04.穴の向こうの鈴木君
模様替えを終えた理子は、上機嫌で化粧をして街へ買い物へ出掛けた。
これで安眠出来ると思えば足取りも軽くなる。お洒落な服屋のショーウィンドウには初夏の色合いの服が飾られていて、服を買わなくとも見ているだけで楽しい。
仕事用のブラウスと今年流行のワンピースを購入して、オマケにポーチまで貰えたものだから理子は笑顔になった。
可愛いなと見ていたワンピースを店員に勧められるまま試着して、煽てられて買ってしまったせいで懐は寂しくなったがあと数日で給料日だ。
ご飯は非常食のカップラーメンかモヤシ炒めでしのごう。
帰り道にあるスーパーに寄って、半額お弁当を買い家路についた頃にはすっかり辺りは真っ暗になっていた。
自宅マンションに着いて、ふと一階角部屋の窓を見れば真っ暗なまま。
お隣の鈴木君はまだ帰って来ていないようだ。
(休日だしデートかな? リア充っていいな)
昼間イチャイチャしまくって疲れ果てて夜は大人しく寝てくれればいい。
もしも盛っても、昼間、動かした家具の防音効果をチェック出来る。気分が前向きになって部屋へと戻った。
ふと気が付けば、クリーム色をした靄の中に一人で立っていた。
『おやおや、次の持ち主はあんたになったのかい』
靄で覆われた空間に、ひび割れた低音の声が響く。
声の感じから女性、だと思う。
若いようにも老婆のようにも聞こえる声に、理子は不安を感じて身構えた。
「誰?」
『……今度こそ、使える娘だといいのだけど』
声の主は問いには答えず、舐めるような視線を理子に送る。
姿は現さないのに、ねっとりと絡み付く嫌な視線を送られて、理子は両腕で自分の体を抱き締めた。
「っ!」
ぱちりっ、閉じていた瞼を開けば其処は自分の部屋で理子はベッドに横たわっていた。
背中と額は汗でぐっしょり濡れている。
変な夢だった。
久々にヒールの高い靴を履いていっぱい歩いたから、足が痛くて横になっているうちにそのまま寝てしまったようだ。
このまま二度寝をしたいところだが化粧を落とさなければ。理子はのろのろとベッドから起きてシャワーを浴びるために浴室へ向かう。
寝汗をかいて火照った体に少し冷たいシャワーは心地良くて、一気に目が覚めた。
バスタオルで髪を拭きながら冷蔵庫から冷えた麦茶を出して、コップに注いで部屋へ戻る。
ベッドに置いたままのスマートフォンが通知の光を点滅させていて、その光を見た理子は部屋の異変に気付いた。
(暗い?)
天井照明が室内を明るく照らしているのに、何故か薄暗く感じるのだ。
不思議に思いつつ、理子は携帯電話を手に取る。
時間は23:58。
たまには深夜番組でも見ようかとテレビのリモコンに手を伸ばす。
指先がリモコンに触れた瞬間、くぐもったうめき声のような声が聞こえて、理子は伸ばした手を引っ込めた。
(はぁ、また盛っているのか。防音対策は失敗か)
溜め息混じりに鈴木君の部屋と繋がっている壁を眺めていると、その声がうめき声ではなく女性の喘ぎ声のように聞こえて理子は立ち上がった。
声は壁から、どうやらそれはある一か所から聞こえてくるようだ。
「やっぱりここからか」
耳を澄まさなくても分かる。
昼間、穴を開けてしまったタンスの裏から聞こえていた。
喘ぎ声は絶え間なく聞こえてくる。
少しは自重しろよと苛立ち、喧嘩上等な気持ちで穴の前に設置したタンスを殴ってやろうかと、理子は拳を握りしめた。
「いやぁああ!」
急に喘ぎ声が途切れ、その数秒後に悲鳴に近い叫び声が聞こえた。
叫び声の後は静かになった隣室に、理子はぎょっとしながら壁の穴を見詰めた。
「何なの……?」
もしや、鈴木君はDV野郎だったのか。
情事の最中に感情が昂ると、相手を痛め付ける性癖の持ち主がいるとは聞いたことがある。
大事な彼女を痛め付ける性癖は理解できないが、お互いの同意さえあれば許されるのか。
他人のお付き合いに文句を言うつもりはない。
でも、バイオレンスな物音はこちらの心臓に悪いし気分も悪い。
この壁の穴は早々に塞いでしまおう。
そうと決めたら早い方がいい。
テーブルの上のタブレットを取り、防音シートと穴の修理見積りの検索をかけた。
翌日、理子は電車で二駅先のホームセンターへ開店と同時に店へ入り、防音シートを購入した。
ネットで同じように壁に穴を開けた人の体験談を調べると、管理会社に連絡して穴を修理してもらうのは早くても二週間はかかるとあった。
早くても二週間先なんて時間がかかりすぎる。
毎夜毎夜、隣室からのDVプレイを聞かされるのは、私のガラスの精神が耐えられない。
防音シートを三重に貼って、ベタベタになった壁を眺める私はやりきった達成感に満ち溢れて、高笑いしたくなるのを堪えつつにんまりと笑った。
「……様」
深夜0時。
モヤシのピリ辛炒めをつまみに、自家製梅酒を飲んでいた理子の箸を持つ手はピシリと止まってしまった。
突如、壁から艶やかな女性の声が聞こえてきたのだ。
防音シートを貼りまくったのに防音出来ないなんて、なんてことだ。隣の部屋にいる二人はどんだけ大声で騒いでいるんだろう。
「お願いでございます。子種を、子種を注いでくださいまし」
「ぶっほぉっ!」
不意打ちの衝撃発言に吹いてしまった。
防音シートが効かないショックを吹き飛ばす破壊力。
鈴木君は学生だ、しかもまだ一年生。
多分、否、絶対に今鈴木君といちゃついているのは、偶然出会ったことがある彼女さんの声じゃない。違う相手だ。
浮気相手の女性は、まさかの学生結婚を希望しているのか。
もしや、彼女から鈴木君を奪うためか、確実に彼を手に入れるために言っているのなら怖すぎる。
「……何奴だ」
壁の向こうから聞こえたのは、衝撃発言をされたのに全く動揺していない、とても静かで、低音の男性の声だった。
あれ? 鈴木君の声はこんなに低かっただろうか。
「何奴だと問うている。我の部屋を覗く愚か者は」
“愚か者”と言われた瞬間、理子の抱いた疑問は吹き飛んだ。
(誰のせいで私は寝不足になってるの! 誰のせいで模様替えすることになった! 誰のせいで余計な出費をするはめに!)
ぶちぶちと頭の中で何かがキレる音がする。
すくっ、と押し掛けていた椅子から立ち上がり、壁の穴を隠しているタンスの前へ向かう。
「……愚か者って、あなた、うるさいんですよ」
今抱いている怒りを力に変換すれば、今ならば某特撮怪獣だって倒せる気がする。
「なんだと?」
「毎晩毎晩盛りまくってうるさい! 私の安眠妨害しないでよ!!」
言い放った勢いのまま、座布団を持った理子は、タンスと壁の間に僅かにあった空間に座布団を突っ込んでやった。
それが、壁の向こうの鈴木君との始まり。
やっと異世界っぽいのが出ました。