ある人の一日
少しばかりの小説を読んできた身として、少しばかり思うところがあって、書いてみた。是非。
オフィス街の雑踏の中、木村和弘はスーツ姿にコートを羽織ってで出社中だった。電車は込み合っていたが、もう済んだことだ。帰りの電車は遅くなるから、今日はもう気にならない。朝の食事を行列で並んだファミレスに行き、簡単にカレーと水で済ませると、いつも通りの時間には出社できそうだった。木村は今28歳だ。スーツ姿がよく似合う。特にネクタイはきりっとした印象を与える。こんな日にというべきか。それはよく晴れ渡っていた。しかし、少しだけ緊張していた。手に入れた小箱が、胸ポケットの中に収まっている。今日はジャケットを脱ぐまいと決めていた。オフィス街のビルの一つに入り、セキュリティチェックを済ませてから、エレベーターへと向かう。何人かの社員がせわしなく広い空間を行きかい、それぞれの方向に向かっていた。彼は、比較的高層階の、オフィスへと向かった。絨毯のような床の上を、少し落ち着かない感覚で歩いていく。自宅マンションに配達された新聞と、スマホで素早く情報収集を行った。自社の関連商品が何らかの形で表示されていることを知り、やや落ち着いてチェアに座った。パソコンを起動し、微妙な時間の後で使用可能になると、メールチェックを始めた。中には昨日のうちに出されたものもあって、急いで返事を書くために、頭を回転させる必要があった。こんなことでは仕事で失敗を犯してしまう。いけない。しっかり集中しないと。パソコンで内容を吟味し、システム手帳とパソコン内のデータを引き出し、メールを3件ほど送った。次いで昨日からの仕事の続きを始める。
明美とは26歳のことに出会った。彼女は大学出たての23歳。何でも話せる気さくな人柄と、大人びた哲学というか、指針を持っているというか、そんなところに惹かれた。もちろん約束を守るとか、あまり大酒飲みというわけではないとか、いくつもの要素はあったが、3度目の恋にして初恋のような印象を持っていた。互いに気持ちの確認はしていたし、デートを重ねてもいた。パソコンでの作業をしながら、彼は手帳に書き綴った今日の約束をしたためた記憶を呼び起こしていた。7時半、駅の前のオブジェで。レストランは予約していたし、確認は取れていた。クリスマスはデートが少し予定外だった経験を活かし、今度は完璧に済ませるつもりだった。残りのメールチェックを済ませ、かかってきた電話に応対し、書類をパソコンで作成した。メールチェックは長いが、書類の作成はこれまでの積み重ねから、容易に近かった。書類が全体の流れを左右する、とまではいかないが、任された重要な仕事だった。木村は、次いで社外秘のデータベースにアクセスし、情報を確認する。顧客その他のデータがあったが、彼は全てのデータにアクセスする権限をもってはいなかった。デスクトップは少し型の古い新品で、仕事に差しさわりがあったことは一度もない。必要事項を確認し、上司に連絡の必要があると知った。彼は上司に社内メールを送ったが、返事はすぐには来ない。別の仕事に取り掛かって、簡単なパソコン操作を行った。もうすぐ自動化される予定になっている、雑多な仕事の一つだった。もう一つ書類を作ったら、昼食が待っている。電話を2本かけ、文書作成に入った。硬質なそれは、非常に個人的に重要なものだった。データベースにアクセスし、調べものをし、文書作成を行った。あまり実務の経験がないものだった。ブリーフケースからノートパソコンを取り出し、アダプターを差し込んで電源を入れた。電話がかかってきたので、応対し、仕事が増えた。ノートパソコンからのデータを引き継ぎ、デスクトップにコピーを終えると、社内コンプライアンスが頭をよぎった。メールを受け取って、その内容にやや驚愕した。女性社員が出前取っておきましょうかと言って来たので、2000円渡しておいた。電話、メール、文書作成に時間は費やされた。メールを送り、返信を待ちつつ、資料に目を通した。
明美にメールを送り、かつ丼と天丼を同時に食べながら、午後の上司が参加する会議について思った。上司のオフィスに資料に付箋を貼ったものを持って行った、持っていく途中で付箋を剥がし、ポケットにしまった。明美から電話がかかってきた。
「どう?仕事」
「ああ、約束には間に合うよ」
「そうじゃなくて、うまくいってる?」
「ああ、大丈夫だ。それより、間に合いそう?」
数分雑談をして、電話を切った。明美もまた、オフィスで仕事をしている。別の会社だが、卒業した大学が一緒だったことから、意気投合した。そこから頻繁に会うようになっていった。だから、事情はよく知っていて、勤務時間には電話はかけてこない。この日は例外だった。高いレストランを予約しようと言ったのは、木村の方だった。だが、彼女は気づいているだろうか。
パソコンの前に戻り、再び作業を始めた。そのうち、キーボードをたたく手がリズミカルになっていった。気晴らしに明日はカフェで、ノートマシンで仕事をしよう。今日がどんな日になろうとも。うまくいきそうな予感がした。
上司が参加する会議が始まった。会議の結果を簡単に報告すると聞かされていたので、仕事に専念できた。ノートパソコンとデスクトップを並べて、並行して作業を行った。コンセプトにはすでに共感していたし、ここを変えては元も子もないから、絶対的な柱であった。ずっとこのプロジェクトに関わってきた。CM制作にこぎつければ、仕事は一層面白くなる。次の段階にステップアップできる可能性を持っているからだ。
休憩まで、ノンストップで仕事を続けた。時折、明美のことが頭をよぎった。仕事と、彼女の両方を持っている人生が来るとは思わなかった。上司からの会議が終了したとのメールを受け取った。この流れを受けて、木村は狂喜乱舞した。仕事の成功。チャートの分析の手が止まり、全てのデータを素早く保存して、コーヒーを飲みにオフィスから出た。普段あまり飲まないコーヒーを飲むのが目的ではなかった。会議の結果を仲間と確認しあうためだった。上司のオフィスにもよるつもりだった。
情報は思ったより下りてこなかったが、多くは有益なものだった。予算が付いて、これから大きな事業の柱になる可能性を持っている。いいニュースばかりではなかった。想定外のこともあったが、修正して考えればいい。会議資料を入手できればと思ったのだが、なかなかうまくはいかなかった。鼻を折られた気分になったが、喜びであった。上司は分厚いファイルを二つばかり抱えて、会議室から戻り、情報を精査しているところだった。彼は詰め寄った。ああ、分かっていると上司は簡単な報告をした。彼の言葉によれば、予算規模は増え、会社にとっての重要な局面を迎えるというか、転換点を迎えるとのことであった。大筋で会社の言い分を通し、こちらの要求をほぼ飲んでもらったとのことだった。互いが利益を得る、重要な決定であった。この決定を受けて、更にアイデアを練ろうと意気込む木村だったが、もう時間は刻々と過ぎていくばかりだ。もう、一日が終わろうとしている。この一日はあっという間に感じられたが、明美のことを思うと、また緊張が走った。
今日、プロポーズをする。
木村は仕事に戻った。上司の言葉を一つずつメモしたシステム手帳を、眺めていた。作業計画とそれを見比べ、違いを修正する必要があったのは、仕事を先行させて進めていたからだ。一から文書を作成しなければならないところもあって、やや時間を無駄にした。電話がかかってきて、長引いた。時計に目をやると、まだ約束の時間には間に合うレベルだ。ようやく電話が終わると、掃除婦がやってきて、ごみを片付け始めたので、ポケットに入れた付箋をごみ箱に入れようとして、やはりごみ袋に入れた。もうすぐ、明美に会える。彼女は割とそっけないところがあるので、以前せがまれた過去の恋の記憶も、忘れていそうだった。そういうところはおおらかな女性だ。
日は暮れていた。木村は仕事を終えると、素早くエレベーターを降り、緊張の面持ちでコートの襟を立てた。こんなに冷え込まなくてもというくらい、外は冷えていた。約束の時間には多分間に合う。二人で待ち合わせして、レストランに向かう。そしてそこでプロポーズする。文字通り給料3か月分の指輪を贈る。いつも彼女が遅く来るのに、今日はオブジェの前にもう姿を表していた。よかった。赤いコート姿の明美が、木村を見つける。にっこりとほほ笑む。白いふわふわの手ぶくろがよっとこっちを向く。赤い腕が木村の白いコートの腕に巻き付いた。ああ、今日が無事に過ぎますように。
楽しんでいただけたでしょうか。楽しくなかったらごめんなさい。