第3話 猫は変身した
「え?」
「ぎゃーっ!」
一瞬だったから、よく見えなかったけど。
肌色っぽい何かが。見えたような見えなかったような。
おかしな現象に遭遇しすぎて、もうすでに頭がおかしくなっているのかもしれない。いくらなんでもありえない。
「えぇ? ちょ、え? ど、どういう? えぇぇ?」
混乱する僕の目の前から、肌色成分の多めな女性は慌てて窓際まで逃げて、金具ごと無理矢理引きちぎったカーテンで体を包んでこちらを見ている。
「ごめんなさい。我慢できませんでした。美味しゅうございました」
真っ白で背の丈ほどもありそうな長い髪と、透き通るような肌、深い蒼色から空色までの綺麗なグラデーションの虹彩が印象的な瞳の美しい女性だった。
先ほどまで目の前にいた白猫とおなじ薄水色の首輪をしている。
「こんな状態でお願いするのは心苦しいのですが、よろしければ、もう一口いただけないでしょうか」
すき焼き弁当を凝視しながら、よだれをたらしている様子を見るに、先ほどの白猫がコレになったということなのだろうか。
にわかには信じられないが、さきほど白猫が言っていた「呪いがかかる」というのはこのことだったようだ。
こんなに綺麗な女性が、ずっとよだれをたらしているのも見ていられないので、仕方なくすき焼き弁当を彼女に差し出した。
「ありがとございま」
白いお姉さんはお礼を言い終わる前に、ものすごい勢いですき焼き弁当に食らいついた。
ガツガツと効果音が聞こえてきそうなほどに、みるみるうちに口の中にお肉とご飯が消えていく。
「お高いんだから、もっと味わって……ください……ね」
まだ半分以上残っていたのに、もったいない。もっとベストな状況で食べたかった。いつかリベンジをしようと僕は心に誓った。
「大変美味でございました」
白いお姉さんは頬をほんのりと桜色にそめて、うっとりとした表情で口元を手で拭う。ありもしないヒゲを洗っているかのような仕草だ。
見た目は妖艶な女性なのに、その仕草は明らかに白猫が前足でやっていたのと同じで、なんともシュールだ。
どう考えてもおかしい。
そもそも猫が話していたこと自体もおかしいが、いきなり人間になるのだっておかしすぎる。
もしかすると僕は妄想のしすぎで妄想が見えるようになってしまったのだろうか。
疲れているのかもしれない。
「あっ、こんなことをしている場合ではありませんでした。あなたにとって最後のチャンスというお話でしたね。実はお願いがございまして。あるお方の手助けをしてほしいのです」
「手助けって、どういう」
「それは現地に行ってからご説明を。お礼は成功報酬として後からお支払いします。その後の人生が変わるぐらいの価値あるものをご用意できると思います」
「はぁ、そうですか。それはすごいですね」
また詐欺めいた勧誘話が始まるのかとガッカリしながら、妄想もここまでくると異常だなと反省していた。
いくら妄想だとしても、裸の女性をカーテン一枚だけの状態で放置するのもアレなので、クローゼットの中から、着られそうなものを探して彼女に手渡した。
「こ、これは、いいのですか。なんて可愛い。嬉しいです」
彼女が喜んで着替えたのは、僕が高校時代に着ていたジャージだった。
緑色に白いラインが入っていて、ほかの学年が青や赤だったのに、自分たちの学年だけ一番ダサい緑を着る羽目になって、ミドリムシと揶揄されていたことを思い出す。苦い思い出だ。
嫌だったら捨てればいい話だが、残念ながら物持ちだけは良い。今も時々パジャマ用のスウェットが洗濯で乾かなかったときに着ているのだ。
だが、そんなミドリムシ衣装を可愛いと言える白いお姉さんのセンスがよくわからない。
やっぱりもともとが猫だからおバカさんなのか。
しばらくすると、白いお姉さんがくんかくんかとジャージを匂い始めた。ちゃんと洗濯をしたから臭くないはずだが、ちょっと心配になる。
「なんだか懐かしい匂いがします」
「どういうこと?」
「飼い主様と同じ匂いがいたします」
白いお姉さんは少し恥じらうように控えめに笑った。
なにか一瞬、眩暈がした。
やばい。可愛い。しかもエロい。
もともと猫なんだから飼い主がいても不思議はない。だがこんな美しい女性の口から突然『飼い主様』という言葉が出てくると、なんともエロい響きに聞こえてしまう。
「そ、そそそ、そうなんだ」
動揺を隠すように必要以上に低い声で答えたつもりが、自分で思っている以上に声が上ずってしまった。
恥ずかしい。頭の中がパニックになっているのがバレバレだ。
「どうかされましたか? 顔が真っ赤ですよ。そんなにじっと見つめないでください。実は顔も飼い主様によく似ておられるので、あんまりじっと見られると照れてしまいます」
白いお姉さんは、またはにかんだ。頬を赤らめている。僕に似ている飼い主っていったい。
「そんなに……似てるの」
僕の質問に対して、白いお姉さんは少しだけ悲しそうな顔をした。
「そうですね。飼い主様があなたにお会いしたら、びっくりするぐらいには」
白いお姉さんは小さく微笑んだ。
僕を見ているようで、その飼い主を見ているような、遠い目をしている。
「あの、その少しお願いが」
「な、なに」
「撫でてもらえませんか」
「はい?」
「頭を撫でていただけると、大変嬉しいのですが」
「なんで、そんなことを」
「ダメでしょうか?」
白いお姉さんは、まるで猫が飼い主に餌をねだる時のような、キラキラした目でこちらを見ている。
「ダメじゃ……ないけど」
「ではお願いします。少しだけでいいので。このあたりを」
白いお姉さんは頭のてっぺんを指差している。
僕はごくりと唾を飲み込んでから、ゆっくりと手を伸ばした。
指が白い髪の毛に埋もれる。何度か撫でるように動かすと、ツヤツヤしている髪は滑りが良かった。
彼女の体温が手のひらに伝わって来る。こちらのドキドキが手を通してばれていないか、そんなことばかりが気になってしまう。
彼女はまるで猫が頭を撫でられているかのように、目を細めて気持ちよさそうにしている。
そう言えば実家で飼っていたシロも、こんな風に頭を撫でられるのが好きだった。
ついその時のことを思い出して、頭だけでなく喉元も撫でようとしそうになって、慌てて手を止める。
「もう終わりですか」
白いお姉さんが少し残念そうな表情でこちらを見ている。
首を傾げている姿は、とんでもなく可愛い。
もう限界だ。
いくら妄想でも酷過ぎる。
こんなに可愛いとか反則だ。
綺麗なお姉さんと、自分の部屋で二人きりとかありえなさすぎる。しかも頭を撫でるなんて。体が持たない。
「もう……いいだろっ」
必死に平常心を保とうと努力しながら、なるべくバレないように体育座りをしてごまかす。
こんなとき、もしイケてる男子なら、あんなことやこんなことをしてしまえるのだろう。でも僕は童貞だ。どうしようもなく童貞だ。
こんなに綺麗なお姉さんが目の前にいても、なにもできない。一ミリも動けない。蛇の生殺しとはこのことか。
「では参りましょうか」
「え? どこに」
白いお姉さんが僕の腕を掴んだ。
ドキリとする間もなく、お姉さんは目の前にある赤い宝箱を開けて、そのままスルスルと宝箱に吸い込まれた。
僕の体も引っ張られるように吸い込まれていく。
なんだか体が細長く伸びているなーという感覚に包まれながら、僕は別の世界に落ちていった。