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蒼穹の孤独  作者: 小田マキ
プロローグ
2/6

神渡り

 そこは、まるで巨大な生き物の子宮の中のようだった。薄暗い穴ぐらのようなその場所の壁や床は見た目に弾力があり、生きているかのように脈打って、ボコボコと不規則な隆起を生んでいる。


 ただ、生き物の臓腑ではあり得ない様相も呈していた。壁や床はあっても、頭上を隔てるものが一切確認できなかったのだ。果て知れぬ上空には濡れ光るような稲光が平らに走り、それより上の視界を遮っていた……そして、雷を生み出したはずの雲の姿は見当たらない。


 さらに、原型が何なのか分からないくらいに目まぐるしく様相を変えているというのに、いくら耳をそばだてても、辺りからは物音一つ聞こえてこなかった。


 そんな異質な空間を今、一つの人影が移動している。隆起する床に足をとられることもなく、足音をさせるでもなく、それこそ流れるように移動していく……遥か頭上の網の目のような雷光が時折明らかにする一瞬の輪郭では、男であるか女であるかも定かではなかった。


「待て、アーケイディス」


 見果てぬ穴ぐらの先へと進む人物の足が、その場に響いた初めての音に立ち止まる。

 そして、やはり衣擦れの音さえ立てずに声のした方へ向き直った……刹那、一際眩い雷光がその姿をはっきりと浮かび上がらせる。


 後ろにたなびく長い黒髪は薄暗い中でも艶やかで美しかった。その背に生やした白翼も、それ自体が輝いているようで、双方の美しさを引き立て合っていた。明らかになったその面差しも、男か女か……どちらか一方に決めつけてしまうのを躊躇われるほどに、完璧に整っている。星の光を鏤めたような輝く漆黒の双眸も、堆くすっきりとした鼻梁も、その微笑みを得るためには命を投げ打ってもいいと思わせる唇も、どれ一つとっても奇跡的であり、個々の配置も絶妙だった。


 一個の人間というよりも、芸術品という方が相応しい人物が、その腕と胸に抱き留めていたのは、真新しい産衣に包まれた赤ん坊だった。ようやく生え揃ってきた髪は同じく黒く、閉ざされたその目も黒いのだろう……けれど、この二人は親子ではなかった。


 アーケイディス……それは、最古の創造神の名。常人ならざる美貌の持ち主は、一つの世界を創造した父神だったのだ。


 そんな彼の人が、いかなる理由で己が姿を模したような赤子をその腕に抱き、このような場所にいるのか?


「親父殿……いくらなんでもそれはやり過ぎだ、世界の理が崩れるぞ」


 漆黒の視線の先で、アーケイディスを父と呼んだその人物は、彼の人とその年の頃にさして差異のない青年……彼の容姿も人外の端麗さを湛えていたが、アーケイディスに比べてその輪郭は鋭く、その性別に戸惑うこともなかった。浮かんでいる表情は、なぜだか酷く険しいものだったのだが。


「……サスキア」


 人心を惑わすその唇が、初めて音を吐き出す。その声も、容姿に遜色ない蟲惑的な響きを持っていた。


 紡がれた名は、父神によって創造されたエリアスルートを支える戦神の名であった。


 そして、ここは世界と世界を繋ぐ、生きた回廊である。一方はエリアスルートへと繋がり、もう一方は異界へと繋がっていた。無垢な赤子を連れて異界へ渡らんとしたアーケイディスを見咎め、サスキアはその行動を追ってきていた。


 己の前には姿さえ見せたことのない異界の神と、父神は如何なる密約を交わし、道を繋げるに至ったのかは今更どうでもいいし、知りたくもない……滅多なことでは開かない生ける回廊を開き、異界に赴く意図の方が重要だった。


「親父殿のやっていることは無駄な諍いを増やすだけだ、何かあれば矢面に立つのは戦神の俺だ。エリアスルートだけで手一杯だというのに、――――にまで喧嘩を売ってどうする」


 さらに言った男に、応えたのはアーケイディスではなかった。最後に紡がれた何者かの呼称に、突如起こった激しい縦揺れは、異物を押し出そうとする食道の痙攣に似ていた……柔らかだった足元は鋭利な無数の針の形をとって硬く固まり、二人を串刺しにするように堆く迫り出す。


「要らぬ諍いを起こそうとしたのはお前だ……地球界の神はその名を口にされることを好まぬ。覚えておくのだな」


 翼を使って宙に逃れたアーケイディスは、それでも静かにサスキアを見遣って言った。


「確かに軽率だった……だが、これからやろうとしていることは、この程度では済まされないぞ。親父殿もただでは済まない」


 首肯する彼は、相変わらず鋭い双眸でアーケイディスを見上げながら、鋭い針の先端に佇んでいる。


「全知全能の力を持った最古の創造神であっても、あんたは人の親にだけはなれないよ……バリュファスのときに、実証されたはずだ」


 俯瞰するアーケイディスの表情に何ら変化はない。それでも、最後の一言が放り上げられたその後とその前では、纏う空気が一変していた。


 言葉を発することなく、次に起こした彼の人の行動に、サスキアは瞬時に反応する……支えを失い、宙に放り出された小さな命を、鋭利な切っ先が貫く一瞬前に受けとめた。


「……何の真似だ」


 サスキアは、今度こそ完全に父を睨みつける。


「お前に任そう、サスキア。私には出来なくても……あの出来損ないを、最後まで庇い通したお前であれば、できよう?」


 鋭利な言葉は、確認ではなく強制……静かな双眸には、決して姿を見せない怒気が潜んでいた。


「……俺の不在は人の世が荒れる」


「私の不在で、守るべき世界が滅びる方が良いと?」


 サスキアは、己の説得が完全に失敗したことを悟った。


 付け加えた余計な一言によって、もともと狭量な父神の怒りを一身に買ってしまったようだ……期せずして腕に抱くことになった赤子は、身じろぎもせず眠っている。この騒動で起き出さないところを見ると、意図的に眠らされているようだ。


 何も知らない、まだ完全に整わぬその様相を見つめて……ああ、そうなのか、と実感した。


「……親父殿の望むようには育たないかも知れんぞ」


「ならば、人の世は滅びるな……手間が掛かるゆえ、二度は作らぬ」


 完璧なる創造神は利己的で、自分の言葉なぞ歯牙にもかけない。


 その言葉も脅しではなく、事実だ。


「分かった」


 了解の言葉を口に出すと、やおら腕の中の重みが増したような気がした。


 生み出されたそのときから完成形であった自分達と違い、人の子は誰かの庇護なくしては一日として生きてはいかれない。土に投げるだけで芽を出し、その花を咲かせる植物の種よりも脆弱だ。見捨てられるはずもない……この子も、人の世も。





 一つの世界の命運を背負わされた赤子は、何も知らずにただ眠り続けていた……。





    * * *





 薄汚れた狭い路地を、一人の男が走る。


 恐怖に歪んだ顔は紛れもなく逃亡者のそれだったが、追撃者の姿は影も形も見当たらない。男の前傾体勢の走法は、少なくないごみの散乱した道の上にひどく危なっかしく、実際、何度か転倒しながらも必死の形相で立ち上がり、また走り出していた。両足はすでに血だらけで、蹴り出す度に赤黒い血が点々と舞っていたが、男にそれを気にしている余裕も猶予もないようだ。


 そんなギリギリの奔走を続けていた男の足が、突如立ち止まる。汗と泥に塗れた顔は、それでも分かるぐらいに青褪め、わなわなと唇を震わせる。見開かれた双眸には、己が逃亡の終着点がはっきりと映っていた。


 行き止まり……その先にあったのは、大の大人でも身一つでは越えられない高さの土壁だった。見回した地面には、不法投棄された異臭を放つずた袋や、紙くずのようなものはいくらでも転がっていたが、壁を越えるための足場になるようなものは何もない。





「気は済んだか?」





 絶望に打ち震える男の耳を、第三者の鋭利な声が突き刺した。


「ひぃいいぃぃーーーーっ!」


 金切り声を上げて、男は再び駆け出したが、すぐに落書きなどで雑多に汚された壁にぶつかる。何の凹凸もない壁面は、いくら爪を立てても、殴打を重ねても、びくともしなかった。


「……無様なものだな、いい加減に諦めろ」


 すぐ背後まで迫った声に、男は緩慢な動作で振り返った。


 薄暗い掃き溜めのようなこの場所に、不釣合いなのか相応なのか……一人の隻眼の男が立っていた。まだ年若いだろうに、その髪は雪のような白く、右目には眼帯をしている。左目は血のように濃い赤で生気はなく、殺気に濡れていた。


 何よりも、背中に負った剣の禍々しさに目を奪われる。小柄な大人の身長ほどもありそうな長剣は、柄の部分には蝙蝠が青黒い羽を広げたような装飾と、その中心に主の目と同じ赤い輝石が埋め込まれていた。自ら輝きを放つ丸い石には毛細血管のような模様があり、まるで魔物の目のようだ。


 背にした壁伝いに、男はずるずると地べたに座り込んだ。


「……たの、助けっ……があっ!」


 どうしようもなく震える歯列を割って、男は命乞いの言葉を吐き出そうとしたが、その音は半ばで断末魔に変わる。


 いつその背から抜き放ったものか、眼帯の男の手には長剣が握られており、切っ先は逃亡者の額にめり込んでいた。見開かれた双眸は徐々に光をなくし、グルリと回転して白目を剥く……壁に繋ぎ止められた額と、いまだ小刻みに震える口からは、やがて血が流れ出した。


「……これが剣豪と謳われたリゾナの陸軍隊長か」


 男は己が所業にも、つい今し方命を奪った男にも、もはや興味が失せたような口調で呟くと、禍々しき長剣を引き抜く。コルク栓が抜かれた発泡酒のような勢いで迸る血は、なぜか隻眼の男もその凶器も、汚すことはなかった。支えを失い、己が血溜まりの上に崩れ落ちた骸は、薄汚れた袋小路に散乱する数多のごみと同化する……そして、不可思議なことに返り血一つついていない剣身を鞘に戻せば、追撃者の男は現れたときと寸分違わぬ姿に戻った。




『随分と板についてきたものだな、ディゾ・リーリング(白き死神)よ』




 まるで脳に直接語りかけるような不可思議な声音が辺りに響いた。ディゾと呼ばれた男が隻眼を向けた先は、背に担いだ長剣だった。赤い輝石は呼応するように明滅を繰り返している。


『しかし、貴方の本懐……遂げられぬやも知れん』


「……どういう意味だ」


 何とも奇妙な会話が成立していた。男の剣には、魂が宿っているようだ……彼が真実死神であるならば、口をきくそれは魔剣か。


『二柱が妙な動きをしている、境界を越えた』


「分かるように言え」


『神が単体ではないように、世界もエリスルート一つだけではない。最古の父神がこの世界の人の子を連れ、別の世界に渡った。己に都合のよい救世主でも作るつもりなのだろう……アーケイディスだけならばまだいいが、問題はサスキアだ』


 ディゾの言葉に意思を持つ剣は、今度はやや冗長なくらいの答えを返す。


「……戦神か」


『あやつは融通が利かぬが、性根は腐っていなかったはず……加担する意図が分からん。世界を支える神の不在が地上にどのような影響をもたらすか、知らぬわけでもあるまいに。今以上に人の世は荒れるだろうな。どうにも厄介だ、サスキアもその加護を受けるだろう人の子も』


 その恐ろしげな外見とは裏腹に、魔剣から発される声音は至極落ち着いている。その中には、ディゾに対する気遣いさえも感じられた。


「作られた救世主に何の意味がある。邪魔立てするなら、壊してしまえばいい」


 しかし、主であるらしい男の面差しには、何の変化も訪れなかった。血色の右目は相変わらず背筋の凍るような殺気しか宿さず、生者の温かみはまるでない。


『……どこへ行く?』


 踵を返したディゾに、魔剣はその行き先を問う。


「レイジー・ボーベン……仕官する」


『リゾナ王に死神を従える技量があると思っているのか?』


 暗に揶揄するように、魔剣は言った。


「飼い馴らされるために赴くわけではない、利用するのはこちらだ」


『……破滅の始まりにしか思えぬがな』


「判断するのはお前ではない……契約を忘れたか。邪魔するなら、お前も斬る」


 かすかに悲哀の混じった声音にも、彼の意思は揺るがなかった。




 立ちはだかる者すべての破滅を望む死神と、生を受けたばかりの救世主が対面するには、いまだ幾年かのときを要した……。

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