07.限界値を突破する
ざわり、ざわり、心臓がざわめく。
ずっと抱き枕の扱いをされていたし、この信じられないくらい綺麗な魔王が理子を一人の女として見てないのは分かっていた。
まして彼は人外だ。人とは感覚が違うのも分かっていた、それなのに。
「所有物って私の事ですか?」
固い声で睨み付けても、魔王は形の良い眉ひとつ動かさない。
「お前は我のモノだ」
聞きようによっては恋愛感情の独占発言に聞こえる彼の台詞。しかし、理子は彼の抱く感情は恋愛親愛とは違うと分かる。
魔王の言う「モノ」とは、所有物としての「物」の事で、一個人としての「者」とは違う事くらい鈍い理子でも理解出来た。
悲しいとか寂しいとか、お互い気を許した気安い関係だと思っていたのに、実は自分だけが自惚れて勘違いしていただけだったと分かり……ただただ、ショックだった。
説明の付く感情と理由が分からない複雑な感情の波よりも強く、沸々と心の奥底から湧き上がってくるのは、怒り。
「私はモノじゃない」
言い放ち理子は髪に触れている魔王の指を払い除ける。
「何だと?」
指を払い除けられて苛立ったのか、魔王の眉間に皺が寄った。
「私は人でモノじゃない。魔王様が私の交友関係に口出す権利は無いし、今日は職場の人達とご飯を食べに行っただけなのに何なんですか!」
魔王の言う男の残り香とは、手を繋いで歩いた山本さんの事だろうか。
山田さんとはある意味仲間だし、今後仲良くできたらいいなと思っている優しくて頼りになる先輩だ。
色欲だなんて、いくらなんでも彼に失礼で腹が立つ。
「……我は異界に住まうリコの生活を縛る気は、今は無い。だが、色欲を持つ男がリコに触れるのは気に食わん。次、残り香を移されて我の傍へ来たらお前と言えども赦せぬ」
苛立ちを抑えているのか魔王の顔から表情が消える。
無表情の魔王は凄く恐く体が震え出す。でも、魔王との今後の関係を考えると圧力に負けていられない。
「お、男の人に触れられちゃ駄目だなんて、無理でしょ。もし、私に恋人が出来たら魔王様に消されちゃうの?」
「恋人、だと?」
ピシッと何かが割れる音がする。
部屋の空気が張り詰めたものに変わり、体感温度が一気に下がっていく。
「う、私だって、今、気になる人くらいいるし、いつかは恋人ができて結婚して子どもを生みたいもの。育児と仕事を両立して暮らすのが夢だもの」
無表情のままでいる魔王の赤い目が、墨を垂らしたように暗い色に染まっていく。
赤黒く変化した瞳にじっと見下ろされる、理子の体に針で刺されたような鋭い痛いが走った。
「つっ、魔王様」
冷笑を浮かべる魔王から放たれる、冷気を感じ取った理子は堪らず一歩後退った。
「お前に手を出す男がいたら……男は即殺してやる。お前は逃げられぬよう、鎖で繋いで檻にでも入れてやろうか」
愉しそうに口元を歪める魔王様は恐ろしく、愉しそうにしている顔は魅入ってしまいそうなくらいとんでもなく綺麗で、理子の脳内は限界値を突破した。
「魔王様の鬼畜! 変態! 縛らないって言ったのに、監禁するとか思いっきり縛っているでしょっ! 魔王様なんか嫌い!!」
バリンッ!
理子の叫びと共に、青白い光を灯していた燭台が弾け飛ぶ。
室内の空気が渦を巻きだすが、タガが外れてしまった感情の波は止まらない。
「男の人の残り香が嫌なら私を喚ばなきゃよかったのにっ! 私を抱き枕なんかしなきゃいいのに! なんでっなんでっ!」
どくんっ!
心臓が大きく脈打つ。
「はっ?」
鋭利な刃物で刺されたような、痛みと呼吸が出来なくなるような息苦しさが急激に襲われ、理子は胸を押さえて前屈みになる。
「な、に、これ……」
感情が高ぶり過ぎて、心臓が壊れてしまったのか。マラソンを走り終えた後のような速さで、心臓は収縮を繰り返し鋭い痛みを放つ。
全身に送り出される血液と一緒に、心臓が得体の知れない何かを送り出していて、痛みと苦しさに理子の意識は薄れていく。
「我とリコの感情の高ぶりに反応したか」
胸を抑えて屈んだ体が仰向けになり、沈みかけた意識が浮上していった。
魔王の顔が目前に迫り、彼の腕に乗る形で縦に抱かれてる事に気付いた。
荒い呼吸を繰り返す理子の胸の上に、魔王は手を当てる。
「……抑え込む。ゆっくり息をしろ」
胸に当てられた手のひらから、理子の中へと何かが流れ込む。
流れ込んできた何かが作用したのか、心臓の収縮が治まり痛みと息苦しさも軽減していく。
(うう、動けない……)
心臓発作?のような状態が治まった後、理子は猛烈な疲労感のため体を動かせずに、ぐったりと魔王にもたれ掛かっていた。
あんなに騒いだのに、嫌いと言った魔王の世話になっているとは。情けないやら恥ずかしいやらで、早く離れたいのに体が動いてくれないのだ。
「所有物扱いが嫌ならば、お前はどんな扱いなら納得するのだ」
動けないでいる理子を放り投げる事もせず、魔王はベッドへと運んでくれる。
垣間見える残酷な言動から、恐いヒトなのだろう。寝室での様子しか知らないが、魔王は理子に対して甘い上に優しい。
たとえ、所有物への執着でも物珍しさからでも、優しく扱ってくれている。
だからこそ、モノ扱いは嫌なのだと気付いた。
理子の体をベッドへ寝かせ、離れようとする魔王の寝間着の裾をそっと掴む。
「わた、しは、人だよ?」
そう、異世界に住んでいるとはいえ、血の通った人なのだ。モノでも、抱き枕じゃない。
「魔王様のモノじゃなくて、友人とか、モノ以外の、一個人の扱いをして?」
背を向けていた魔王がゆっくりと振り向く。
「わたし、魔王様にいっぱい助けてもらったから、魔王様が大変な時は助けたいし、寂しい時は傍に居る。貴方に大事な相手が出来るまでだけど、ずっと一緒に寝られる人が出来た時は、ちゃんとお祝いもしたいよ」
ポロポロッ、理子の瞳から涙が溢れた。特別扱いはしなくていいから、山田理子として扱って欲しくてどうにか首を動かして魔王を見上げた。
「嫌いって言って、ごめんなさい」
魔王の目が見開かれる。
何かを噛み潰したような表情をして、魔王は深く息を吐いた。
「リコ、お前は本当に、想定外な女だな」
片手で顔を覆い苦笑いを浮かべた魔王は、腰を折って理子の方へと顔を近付ける。
ちゅっ
(えっ?)
額を掠めた、微かにあたたかな感触に茫然としていると、目元に残った涙を長い指先が拭い取った。
固まる理子の視線の先では、魔王が指先に乗せた涙の滴を舐める。
「塩味があると聞いていたが、案外、甘いものだな」
なにをされたのか、ようやく理解した理子の頬が恥ずかしさで真っ赤に染まる。
起き上がって文句を言いたいのに、疲労と眠気で起き上がることは叶わず。真っ赤な顔をした理子は、髪を撫でる魔王のされるがままになっていた。
ヒロインがブチキレする話、の予定が攻めきれずに撃沈。
ジレジレな魔王の感じにしたかったのに、どうしてこうなった?




