2
とても大事な友人がいる。
言葉も通じない別居中の父、傍にはいてくれたが武道以外からっきしだった兄に代わり、幼い頃から冴の心の支えになってくれていた彼女の名は、塩沢弥生。容姿も何もかもが世間一般から見て規格外だった自分に、物怖じせずに接してくれた心優しい少女だ。塩沢家にも招いてくれたし、彼女の両親も出来た人達で、娘のように扱ってくれた。家族はこういうものなんだ、と冴は塩沢一家から学んだといっても過言ではない。
「駄目だよ、逃げちゃ……冴ちゃんは、ここにはいちゃいけない人なんだから」
可愛らしく小首を傾げ、幼子の悪戯をたしなめるように言った弥生の手は、自分の血で汚れている。
彼女が手にしたナイフで切り裂かれた左腕が訴える痛みが、これが夢ではないということを告げた。
自身に降りかかった理不尽な消失現象、弥生にも何か危害が及んではいないかと、ただ心配で彼女の家に向かった。出迎えてくれた彼女は、冴に安堵よりも先に、焼けつくような痛みを与えた。人を傷つけるくらいなら、自らが傷つく……そんな優しい弥生は、扉を開けるなりナイフで切りかかってきたのだ。家にいた彼女の両親まで、その手に鈍器を持って追い立ててきた。
正宗から剣道だけに偏らず、一通りの武術を叩き込まれていた冴は、最初の一撃だけで、それ以上の手傷を負うようなことはなかった。それでも、悪夢よりもひどい現実に、ただその場を逃げ出すことしかできなかったのだ。
「弥生、どうして……」
構わず追ってきた弥生は、いつもと何ら変わることのない優しげな笑顔を冴に向ける。姿かたち、その声もすべて彼女のものに間違いないのに、見間違えるはずがないのに……自分より頭一つ小さな身体が孕んだ殺意に、気圧される。ジリジリと後ずさった身体が、薄汚れた壁にぶつかった。
「往生際悪いよ。お兄さん……じゃなくって、サスキア様が変に隠してたのがいけないんだろうけど。でも、仕方ないことじゃない? わざわざウチにくるなんて、どうなるか分からないはずなのに、冴ちゃんがそんなに馬鹿な真似するとは思わなかった」
サスキア……冴はそれが、父が兄に向けて喋っていたときに含まれていた単語だと気付く。けれど、気付いたからといって何なのか……そんなもの、目の前の事象の何の説明にもならない。
ただ、驚愕に彩られた幼馴染の顔を見つめる弥生の笑みに、小さな綻びが現れた。整えられた眉が、なぜか小さく顰められていた。
「冴ちゃん、もしかしてサスキア様やお父さん……アーケイディス様から何も訊いてないの?」
何も返す言葉が見つからず、冴はそのままの表情で彼女の問い掛けに頭を振る。
「なんて無責任なのっ……ウチの地球界の神様と違って、エリアスルートの神様達は本当に考えなしなのね!」
その様子に弥生の笑み細められていた双眸は大きく見開かれ、吐き捨てるように言った。まとっていた刺々しい殺気は幾分和らぎ、ナイフを構えていた腕もダラリと落ちる。
「もぉっ、冴ちゃんへの説明なんて、ホントは私の役割じゃないんだからね! ……っ……時間がないのに、どこから話したらいいのかなぁ」
そして、やれやれというように一つ溜め息を吐くと、弥生は荒唐無稽な夢物語をその舌の上で具現化していく。
「世界は神様の数だけあって、ここ地球界一つだけじゃないの。私達は地球界の人間、冴ちゃんはエリアスルートっていう別の世界の人で、お父さんとお兄さんに生まれてすぐに連れてこられたのよ。エリアスルートで何か大変なことが起こってて、それを食い止めるためには必要なことなんだって言ってたわ……こっちの、地球界の神様が。冴ちゃんのお父さん……アーケイディス様って言うんだけど、ウチの神様と取引をして、冴ちゃんをこの世界で預かることになったの。ここまでは分かる?」
一旦言葉を区切って確認してくる弥生は、まるで旅行者へ目的地までの道順を説明しているような口調だった。右手には相変わらず冴の血が滴るナイフが握られており、さきほどまでの殺意こそ薄らいでいたが、その平然とした様子が余計に猟奇的で恐ろしかった。
それでも、すべての真相を知るために、冴は頷く。自分と彼女……そして、ほんの一瞬前までと完全に色を違えた世界を繋ぐ細い糸のような、どこまでも危うい平穏を、何の考えもなしに途切れさせたくなかった。
「そう、じゃあ、サクサク説明してくね。さっきも言ったと思うけど、ホントに時間がないから。冴ちゃんがお父さんやお兄さんだって思ってた人達はね、実はエリアスルートの神様達なのよ、冴ちゃんや私達みたいな地球界の人間とは全然違うの。お父さんのアーケイディス様はエリアスルートで一番偉い神様で、お兄さんのサスキア様は戦の神様。アーケイディス様は、ずっと貴女に付き合ってここに留まってられないんですって」
口調は随分と軽く、途中でどもることも、つっかえることも一度としてなく、一息に語られた話は、こんな状況でさえなければ、普段の冴であったならば、即行で笑い飛ばしてしまうくらいに非現実的で滑稽なものだった。
けれど、今やその言葉を信じる、信じないという問題ではなくなっている。自分に因縁のあった数々の物質の消失現象に、今も完全に手放していない弥生の自分への殺意と血塗られたナイフが、すべての証明だ。
「だから、お兄さんのサスキア様が代わりに冴ちゃんと地球界に残ったんだけど、サスキア様もアーケイディス様ほどじゃないけど、長い間いなくなるとエリアスルートが大変なことになるらしいわ。どうしてだかは分からないけど、人の心が不安定になって、戦争とかがどんどん起こっちゃうみたい。冴ちゃんにもといた世界に帰ってもらわないと、どっちの世界にも困るのよ……なんで私がそんなことを知ってるかっていったら、塩沢家は神様が選んだ八神家の監視役だったから。ライセンス発行したあと、そのままにしちゃうほどウチの神様は無責任じゃないのよね」
「監視役っ……?」
しかし、それには、冴は彼女の言葉を遮って叫んでしまう。自分が何者かとか、父兄が彼らの言質通り人外の存在であったことよりも、冴にとっては衝撃的だった。
「今までのことはっ、ずっと一緒にいてくれたのはっ……!」
幼稚園からの付き合いの弥生との思い出は、そう考えるだけでひっきりなしに溢れてくる。学校にプライベートでの交流、彼女を通して触れることのできた世界はとても優しくて、温かくて、安心できた……その十数年の月日を、監視の一言で、偽りだったのだと切って捨てるのか。目の前の弥生は、その微笑みは、過去も現在も見分けがつかなくて、何からどう確認すればいいのか分からない。
「うん、冴ちゃんがこっちの世界で規則違反をしないように、ずっと見張ってなきゃいけなかったから。冴ちゃんのことは今でも好きよ……でも、もともと神様からロボットみたいにそーゆー感情ごと作られたんだから、当然よね」
「つく、られた……?」
「父さんも、母さんも、私も、冴ちゃんも、みーんな同い年……アナタの誕生を受けて作られたんだから、ちょっとだけ年下なのかな? でも同級生には違いないよね。ずっと冴ちゃんのために生きてきたけど、それも今日でようやくおしまい、ホントにあと少し。お父さんも、お母さんも、私も、やっと解放される。冴ちゃんのことも、監視役だったことも、神様のことも、他の世界のことだって、全部忘れちゃうの……そーゆー風に神様からプログラミングされてるのよ、塩沢家の人間は。ホントにロボットみたいでしょっ」
最後に噴き出すように笑った弥生は、右手をパッと開く。握られていたナイフは乾きかけた血糊でその手に少しの間だけ貼りついていたが、結局重力に逆らわず、地面に落ちて小さく跳ね返って、止まる。
「ライセンスの切れた人間がもとの世界に帰りたくなくなって逃げ出したら、それを見つけ出して殺す……それも、監視役にはプログラミングされてるの。まー、しょうがないよね。規則違反だもの、校則破ったペナルティのトイレ掃除とおんなじことよね。冴ちゃんがどんなに向こうの世界で特別で、必要とされてる人だったとしても、関係ない」
落ちてまだらに砂埃にまみれた刃を反射的に目で追った冴に、さらに弥生は続けた。
「エリアスルートに帰りなよ、冴ちゃん。何も分からなくて逃げ出したってことで、見逃してあげるから……ここにいちゃ駄目なんだよ。私が、困る」
淡々とした声の中に、小さく滲んだ別の感情に気付いて、顔を上げる。綺麗な弧を描いた唇は、なぜか作り物のように見えた。
「どうせ綺麗さっぱり忘れられるんだからって思ったけど、やりたくないことはやりたくないじゃない……私はロボットじゃなくて、人間なんだからさ。全部、しょうがないんだ」
痛々しい。
一瞬前まで猟奇的だと思っていた微笑みから、強い、強い痛みを感じる。
「帰って、早く。何もかも忘れても、秀一朗くんの隣で笑っていられる気がしない。そんな私は嫌っ……」
何かを見出そうとするような冴の視線を受け止めながら、吐き出した言葉は躊躇うように語尾が小さく揺れていた。秀一朗とは、弥生が高校入学とともに目覚めた遅咲きの初恋の相手だ。一抹の寂しさを感じながらも、冴は黙って恋の成就の手助けをした。本当に幸せになってほしかったから。
「……私がいると、弥生が困るんだな」
他人ばかりを優先する、優しい幼馴染……そんな彼女が大好きだった。動転していた心に、一番大事にしていた信念が戻る。たとえ、すべてが他者に強制されたものであっても、弥生が自分に優しくしてくれたことは事実で、その気持ちに報いたいと思った自分の感情も、偽りではなかった。
「辛い思いをさせて、ずっと……ごめん。弥生」
人を傷つけるくらいなら、自らが傷つく……神に植えつけられたというプログラミングに逆らって、凶器を手放してくれた彼女に、この自分を殺させるわけにはいかない。
「帰るよ、エリアスルートとかいうところに……っ……」
そう口に出すと、冴を取り囲むようにして一陣の風が巻き起こった。砂埃とともにプリーツのスカートが揺れ、スラリとした素足が晒される……が。
「な、んだっ……?」
下ろした視線の先で、チリチリと火花のような白い光が現れ、ローファーを履いた足先を覆い、消し去っていく……その光景は、少し前に見た自身の卒業証書の消失現象にそっくりだ。ただ、不思議と物質的な痛みは何も感じなかった。
『ようやく心が決まったようだな、……手間をかけさせおって』
次いで、そんな二人のやり取りをずっと見ていたように、何ともタイミングのいい声が辺りに降り注ぐ。弾かれたように薄暗い路地裏の小さな空を見上げれば、逆光に照らされた影……その背の白翼で宙に留まる、相変わらず言葉は分からないが、聞き慣れた声の主を、冴は睨みつけた。
自分のことはいい。どんな事情があるのかも、今後この身体がどうなるかもいい……ただ、弥生を巻き込んだことが許せなかった。
「冴ちゃんっ!」
苛立ちを露に見上げる彼女の視線を、弥生の呼号が再び地に落とす。消失は既に腿を超えて、スカートの繊維の一本一本を静かに焼いている。
「多分、もとの世界に帰るために一度分解して再構築するんだと思う……こっちの世界に慣れちゃった冴ちゃんは、あっちだと規格外だから」
「……それはここでもだったよ」
その現象の説明に一応納得し、冴は視線を徐々に消えていく己の身体から弥生に移した。身体能力も、容姿も、何もかもがずば抜けて優れていた自分は、ここ、地球界では異質だった。気味悪がらずにずっとそばにいてくれたのは、彼女だけだ。たとえ、それが生まれたときから魂にまで義務づけられたものだったとしても、与えられた優しさには嘘はない。
「元気でね、……そんなことした私が言うのも変だけど」
己が切り裂いた左腕を見つめながら、申し訳なさそうに言ってくる弥生に、冴は小さく笑みを刻む。
「大したことないよ。弥生の方がずっと痛かったんだし、気にしないで。弥生も元気で……弥生は忘れていい、私は覚えてる。ずっと幸せにって、祈ってる」
「……恥ずかしい、そーゆーこと真顔で言えちゃう冴ちゃんって」
見る間、赤くなった頬を覆うように弥生は両手を添える……が、はたと気付いたようにその手を見つめた。さきほどまで右手を染めていた、鮮血が見当たらない。冴は足もとに転がっているはずのナイフを探したが、それも忽然となくなっていた。消失現象は、相変わらず続いているのだ。この目に映らないどこかでも、きっと自分に関係するすべてが消えている。
「本当に、今までごめん。……ありがと……ぅ」
言葉途中で下顎が消え、そこからは本当に瞬く間のことだった。印象的な強い光を宿した双眸も、形のよい眉もすべてが白光に呑まれ、一陣の風とともにかき消えた。
あとに残されたのは、何もない宙を見開いた目で見つめる弥生一人……。
「……私、何でこんなところにいるんだろ?」
パチパチと瞬きをしながら辺りを見回し、そんな台詞とともに小首を傾げた。