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いろいろ

拒めなかったカサンドラ

作者: 檸檬 絵郎

 カサンドラ(カッサンドラー)ーー ギリシャ神話に登場する、トロイア(トロイ)の王女。神アポロン(アポローン)の寵愛を受け、予言の能力を授かる。その能力によって、自分がのちにアポロンに裏切られる末路を知った彼女は、彼の愛を拒み、彼によって、人々が彼女の予言を信じないように呪いをかけられた。


 その他、ギリシャ神話のエピソードを意識した要素がいくつか盛り込んである。そのほとんどは、アポロンとカサンドラに関するものだが、主人公の激情のたと ーーーーーー


 前書き(補足)は以上である。

 大河の向こうに、古城(こじょう)が見えた。

 濁った深緑色のペンキ。そんな色彩の渦巻くなかに、茶色く乾いた壁が、薄く ――


 彼女はジムに入り込み、バッグを叩いていた。眼には涙を浮かべて。

 一人。一人だけ。

 自分の息の音を聴いていた。感傷に浸っていた。床を(こす)るシューズの音は、地下空間いっぱいに(ひろ)がって反響するが、彼女の息の音 ―― 自身の感じる息の音 ―― には及ばない。

 とにかく音を出していたかった。バッグの音に被せるように、(かす)れた声を出す。そのたびに新しい涙が、―― 仕事が終わって大気を曇らすのみとなった排気ガスが、管のなかを進むように ―― 彼女の眼のなかに溢れた。


 話したところで、どうせ誰も信じない。

 彼女が顔を紅くして一生懸命喋る言葉は、いつも他人(ひと)をしらけさせる。ある者はあからさまに不機嫌な顔を見せ、ある者は静かに煙草とライターを取り出す。

 彼女の感情は常に真実だ。彼女が聴き手の立場に回れば、疑いなくその一つ一つを信じ、涙を流して聴き入るだろう。しかし他人はそうはしなかった。

 今度の感情も、どうせ信じられないのだろう。


 ママレードの空き瓶 ―― ついさっき、(かび)の生えた中身が取り除かれたばかりの ―― 彼女の心はそんな状態だった。空虚に(おび)える心には、少し前には自分を苦しめていたねとねととしたどうにもならない感情さえも、惜しく感じられる。

 指よりも、膝よりも、今は胸がおかしい。


 彼女が幸せだった頃の話。

 テレビでプロボクシングの中継を観ていたとき、いつの間にか隣が空いていた。見ると、彼はカーテンを閉めて戻ってくるところだった。

「サネは激しすぎるから」

 彼は笑って言う。口癖のように、いつもそう言っていた。

 彼女がレモンだとしたら、彼はオレンジといえるだろうか。絵の具でいえば、イエローにレッドを混ぜて作られる。一房(ひとふさ)ずつ()いて口へ運ぶと、心地よい刺激と甘味(あまみ)が舌のうえへ拡がる。彼女はオレンジが好きだった。


 アッレグロを弾いてくれ。

 ―― これもその頃の話だが、―― 彼はいつも、そのように言った。曲目にはこだわらない。ただし長調に限る。

 一曲丸々アッレグロということはないのだが、彼女が演奏し終えると彼はいつも、

「サネのアッレグロは最高だ」

 と彼女に笑いかける。

 そのようにして、仕事の後の疲れを癒していた。

 そんな彼が、彼女の心を癒していた。


 ある夜。

 大河の向こうに、古城が見えた。

 茶色い壁が、薄く。

 閃光(せんこう)が走るが、(とどろ)きは聴こえない。

 グレーの煙が立ち昇る。

 ―― その光景は、彼女に不吉な予言を語った。


 ある夜を境にして、感じやすい彼女の心は大いに乱れた。

 馬鹿げている。

 さすがにそういう思いもあったが、彼女のなかの混乱 ―― 何種類ものアルコールを胸のなかへ引っくり返したような激情 ―― にとって、その理知的な考えを押し潰すのは訳もないことだった。

 (おり)悪く、彼が昔の話をしたことも、彼女の心の不安を煽った。

 彼は軽やかに、わざと音程を外しながら歌う。

「あなたの頭には、絶対にぃ、

月桂樹の葉の冠が載るぅ……

―― サネ、どうした?」

「……」

 中学の頃、リレーの選手に選ばれた彼を応援してクラスの女子生徒たちがその歌を贈ってくれた、という話だった。何でもない話だ。しかし彼女には、それが自分を滅亡へと追い込む運命の前奏なのだと思えてならなかった。


 彼女の不安は、取り越し苦労には終わらなかった。あろうことか、論理的根拠に欠ける彼女の予知は当たっていたのだ。

「あと三ヶ月、

そしたら俺も、そっちに行ける。

早く会いたい」

 彼のメール。宛先を見ると、女性の名前。

 言葉が出ない。

 不意に、足音が聴こえ、―― こんなところで、彼女の理性がはたらきだした ―― 彼が部屋へと入ってくる。

「どうした、サネ?」

「何でもない」

「……何でもなくはなさそうだけど」

 彼はいつもより少し酸味の強いような笑みを見せたが、あとは何も言わなかった。


 三ヶ月 ―― その地獄のような季節を、彼女は過ごした。

 彼女の混乱が彼に見えないはずはなかった。実際彼は、

「気分が悪いなら、無理に会わなくてもいいよ」

 という科白(せりふ)を吐いたこともあった。本音を語り合うならそちらから話を切り出してくれ、とでも言いたげに。彼の確信度合い ―― 彼女の様子から推測できる事実の ―― が、どの程度だったかは知るよしもないが、その態度が卑劣なものであったことには間違いないだろう。

 ところが、彼女の眼には、彼の笑みがいつになく優しく映った。彼の頬はオレンジのように明るく光って見えた。―― かけがえのない、大切なもの ―― それは彼女にそう思わせるには充分すぎる光景に思えた。


 一人になると、彼女は泣いた。

 どうにもならない、ねとねととしたペンキのような感情が胸を襲った。やがてその波のなかへ、茶色い、消えそうなほどに薄い古城の影が、(かす)かに見えてくる。


 何も言い出せぬまま、―― 怒りもせず、拒みもせず ―― その季節は終わった。

 彼は静かに去っていった。

 理由は言わなかった。恋人がいるとも、何とも。

 ママレードの空き瓶 ―― 何もかもなくなって、()びた(にお)いのみが残っている。

 指が痛い。膝も痛い。


 シューズの悲鳴と鈍い音。地下空間いっぱいに、沈黙が拡がった。









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― 新着の感想 ―
[良い点]  お初にお邪魔いたします。  懸命に説明しようとしても、必死に訴えようとしても、かえって言葉にできない、相手をうんざりさせてしまう。辛い思いを人は繰り返します。(そんな経験がない人もいるの…
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