01.いきなりは止めてください
二章に入ります。
ジェットコースターみたいな一日が終わり、理子は久々に定時退勤することが出来た。
帰宅後、人事部所属の香織から「まだ内緒だからね」と前置きされてから、スマートフォンへ田島係長と高木さんの処遇について連絡が来た。
田島係長は、奥さまへの慰謝料とお子さまへの養育費のために辞職は許されず、陸の孤島と呼ばれている地方の営業所へ異動となる予定。
部下は退職間際男性社員のみで、もう悪さは出来ない筈だと香織から(笑)マークが送られてきた。
逆恨みから理子へ飛び掛かってきて、見えない何かに反撃されたらしい高木さんは「化け物が襲ってくる」とずっと錯乱したままだったらしい。
泣きわめき続けて医務室へ運んでも手に終えず、連絡を受けた親御さんが迎えに来て病院へ連れて行かれたと、退勤間際に課長がこっそりと教えてくれた。
彼女が何を見て怯えているのは分からないが、おそらくはこのまま職場へ顔を出すことも無く退職するだろう。
三ヶ月余りの不倫の代償にしてはきつい処分だ、とは思えない。二人とも就業時間内に社用車でのホテル利用や、理子や山本さんへ仕事を押し付けていたことが判明し悪質だと上に判断された、ということだ。
「濃い一日だったなー」
肩まで湯船に浸かった理子は、狭いバスタブの中いっぱいに手足を伸ばす。
自分の声が浴室に反響して聞こえるのは久々で楽しく感じる。
ここ一ヶ月半の入浴はシャワーだけで済ませていたせいか、のんびりお湯に浸かれるだけでも幸せだと感じられる。
課長と高木さんの処遇を知って後味が悪いと思う反面、ざまぁみろって舌を出している自分がいて心を病む寸前までいったせいで、自分でも性格が悪くなったなと自嘲気味な笑みを浮かべる。
明日は予定が何もない完全な休みだ。目的も無く街をブラブラ歩いてみようかと、理子は笑う。
(お風呂から上がったら、新しいカフェでも無いか調べてみよう)
ドラッグストアで入浴剤を買ってきて、明日は入浴剤入りお風呂に入るのもいい。それから、天気がよかったら部屋の掃除をして布団でも干そうか。
休みの日に何をしたらいいのか悩むのが贅沢に感じるだなんて、今までの無理がたたって理子の気分は高揚していた。
「ビール、じゃなくて梅酒飲んで寝ようっと」
体についた水滴をバスタオルで拭き取り、理子は寝間着に着替える。
長風呂をして火照った体を冷ますため、Tシャツはまだ着ないで上半身はキャミソールのままで洗面所のドアを開けた。
タブレットで調べものをしながら、まったりと梅酒をロックで飲もうかと顔がニヤける。
風呂上がりは暑いため髪を乾かすのは後だと、理子は肩にタオルを掛けて、鼻歌混じりに洗面所から一歩足を踏み出しー、
「えっ」
突然、足の指先をつけた床が朱金の輝きを放ち、解読不能な文字で形成された魔方陣が出現する。
魔方陣から伸びた朱金の光が理子の体へ絡み付いていく。
「ちょっ、待って!?」
これは前と同じく異世界召喚か。
抵抗する間もなく、理子の体は魔方陣の中心へと引きずり込まれた。
ぼよんっ
「ふぎゃっ」
白いシーツに覆われたマットレスの上へ、顔面から着地した理子は情けない声を上げる。
「何で……?」
痛む鼻を押さえつつ顔を上げれば、其処は、自室ではなく見覚えのある青白い淡い光に照らされた豪華な寝室だった。
壁の穴は塞がったのに、何故自分は此処へ喚ばれたのか。
寝室の主は何処だろうと視線を巡らせば、麗しき魔王はベッドから少し離れた椅子に腰掛け、長い脚を組んで理子をじっと見ていた。
「相変わらずひどい格好だな」
クツリと笑う魔王こそ相変わらず人外の美貌で、ただ長い脚を組んで座っているだけなのに、神が造った完璧な芸術作品に見える。
昨夜と同じく、胸元が見えるバスローブみたいな服に黒い細身ズボンを穿いた魔王は、艷やかな色気を振り撒いていた。
薄暗い室内なのにキラキラ輝いて見える銀髪だなんて、実際に髪から銀粉でも出ているんじゃないかと思ってしまう。
(銀粉を撒いているとは、蝶か蛾。もしかしたら触角が生えて……はっ、違う違う!)
斜め上の方向へ行きかけた意識を、理子は首を振って取り戻す。
「そ、それは、お風呂から出たばかりだから! 魔王様がいきなり喚んだからでしょ! 素っ裸だったらどうするのよ!」
素っ裸と自分で口に出して、理子の頬は真っ赤に染まる。
今の格好は、キャミソールに短パンという守備力はほとんど無い状態。
キャミソールはカップ付きで、透けない分素っ裸よりはギリギリ許されるラインだと思いたい。
「まるで濡れ鼠のようだな」
「……だからお風呂上がりだってば。いきなりは喚ぶのは駄目でしょ! 何で、また……」
精一杯の非難を込めて、唇を尖らせて理子は睨んでみる。
何で二度私を喚んだのと、聞きたいのに素直に口に出せずにいた。
フフッと魔王は笑い、組んでいた足を外して椅子から立ち上がると、ベッドの上にいる理子に向かって右手を差し出す。
「来い」
短く命じる言葉には、有無を言わせない力がこもっていて、理子は仕方無しに膝と手を使ってズリズリとベッドの端まで移動した。
ふわっ
ベッド端から両脚を出してカーペット敷の床へ下りようとした理子を、あたたかくて柔らかな風が包み込む。
風によって肩に掛けていたタオルがパサリとベッドに落ちた。
「わぁ……」
びしゃびしゃに濡れていた理子の髪は、吹き抜けた風で一瞬にして乾いた。
「凄いっ! ドライヤーいらず」
櫛すら通していなかったためごわついていた髪は、トリートメントをした後のような絹みたいな指通りになっていた。
髪から仄かに漂うジャスミンの香りがして、嬉しくなった私は勢いよくベッドから下りた。
「これって魔法?」
小走りで魔王の傍まで行った理子は、彼に尊敬の眼差しを送りながら問う。
「……ああ」
「凄い凄い! 便利ー」
ドライヤーやエアコン代わりに魔法が使えたら便利なのにと、興奮して自分の髪を指に絡めた理子は声を弾ませる。手入れを怠っていた髪を艶々に変えてくれるとは、魔王は女子力がありそうだ。
興奮して頬を紅潮させる理子を、魔王は目を細めて見下ろした。
「こんな程度で喜ぶとはな」
「こんな程度じゃないですよ! 私の傷んだ髪を復活させてくれたんですよ! 魔王様ありがとうございます。あと、こんばんは?」
あ、しまった。挨拶は始めに言わなきゃならなかったか。
話している途中で、理子は見上げている魔王との距離の近さに気付いてしまい「こんばんは」は、尻窄みとなってしまった。
「やはり、お前は変な女だな」
「っ!?」
不自然な動きにならないよう、じりじり後ろへ下がって距離をおこうとした、理子の右手首を魔王が掴む。
(ひぃー、離れて!)
色気漂う美貌の魔王の顔をなるべく見ないように、理子は俯いてしまうのであった。
銀粉撒いている魔王って、トカゲな姿より怖いと思う。