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『お前は、この世界では異物だ』
地べたに素の膝を突いた八神冴は、苦しげに肩で息をしながら、父親から投げつけられた言葉の意味を考えていた。まるで鋭利な刃物で切りつけられたように、彼女の左腕の袖は裂け、制服の白いブレザーが赤い血に染まっている。
今朝は卒業式で、十年来の幼馴染や自分に懐いていた後輩達と、進路が別れることを惜しんだ。通っていた高校には付属大学があったが、自分は進学せずに実家の剣道場を手伝うつもりだったのだ。道場主の兄とともに子供達に剣道を教え、四年もしたら剣道社会体育指導員の養成講習会に参加して指導者としての公的資格を得る。それが、つい一瞬前まで描いていた自分の人生設計だ。
ときには単調にすら感じる平穏な毎日、堅実な未来がこんな形で奪われるなんて、冴は考えもしなかった。
薄暗い裏路地のゴミ箱のうしろに隠れ、誰にも見つからないように息を潜めていた彼女の耳に、ローファーが砂を踏むジャリジャリという音が届く。
来るな、頼むから。
無慈悲に近づいてくる足音に、強く心に念じたが……。
「冴ちゃん、みーつけた」
過度に明るく聞こえる耳慣れた声音に、絶望とともに目を上げる。長いストレートの黒髪が魅力的な純和風美少女は、屈託のない微笑みを浮かべて目の前に立っていた。
小さな白い手に、鮮血の赤に染まったナイフを携えて……。
* * *
「……何が、あったんだっ……?」
卒業証書の入った黒の紙管を手に、冴は呆然と立ち尽くしていた。
両隣を高層ビルに囲まれて、昭和の香りを漂わせる木造瓦葺き屋根の純日本家屋……八神剣道場。そこにあるべき実家が、忽然と姿を消していた。
目の前に広がるのは、疎らに草の生えた更地。ご丁寧に「売土地」と書いた立て看板まで出ている。
今朝は問題なくあった。いつも通り五時起きして、兄と朝稽古に励んだ。正宗の様子も常と変わらず、何も言っていなかった。そもそも彼はどこに行ったのか……何が起こったのか、さっぱり分からない。
こういうときは、落ち着くことが肝要だ。そうだ、兄に連絡を取ろう。冴は、制服スカートのポケットから携帯電話を取り出した。
「えっ……?」
携帯電話のアドレス帳を開き、再び疑問詞が口を突いた。
ない。
アドレス登録が一件もなかった。それほど交友関係が広いわけではなかったが、兄や幼馴染の塩沢弥生、懐いている後輩、バイト先の店長に同僚と、最低三十件の登録はあったはず……焦って着信、発信履歴を確認しても何一つ記録は存在せず、その携帯電話機を買った当初のように、全てが初期設定の状態だった。
直接番号を打ち込もうとしたが、常にアドレス帳か履歴から掛けていた十一桁の番号が、混乱した頭ではなかなか思い出せない。
つい三十分ほど前も、今から帰ると兄に電話を入れたばかりだったのに。今日は卒業式だから、珍しく父が帰ってくると告げられていた。別に父親には会いたくもなかったが、大事な話があると言われたから、幼馴染の誘いを断ってまっすぐに帰ってきたのだ……もしや、兄の身に何かあったのだろうか?
「おかえり、冴」
不安に駆られる背に、耳慣れた声がかけられる。
弾かれたように振り仰いだ先には、消息を心配していた兄が立っていた。わけが分からないというような表情を浮かべる冴に対し、彼は笑みともつかない形に口端を上げる。振り返った拍子に取り落としていたらしい卒業証書の紙管を拾い上げ、ゆっくりと目の前まで歩いてきた。
「……家がっ……!」
兄が無事であったことに一応の安堵を覚えたが、それでもまるで事態が飲み込めず、問いかける言葉も途中で途切れてしまう。
「驚かせて悪かった、思っていたよりも予定が早かったんだ。――――はどうにもせっかちな……」
正宗の言葉が終わらぬうちに、背中から地響きのような砲声が起こる。冴が再び背後を見やると、さらにあり得ない光景が広がっていた。
「何でっ……!」
冴はそのまま膝から崩れ落ちてしまった。
もう本当に、わけが分からない。
今朝まではあった剣道場、ついさきほどまでは「売土地」の立て看板のあった更地には……底知れぬ深い穴が開いていた。
「しまった、奴の名は禁句だったな……落ちるなよ、冴。多分、生きては戻れん」
つい数十センチ先の深々と抉られた地面を呆けたように見つめている彼女に、正宗はため息をつきながら言った。
「……っ、……どういうことだ?」
散り散りになりそうな思考力を何とか繋ぎとめ、不自然なほどに平然としている兄を見上げる。どうやって発音するものかも分からない、何とも不可思議なひと続きの音を彼が口にした途端、目の前の怪異は起こったように思えた。
一体、自分達の身の上に何が起こっているのか?
『名を口に出すなと警告しておいたはずだ……サスキア』
そして、追い討ちをかけるように高所から降り注ぐ第三者の声……その日本語でも英語でもない異質な言語の意味は分からずとも、自分には確かに聞き覚えがあった。もはや嫌な予感しかしなかったが、冴はそちらを見上げ、瞬時に固まってしまった。
何一つ足場のない空中に静止し、冷ややかに自身を見下ろしていた瓜二つの相貌の主は、心なしか一年前に会ったときよりも若返っているように感じるが、自身の父親に違いなかったが……。
「……なっ、ななななっ……何で、羽っ……?」
真っ先に頭に浮かんだのは、宗教画の天使。純白のローブをまとい、背には鳥のような大きな白い翼を持ったその姿は、あまりにも荒唐無稽だった。何か仕掛けがあるのでは、と刮目して見ても、彼を宙に留める術は広げられた翼であるとしか考えられない。足場も見当たらなければ、何かしらの動力機が働いている音もしない……まさに身一つで空中に浮かんでいるのだ。
『……天使だと、そんな不確かな存在だと思われては迷惑だ』
すると、聖司は彼女の考えを見抜いたように、再び口を開く。相変わらず能面のように表情は変わらなかったが、どこか不愉快そうな気配が辺りに漂った。
「アーケイディス、それでは冴には分からん。今くらい言葉を合わせろ……親父殿が選んだ救世主だろうが」
「……救世主?」
冴の頭が、その単語だけ拾い上げる。天使のような姿をした父に、救世主という言葉……やはりどこか宗教じみている。
何より、平日の昼間とはいえ、これだけの騒ぎがあって、自分達以外の人間の姿が一人もいないのもおかしな話だ。今は影も形もない実家、八神道場は人里離れた山奥ではなく、大通りに面したオフィス街の一角にあったのだ。普通なら、さきほどの轟音だけでもすぐに人だかりができるはずなのに。
「世界の修正が働いているんだ、もうじき何もかもが消える」
「修正……消えるって……?」
動揺しすぎて座り込んだまま立ち上がれないでいる冴の前に、正宗は膝を突く。
「お前はここ、地球界にいるはずのない人間だ。親父殿が地球界の神と取引をして、八神冴という人間の……そうだな、こちらの言葉でいえば、ライセンスを発行してもらっていただけだ」
「異世界? ライセンスっ? 一体、何を言ってるんだっ……」
「そのライセンスも一時的なものだ。期限が切れれば、取り消される……こんな風にな」
そう言って、正宗は手に持っていた紙菅の蓋を開けて、その中から冴の聖錠大付属高校卒業証書を取り出し、彼女の目の前に翳して見せた。
「えっ……!」
冴は目の前で起こった変化に声を上げる。
『三年八組 八神冴』
賞状に記されていた彼女の名前が、下から徐々にチリチリと小さな火花を上げている……まるで導火線に火が付いたように焼け焦げ、跡形もなく消えていっていた。
「待って……!」
咄嗟に冴は手を伸ばして正宗の手から奪いとるように取り戻したが、名前はそのまま完全に消え去り、賞状の紙まで手の中で炎上……瞬きの間に、灰一つ残さず消え去る。冴の手には、その熱さえ残らなかった。
『お前は、この世界では異物だ』
驚愕の声を上げる冴に、再び無慈悲な声が降り注いだ。見上げたそこには、相変わらずあり得ない姿の父がいて、自分には分からない言葉を紡ぐ。
実家があった場所は数時間のうちに更地になり、今では底知れない穴が開いている。卒業証書も手の中で掻き消えた……自分に関係するものが、どんどん消えていく。
目の前で起こっていることは、全て現実なのだろうか?
「信じられないのは分かる。それでも、お前はそれを受け入れるしかない。それもすぐに……ライセンスは取り消されたと言っただろう、もう時間がないんだ。さっさと世界を渡らなければ、地球界の修正力がお前まで消してしまう。お前が本来いるべき世界は……」
どこか気遣うような響きを持った兄の言葉は、脳の表面にぶつかり、深く咀嚼されることなく滑り落ちていく。内容がまったく入ってこなかった。
混乱した頭に、ただ一つの像が浮かんだ……小柄でおかっぱの長い黒髪、やや幼く見える顔は日本人形のようで、自分とはまったく正反対の美少女。ついさきほど別れたばかりの幼馴染の彼女は、大丈夫だろうか?
新たに浮上した不安が、冴の身体を突き動かす。
「冴っ……!」
正宗の制止の声が聞こえたが、彼女は構わず走り出した。
「まずいっ……」
『放っておけ、サスキア』
追いかけようとした彼を、空から聖司が制止する。
「消去されたらどうするっ……この十八年のすべてが無駄になるんだぞ!」
『少々痛い目を見れば、あれも現実を理解するだろう。世界の修正力に易々と屈服されるようでは、救世主になどなれぬ。お前も神ならば情で動くな、使徒には必要のない名まで与えて……此度は時間をかけ過ぎている。猶予がないのはエリアスルートの方だ』
蔑むような言葉に、正宗は怒りを覚えた。それでも聖司を振り切り、冴を追っていかなかったのは、彼の言葉に混じる真実を覆しようがなかったからだ。自分達がやっていることは、慈善事業ではない。その過程で、どれほどその所業を後悔しても。
冴……才気溢れ、清らかな人間に育って欲しいという想いをこの世界の言葉に当てはめ、名づけた彼女は、期待以上の成長を見せるとともに、正宗の心に少なくはない罪悪感を植えつけていた。