第19話 あの日の記憶
雪が降っていた。
段ボールに捨てられていた子猫は四匹。
そのうち僕が見つけた時点で生きていたのは一匹だけだった。
まだかすかに息をしている子猫をすくい上げてマフラーで包んだ。
ぎゅっと胸に抱きしめながら家まで走って帰った。
背中でランドセルが激しく揺れる。道のりがいつもより長く感じる。
早く。速く。お願いだから、僕の足、もっと速く走れ。
家の玄関にたどり着いたときには叫んでいた。
「お父さん! お母さん! この子を助けて!」
そのとき拾ったのがシロだった。
※
それからはずっと僕とシロは一緒に過ごした。
一緒に遊んで、疲れたら一緒の布団で眠って、どこにでもついてくるシロの頭をいつも撫でてやっていた。
僕がご飯を食べていたら、シロがじっと見ていてよだれをたらしていたり。悪さをしても知らんぷりをしていたり。
なにをしていてもシロは可愛かった。
たまらなく愛おしくなって、何度もぎゅっと抱きしめた。
あんまり抱きしめていると、時々嫌な顔をされちゃうこともあったけど。そういう迷惑そうにする顔ですら可愛かった。
僕はシロのことが大好きだった。
シロと出会ってからの生活は幸せにあふれていた。
いつまでも、その生活が続くと思っていたんだ。
けれど、終わりの日がやってきた。
あの日は、大学の合格発表の日だった。
僕は一人で大学に向かい、受験番号を探していた。
掲示板に張り出されている数字に群がる人々。
近くで上がる歓声。肩を落とす受験生。
数字ばかり見ているとゲシュタルト崩壊をしそうになる。
間違わないように。何度もなんども確かめる。
あった。
連絡を待っている両親に、心を落ち着けてから電話をする。
「ちゃんと番号あったよ。合格してた」
照れくさくて、わざとそっけない感じに伝える。本当は飛び上がるほど嬉しいくせに。
「おぉ、そうか。おめでとう、真。シロもおめでとうって言ってるぞ」
父さんが電話口にシロを近づけたのか、ニャーという声が聞こえた。
「今夜はお祝いにどこか食べに行こうか」
母さんが聞いてきた。
少し考えてから答えた。
「そうだな……すき焼き、ちゃんとしたお店で食べるすき焼きが食べてみたい」
「よし、わかった。これから予約が取れるか調べてみるから、ちょっと待ってろよ」
父さんと母さんがいろいろ電話の向こうで相談している。
「ここなら予約が取れそうだ。よーし今夜はすき焼きだー!」
父さんがはしゃいでいる。シロもつられて、ニャーと鳴いている。
「シロ、残念ながらお前はネギがダメだから連れて行けないぞ。お家でお留守番だ」
父さんがシロをたしなめている。シロは悲しそうな声を上げた。
シロは猫の割に一人が好きじゃないタイプなので、お留守番はあまり得意じゃない。
僕が家にいるときは、ずっと後ろをついてくる。トイレでもお風呂でも、いつでもシロにはストーキングをされて何もかもをのぞかれまくっているぐらいだ。
きっと捨てられていた時の記憶があるのかもしれない。一人ぼっちになりたくないから、ずっとそばにいようとするのかもしれない。
とはいえ、さすがにすき焼き店には連れて行けないだろうから、シロには我慢してもらわないと。
でも電話の向こうではまだシロがぐずっているのか、父とシロの問答が続いている。
「一緒に行きたいのか?」
「ニャー」
「そっか。お前もお祝いしたいのか。うーん、お店には入れないかもしれないけど、それでもいいの?」
「ニャー」
「お前の嫌いな車で行くんだぞ。それでも行くの?」
「ニャー」
「よし、わかった。じゃー行こうか」
父は根負けして承諾してしまったようだ。
「えーっ? だ、大丈夫なの?」
僕は心配になって声を上げた。
「あ、いやまぁ、店の中までは連れて行かないよ。とりあえず、連れて行けるところまでな。シロもお前に早く会いたいだろうし」
電話の向こうで、父がそう弁明する。
「そっか。わかった」
そりゃそうだなと僕は安心する。
「そのお店ね、真が今いるところに近いから、そのままお店に行ったほうがいいかもしれないわね。もし先についたら桜井で予約取ってるから、先に中に入ってていいよ。じゃあまた後でねー」
母さんがそう言って電話を切った。
僕は指定されたすき焼き店に向かって歩き出す。
もうしばらくしたら食べられるであろう極上のすき焼きの味を想像しながら、自然と笑みがこぼれてしまう。はたから見たらかなり怪しい人物になっていたかもしれない。
希望していた大学にも合格し、すき焼きまで食べられるのだ。嬉しいに決まってる。
しばらくすると、メールがきた。母さんからだ。
「これからみんなで向かいまーす。
めずらしくシロもそのまま車に乗りたがったから、一緒に乗せていくよー」
画像が添付されている。車に乗った両親とシロが写っていた。
助手席の母さんがシロを抱っこしたまま車に乗っているという姿は初めて見た気がする。シロはいつも病院に行くときに、ケージに入れられるまで散々暴れて、すったもんだの末に嫌々乗るぐらいなのに珍しい。
よっぽど一人で留守番が嫌だったのだろうか。それともそんなに僕に会いたかったのだろうか。
可愛い奴め。
あとでいっぱいぎゅってして、撫で撫でしてやろう。
そんなことを思いながら、僕はニコニコしたまま、すき焼き店に向かった。
とっても幸せだ。そう思っていた。その時までは。
だが待てどくらせど、いつまでたっても両親は店に来なかった。
電話をしてみるが誰も出ない。メールもしてみるが返事がない。
どうしたんだろう。
そのとき店の前を救急車が横切った。
なんだか胸騒ぎがした。
無意識のうちに、その救急車の後を追うように走った。
三ブロックは走っただろうか。止まっている救急車が見えた。
交差点近くに人混みができている。
どうやら乗用車とトラックが衝突したようだ。
近くまで来たとき、目を疑った。
大きくへしゃげている乗用車は父さんのものと同じだったからだ。
人混みをかき分け、車に近づく。
「危ないから、そこ離れて」
救急隊員に止められる。
「僕の両親の車なんです」
その言葉を聞いて、救急隊員が息を飲むのがわかった。
無残な金属の塊と化している車に駆け寄る。運転席も助手席もほとんど押しつぶされている。
「父さん! 母さん! シロも、どうして、こんな」
大量に血を流している両親とシロの姿が、折れ曲がった金属のフレームの間から微かに見える。
「助けてください……お願いです……助けてくださいっ!」
※
そのあとのことはあまり覚えていない。
あまり会ったこともないような親戚のおじさんやおばさんが、葬式や通夜のことはいろいろやってくれたらしい。
気がついたら僕はずっと部屋にいた。
毎日まいにち、ただずっと、自分が最後に作った『猫の宝箱』というゲームを少し進めてはゲームオーバーになって、また最初からやり直してを繰り返していた。
そのゲームのナビゲーターは白猫のシロをモデルにしたものだった。
主人公は自分のアバターとそっくりに作っていた。
父さんと母さんも、二人の馴れ初めのエピソードを、こっそり重要な登場人物の設定として使っていた。
真のエンディングを迎えたときに、二人とも本来の姿になるという裏設定も用意していた。
なぜだかわからないけど、このゲームの中でだけは、両親もシロも生き続けている気がした。
だから、わざと終わらないように、クリアできないようにアップデートをしてから、終わらないRPGだとわかっていて、ゲームオーバーになるためだけに、ずっと遊び続けていた。
それからずっと僕の時間は止まっていたんだ。
※
やがて、大事な人たちをすべて失ったという悲しみから逃れるために、僕は両親やシロの存在をどんどん歪めていった。
両親は事故で死んだのではない。
ただ単に、詐欺師に騙されて家を出て、ずっと戻ってきてないだけだ。
だからシロは仕方なく遠縁の親戚に預けているだけだ。
両親もシロもまだ生きている。
死んでなんかいない。
そう思い込むことで、ずっと自分を騙し続けていた。
借金取りから逃亡しながらも、どこかでおもしろ楽しく暮らしている両親からのメールや画像が届くという妄想。
親戚に預かってもらっているシロが、借りてきた猫のようにおとなしくしているけど、相変わらず人間の食べ物に興味津々でよだれを垂らして困らせているという妄想。
SNSにありとあらゆる嘘の情報を書き込んで、まるで本当の出来事のようにどんどん嘘を重ねていった。
両親とシロの偽装はなんとかなった。
でも問題は僕だった。
何もできなくなった自分の人生をどうにか偽装しなくてはならない。
そこで僕が高校生のころに作った『第二の人生シミュレーション』という自作ゲームに登場するアバターにも嘘の設定をした。
SNSと連動するように作ってあって、SNSに投稿したコメントや画像を分析して、アバターがリアルタイムに成長するという観察型のシミュレーションゲームだった。
そのゲームの中に作った僕の偽物であるアバターに、これから自分が生きるはずだった人生を全部丸投げした。
こんな大学生活を送りたいな、こんな勉強をして、こんな友達を作って、未来の夢を叶えるために努力している自分という、キラキラした理想だけが詰め込まれた嘘の日常を、SNSのデータとして更新し続けていった。
そして本物の僕自身はといえば、せっかく合格した大学にも行かず、ずっとひきこもっていた。
でも、ネットの中でSNSのデータから生成された僕のアバターは、僕の与えた嘘で勝手に成長していく。
本当は僕が生きるはずだった人生を、シミュレーションゲームの中で僕の偽物が経験していたのだ。
大学に行き、バイトもして、時々ご褒美にすき焼き弁当なんかを食べたりして喜んでいる。
地味だけどまともな人生を送っている。
僕だって、地味でもいいから普通の生活をしたかった。
でもできなかった。
僕は何もできなくなった。
何をしても楽しくないんだ。
生きている意味がわからない。
でも死ぬ勇気もない。
だから、ただ生きていた。
毎日ずっと、死んだように生きていた。
僕が笑っても、もう誰も一緒に笑ってくれる人はいない。
だから笑わなくなった。
もう二度と笑うことはないだろう。
そう思っていた、あの日からずっと。




