09.弱る、こころ
残業続きの日々では、深夜の魔王様との会話は理子にとって息抜きの時間となっていた。
人外の魔王という、自分の常識外の存在と壁を隔てた状態が話しやすいのだ。
彼と会話を重ねる度に、必要か分からない異世界の知識が増えていく。
「へー、魔王様の世界は魔法がある世界なんですね。ファンタジーだなぁ」
「リコの世界には魔法は無いのか?」
「こっちの世界では、魔法を使える人はいないかな。奇術を使える人はいるけど。魔法が無い代わりに科学や機械工業技術が発達しているの」
魔王が存在する異世界の生活水準を総合すると、ヨーロッパの産業革命前、17世紀くらいの技術力。
理子が存在する世界と異なるのは、魔法や魔物が存在する事。
一度、魔王に「人と敵対して世界征服はするの?」と問い掛けたら、「くだらん」と鼻で嗤われた。
魔族や魔王でも世界征服をするのは、その時の時勢と個人の自由みたいだ。
先程の話に戻すと、異世界の住人は、能力に差はあれど皆魔力を持って生まれてくる。
魔力をエネルギーに変換して作動する、魔道具なるものを使用して生活しているため、蒸気や電気を必要とする機械技術は必要ないようだ。
「科学だと?」
「科学は、科学は物事の起こる理由を説明するものだっけかな? 電気や燃料の力を動力とした生活を助ける道具があるの。道具を使えば、季節関係なく快適に暮らせるように温度調節が出来たり、遠くに住んでる人に自分の声や動画を届けたり、馬より速く走る乗り物とか、空を飛ぶ乗り物。すごい便利だけど、自分の力で現象を起こす魔法の方が環境に優しいし凄いと思うよ」
自分や他者の魔力で機械や交通機関が動けば、環境汚染や温暖化問題にはならない。
子どもの頃、読んでいた漫画の主人公みたいに指から火を出したり空を飛べたら、最高に楽しい気分になれそう。
「魔法かぁ見てみたいな」
「では、此方へ来るか?」
最近、事あるごとに魔王は理子を異世界へ勧誘する。
しょっちゅう自分の許へ誘うくせに、あっさり引き下がるものだから彼の真意が分からない。
誘われる度に、理子が返す台詞は何時も同じ。
「絶対に帰れるって約束出来るならそっちへ行きます」
「くくくっ魔王の我に、約束だと?」
約束してくれないのかと、少しだけ落胆する。
壁の向こう側に居るであろう、角と羽根と尻尾を生やしてトカゲみたいな肌をした魔王が肩を震わしている姿を想像して、理子はニンマリと笑うのであった。
***
この日も、理子は遅めの昼食を食べに食堂へ行き、麺の熱さに格闘しながら蕎麦を啜っていた。
昼休憩の終わり頃のため、米飯物は売り切れていて先週からずっと、一週間は麺類を食べている。
今日は「いつも大変だね」と食堂のおばちゃんが小さいお握りをくれた。疲れで弱っているらしく、ちょっとした優しさに泣きそうになる。
出来れば、他の人達と同じ様に時間通り昼休憩へ出たいのだが、なかなか上手くいかない。
仕事を片付けるのが遅い、と指摘されればその通りで何も言えないのけれど、部署の中でも理子に回される仕事量が明らかに多いのだ。
「理子」
蕎麦の器が乗ったお盆の上に、コンビニで買ったと思われるシュークリームが置かれる。
何時もみたいに理子の向かいの席に座ったのは、同期で友人の香織だった。
香織は何故か、切なそうに眉尻を下げて理子を見つめる。
「ねぇ、仕事終わったら飲みに行こっ」
「今日はデートだって言ってなかったっけ?」
今朝、更衣室で会った香織が嬉しそうにそう話していたのだ。
「まー君も久しぶりに理子と話したいって言ってるし、ちょっと相談に乗ってほしいんだよ」
「相談? じゃあ、お邪魔じゃ無かったら参加したいな」
へらっと笑えば、硬い表情だった香織はほっとした様に頷いた。
「じゃあ決まり。場所は何時もの所で、仕事が終わり次第集合ね」
「うん」
蕎麦を食べ終わり、香織から貰ったシュークリームの袋を破いている時、少し離れた席から立ちあげる女子社員の姿が目に入り理子の手は止まった。
(あれは、高木さん?)
高木さんは、お世話係の理子を嫌う後輩の新入社員。
オジサマ受けが良く、上司からも可愛がられている彼女は、真っ先に昼休憩へ出た筈。
何をしていて昼食が遅くなったのかは知らないが、昼休憩くらいは彼女の姿は見たくなかった。
黙ってしまった理子の目線に気付いた香織が「いい気なものね」と、高木さんの後ろ姿に呟いた。
「は?」
勤務終了時刻30分前、上司から渡された紙の束を前に理子は目眩を起こしかけた。
「これを今日中に? 今からですか? しかもこのデータ入力は高木さんの分ですよね?」
渡された紙の束は、明日の会議資料として必要だと言うのだから、信じられない気持ちになり上司に確認する。
「すいませーん。今日はぁ、母が体調を崩していてー早く帰らなきゃならないんですよぉ」
語尾が間延びする彼女特有の話し方に苛立つも、高木さんは素早く上司の後ろへ隠れてしまう。
「早く帰らなきゃならない後輩の頼みを聞いてやれよ。本当に山田は冷たいな!」
誰か助けてくれないかと周りを見渡すが、火の粉を被りたくないとばかりに同僚達は一斉に下を向く。
「どうせ山田には夜の予定はないんだろ?」
勝ち誇ったように、ニヤリと嗤う上司の顔が気持ちが悪いものに見えて、理子は込み上げてくる吐き気を必死で堪えた。
“ごめん! 仕事押し付けられた! 残業になる”
“マジか! クソ上司にビッチだな!”
“誘ってくれたのにごめんね”
“いいって、頑張って。帰ったらゆっくり休んでね”
労りのメッセージとともに、香織と彼氏のまー君が顔を寄せたツーショット「がんばれ!」の文字が書かれた写真が届く。
「あーあ、せっかく誘ってくれたのになぁ」
何も無ければ今頃は送られてきた写真みたいに、二人と一緒に笑っていただろうに。
まさか、会社に一人残って寂しく残業とは。
既に時計は夜22時近く。
自分以外の社員は退社している中、理子のデスクの上だけにパソコンと書類が乗っている。
押し付けられた仕事はかなりの量で、後輩は今日一日何をやっていたのかと、問い詰めたくなるくらいの量だった。
この量では、ぎりぎり今日中に終わればいい方だ。
これでは終電はもちろん、魔王との会話の時間には間に合わない。
明日の会話で、また「我の国へ来い」と言われるかな、と私は苦笑を浮かべた。
はぁーと溜め息を吐けば、じんわりと視界いっぱいに涙の膜が張っていく。
(泣くな、わたし)
ぎりっと奥歯を噛み締めて涙が溢れ落ちるのを堪える。
今泣いたら、必死で保っているちっぽけな矜持が崩れてしまう。
きつく目を瞑った理子の耳に、ひび割れた笑い声が聞こえた気がした。
香織が飲みに誘ったのは、状況を知っていたのとヒロインの顔色がヤバかったから。
後輩は確信犯です。