04.たまにはキューピッド役を
給湯室に立ちこめたドリップ珈琲の香り。
手が空いた時に、珈琲やお茶を飲める幸せに理子は頬を緩めた。
以前は、給湯室を利用する度に田島係長から嫌みを言われていたため、利用するのを我慢していたのだ。
あの時は感覚が麻痺していたとはいえ、自分は上司から不当な扱いを受けていたと今なら分かる。
「山田さん」
給湯室の入り口から声をかけられて、理子は珈琲入りのタンブラーを持って振り返った。
「伊東先輩、すいません。どきますね」
給湯室を利用したい女性社員の邪魔になっていたかと、理子は慌てて頭を下げた。
「いいって。山田さんに聞きたい事があってね」
二年先輩の女性社員、伊東先輩は周りを気にしながら給湯室の中へ入って来る。
普段は堂々としてハッキリものを言う彼女の態度に、何か気に触ることをやってしまったのかと、理子は身構えてしまった。
「あのさ、山田さんって彼氏いる?」
「へっ?」
完全に不意打ちだった伊東先輩からの問いに、理子は変な声を出してしまった。
「最近の山田さん、前とは違う感じになった気がするから。前はさ、固い感じだったけど最近は話し掛けやすくなったからね。皆、彼氏が出来たんじゃない? って言ってるよ」
ぱちくり目を瞬かせてしまった理子は、先輩が何を言っているのか理解するのにたっぷり十数秒は要した。
固まる理子をよそに伊東先輩は更に続ける。
「最近、綺麗になったんじゃない? 髪の毛艶々だし。彼氏が出来たなら羨ましいわ」
ずいっと顔を近づける伊東先輩の迫力に、理子は思わず後ずさった。
マスカラをバッチリ塗って、アイシャドウでグラデーションをつけた伊東先輩の目は、目力が凄いのだ。
「ええっと、ずっと睡眠不足が続いていたし、お手入れを放置していたから肌がボロボロだったんですよ。最近は、ゆっくり寝ているから調子がいいだけで、残念ながら彼氏は出来てませんよ。色々あったから……」
残業続きの日々で以前の理子は、常に顔色は悪く肌はボロボロで髪にも艶はなかった。
寝不足で常にフラフラしていて、あの時に比べたらしっかり寝ているしストレスもほとんど無い。
ストレスが軽減された今の方が、断然肌の状態は良く髪が艶々なのは当然だ。
自分でも今は生き生きしていて、パワーに溢れているのが分かる。
パワーに溢れていて艶々なのに、悲しいかな仲良くなった異性は魔王様だけ。
しかも異世界の魔王は人外で、理子の事を珍獣か抱き枕にしか見てないときた。
珍獣、もとい愛玩動物か抱き枕の関係だなんて恋人では無いし、とても人には言えない関係。
(あれ?)
高級なベッドでぐっすり眠れる、魔王は珍獣で暇潰しと抱き枕があるから寂しさを紛らわせる。と、魔王との関係はお互い都合が良い関係ということか。
「確かにあれは大変だったよね。嫌な事を思い出させてごめんね。じゃあ、今日の夜は暇?」
黙ってしまった理子に、伊東先輩は例の不倫問題の事で言葉に詰まっていると思ったらしい。
(今夜か。魔王が私を召喚する前、日付が変わる前までなら特に用事は無かったかな)
「夜ですか? 特に用事は無いですけど」
理子の答えに伊東先輩は表情を和らげる。
「暇なら一緒にご飯食べに行かない?」
「ご飯?」
伊東先輩からの“お誘い”に理子は内心首を傾げる。
職場以外で関わることは無いような、連絡先すら知らない先輩後輩の間柄で、一緒に食事に行くほど彼女とは親しく無かったからだ。
戸惑う気配を感じ取った伊東先輩は「そうそう」と付け加える。
「参加メンバーは、私、田中君、あと山本君。私の知り合いの子は彼氏持ちだから、山田さんが来てくれると助かるんだー。今、恋人持ちや既婚者を誘いにくい雰囲気でしょ? 協力してくれないかな?」
「お願い」と伊東先輩は両手を合わせる。
田島係長と高木さんの不倫問題があったせいで、上からの通達はされていないが職場での恋愛話や社内恋愛は控えるようにしよう、といった空気が流れていた。
情報通である隣の席の女性社員の情報では、伊東先輩が後輩の田中君の事を気にしているのを以前から知っていた。
吊り目だがなかなか美人な伊東先輩に、何かと世話を焼かれている田中君も満更でもない様子だし、伊東先輩としたらあと一押しとして食事に誘いたいのだろう。
今の職場の状況から一対一は不味いと判断して、理子と山本さんも誘いカモフラージュとするつもりなのか。
「そういうことですか。分かりました、協力します」
定時退勤して夕飯だけ食べて、早目に帰れば日付が変わるまでには余裕で間に合うか。
(先輩の恋愛に協力するのも、職場での付き合いも大事だよね)
愛想笑いを浮かべ、無意識に理子はそっと耳に触れていた。
「山田さんって、よく耳を触っているよね。癖?」
不思議そうに伊東先輩は自分の右耳を人差し指で触る。
「触ってましたか? 全然気がつかなかった。これは癖、なのかな」
(魔王様は、石は他の人には見えないって言ってたけど、な)
他の人、正しくは魔力の無い理子の住む世界の人には見えない、魔法の玉石。
その赤い色を見る度に、石を施した魔王の瞳の色を彷彿とさせる。
✱✱✱
ベッドの縁に腰掛けた理子は、傍に立つ魔王を見上げていた。
「そうそう、私の耳についている赤いのは、魔王様がつけたの?」
風呂上がりの状態で召喚された理子の髪は、魔王の魔法によってすでに乾かされており、首を動かす度に仄かにカモミールのリンゴに似た香りが広がる。
「……ああ。我とリコの繋がりとなり害なすモノから護る、柘榴石の玉だ。それは、お前と魔力の高い者以外には見えない」
魔王の長い指先が伸びてきて、乾いた理子の髪を右耳にかける。
露になった右耳の赤い石に、魔王の指先が触れた。
「繋がりがあれば、リコが何処にいようと喚べる」
赤い石から耳朶、頬へと滑る魔王の指先がくすぐったくて、理子は目を細めた。
(恋人なら束縛とか所有の印に聞こえなくもないけど……私は愛玩動物扱いだから、首輪かマイクロチップ?みたいなものなんだろうな)
「……さん」
「山田さん?」
ハッとなった理子は顔を上げた。
「はい」と返事をして、伊東先輩から手渡された連絡先が書かれた付箋をスカートのポケットへ入れる。
「じゃあ、今日の夜7時に現地集合でいい?」
「あ、はい。分かりました」
理子が頷くのを確認した伊東先輩は、足取りも軽く給湯室から出ていったのだった。
給湯室での会話です。