりした理子をシルヴァリスは膝の上へ乗せて、乾かしたばかりの黒髪を指先に絡ませて弄る。
「俺の魔力が流れ込んだ影響だろう。魔力の弱い者、意思の弱い者は側に寄るだけで影響を受ける。だが、他の男が近付こうとするのは気に食わぬな」
背中から首筋に顔を埋めて話すシルヴァリスの唇が、首に触れるのが擽ったくて少しでも逃れようと理子は身を捩る。
「あ、あと、怪我した傷が直ぐに治ったの。まさかそれも?」
「ああ」
首筋から顔を上げたシルヴァリスは、理子の左手を取って手のひらを人差し指でなぞった。
ピリッとした鋭い痛みと共に、手のひらが真横に切れる。
「いっ!?」
一文字に切れた傷から、トロリと赤い鮮血が流れた。
いきなり手のひらを切られたショックと痛みで、理子は半泣きになって振り向く。
「ちょっと、何するのっ!? つぅっ」
抗議の声を無視して、シルヴァリスは血が滴る手のひらの傷口に舌を這わせる。
傷口を広げるように這う舌が、手のひらに流れた鮮血を全て舐め取り、理子は戦慄した。
「消えてる……」
ざっくり一文字に切られた傷口は浅くはなかった。
その傷がたった数秒で跡形も無く消えるだなんて。いつの間にか、回復魔法を使われたのだろうか。
「魔王の、俺の魔力を体へ受け入れた事で、リコの体は新たに作り変えられたのだ。お前は人であって人ではない。俺に近しい存在となった」
呆然と手のひらを見詰める理子に、シルヴァリスが淡々と衝撃的な事実を告げる。
「何、それ……」
人であって人でない存在。何なのだその中途半端なものは。つまり、魔王のせいで人外の存在になってしまった、ということか。
理子は首を動かして首筋に口付けてくるシルヴァリスを見た。
魔王様が施した体の変態を、ヒロインは漸く知りました。




