Rincontro,月影の旅人
「ようこそ、夜の世界へ」
月明かりにぬらりと緋く光るそれは、彼がひとではないことを静かに呈していた。
彼女、マティルダ・スチュアートはその異様な光景に、足がすくんで動けなくなってしまった。じっとりと冷汗が首筋を伝う感覚だけが厭にはっきりと判る。
ククク、と彼は恍惚した様にその口元を歪める。薄く開かれた口からは、白く尖ったナニカが暗闇の中だというのにハッキリと見えていた。
「嗚呼、そうだ。俺は吸血鬼さ」
それは、牙だった。狂った中に見える自虐的な笑みは、さながら彼自身への戒めの様にも見える。それが彼女の心を貫いた。
理解してしまえばもう戻ってはこれないほど、深い闇がすぐそこに横たわっている。絶対にそれには触れてはいけない。彼女の本能が警鐘を鳴らす。触ればきっと、壊れてしまう。身体も、心も。
「故に、」
と暗闇の彼は静かに言葉を紡ぐ。途端にどろどろとした黒が周囲を覆い尽くして行く。
「生憎、俺はひとらしい思考などそんな崇高なものは持ち合わせちゃあいない」
次第に濃度を増す黒い闇はじりじりと彼女に纏わり付き、そのありとあらゆる表面を焦がして行く。明確な悪意、殺意の奔流が肌を貫き、心を刺し穿つ。その濃い闇が五感を灼き、胸を焦がす。
明らかな拒絶反応に、彼女は身を捩らせた。
然し、目の前の男の独白は止まらないし妙な術を止める気配もない。
「時に、其処のお嬢さん」
影になって見えない筈の彼の目から発する、冷たく鋭い眼光が突き刺さる。彼女はごくりと唾を飲んだ。
「俺が一体誰か、判るかい」
「…吸血鬼」
喉の奥からやっと絞り出したごく小さな声で彼女は答える。然し、
「はん、莫迦を言え。俺は一体俺が何かなんて、訊いちゃあいない。一体俺が誰なのか訊いているんだが?」
吸血鬼は鼻をフン、と鳴らし、彼女をちらと見遣る。彼の顔は相変わらずはっきりとは視認できない。
「…判らない」
これが、彼女の精一杯の答えだった。
「…興が削がれた」
彼はハァ、と半ば絶望したかの様に溜息を吐き、此方に背を向ける。
「恐怖に怯える羊を屠るのは簡単だ。しかし…それでは愉しくない。だろう?」
どろどろとした影が彼を取り込んでゆく。彼もまた、どろどろと影に溶けてゆく。
「今夜は、見逃してやる。次に出逢った時は…知らないがな」
誰もいない路地裏に、その声だけが響き渡った。
◇
「キアロ。昨晩、吸血鬼を見たのよ」
ティーカップを傾け乍ら、マティルダは彼女の従者を見遣った。その言葉を聞いて、従者は不思議そうな顔をする。
「はて、お嬢様。昨晩は何処にもお出掛けなさらなかった筈ですが」
「ええ。夢で、よ」
従者は何も語らず、食器を丁寧に片付けてゆく。まるで彼女の物語を愉しみにしているかの様に、彼はその翡翠の目をすっと細めた。
「でも、その夢が妙に現実味が有ったの。まるで、其処で本当に有ったかの様に。…周りの風景は知らないものだったけれど」
マティルダは隣で彼女の従者が眉を顰めたのに気付かずに続ける。
「不思議ね。夢の中の彼、貴方に何処か似ていたの。顔は見えなかったけれど、ね」
「ほう、そうで御座いますか。とは言え、それは唯の夢でございましょう。気に病むこともありますまい」
そう言って、顰めた眉を誤魔化す様にして従者は微笑む。陽に照らされて、栗色の髪がきらきらと揺れた。
「有難うキアロ。そう言ってくれると安心するわ。…あの夢は少し、恐ろしかったものだから」
何時の間にか新たに注がれたお代わりの紅茶は、まだ温かいのかほんのり湯気を立てていた。
◇
カタコトと心地の良い音を立てて、馬車は夜の倫敦を往く。パーティーの帰り道、マティルダはふう、と不安気に溜息を吐いて窓の外を見遣った。厭に気になる一抹の違和感。何時もは濃い筈の霧が、今日に限って晴れているのだ。そして、その為にくっきりと見える満月の鋭利な輝きが、辺りを冷たく照らしていた。少し、西へと傾きながら。
何だか不吉な予感がする。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、それに気付いた従者は「私が居ります故、安心なさいませ」と彼女向かってちいさく微笑んだ。何となく気分が楽になった気がする。マティルダは軽い礼を告げるとまた己の思考に埋没した。
その予感が本当の物となるとは知らぬまま。
馬車は屋敷まであと路地一つまで来たところでがたん、と大きな音を立てていきなり止まった。突然馬が前に進まなくなったらしい。
窓の外では御者が首を傾げながら馬の様子を診ている。
どうしたものか、と従者が問うと、御者はもうこれ以上は馬が嫌がって進めないと言う。今まではそんな事など一度たりともなかった筈なのに。
マティルダは言われた通りに従者を引き連れ馬車を降りた。然し、彼女はなんの疑問も覚えなかった。決してそのことを知らなかった訳ではない。純粋に、普段なら疑問に思うところをそうは思わなかったのだ。
唯、月光すら差さない道の向こうに、得体の知れない恐怖を覚えるだけ。
ぼんやりと灯る洋灯を持ち彼女の側に立つ従者は、ただなにも言わず道のはるか向こうに見えるガス灯の明かりを見つめていた。
暫くの後、彼女は意を決し暗い路地に足を踏み入れた。途端、ぞわり、と背筋に悪寒が走る。そんな彼女に追い打ちをかけるように、暗闇の向こうから1人の男がやって来た。
『ようこそ、夜の世界へ』
マティルダはこの光景に強い既視感を覚えた。
この光景は前に何処かで見た事がある。目の前の男はククク、と恍惚した様にその口元をまた歪めた。
『嗚呼、そうだ。俺は吸血鬼さ』
そう。夢で見たのだ。あの妙に現実味があって、えも言われぬ恐怖を味わったあの夢。ただ違うのは、隣に従者がいる事だけ。
『故に、生憎、俺はひとらしい思考などそんな崇高なものは持ち合わせちゃあいない』
彼の声は夢と全く同じ言葉を紡ぐ。そして矢張りその声は、従者のそれと良く似ている。
『時に、其処のお嬢さん。俺が一体誰か、判るかい』
目の前の吸血鬼は夢と同じ様に鋭い眼光を彼女に向けた。
「………」
彼は彼自身が一体誰なのかと問うた。確かに、彼は吸血鬼だろう。然し、夢であった通りそれは問いに相応しい答えではない。
建物の隙間から月の光が差し込み辺りを照らす。同じ様に、彼の顔も月影にくっきりと映った。
「…キアロ?」
マティルダは男をよく見ようと目を凝らす。その顔は、彼女の従者のそれと瓜二つだった。唯、眼と髪が真っ黒なだけ。
「…キアロ・モンテヴェルディに…貴方は、似ている」
「大当り」
声がしたのは、男からではなく彼女の背後からだった。
『全く、いつ気づいてもらえるか、ずっと待っていたというのに』
次いで目の前の彼が語る。彼に先程迄纏って居た鋭利な雰囲気はもう既に無く、その代わりに初めて出会った頃のキアロとよく似た胡散臭い雰囲気を漂わせていた。
「今回は今迄で一等面倒でしたよ」
『どうも、貴女には暗示が効き辛い様でしてね』
路地の入り口と奥とで、マティルダの頭上を通り越し言葉が交わされる。然し、それは会話などといったものではない。別の所から声が発されているというのに、其れはまるで唯一人の語りの様であった。
「そう、此処まで手こずったのはローマに取り入った時以来でしょうか」
『まあ、それはどうだって良い事』
「今回は予定より長引いたお陰で彼が動き出してしまいました。すみませんね、見苦しいところをお見せしてしまって」
『どうしても禁欲とは耐え難かったものですから』
「ま、過程はどうであれ此れで此の街から去る口実が出来ましたから、良しとしましょうか」
『いや、そうしたいものです』
言葉を一旦切り、ふとキアロは空を仰いだ。
「唖々、もう夜明けですか。此の街は存外に居心地は良かったのですがね。名残惜しいことですが、私は流浪するが定め。ずっと同じ場所に居るべきではないのです」
濃紺の空、地平に薄っすらと橙色が伸びてゆく。キアロはそれを見て微笑むと夜闇を映した様な色をしたマントを翻した。
「行きましょう、キアロ《コントロフィグア》。もう此の街に私の居場所など無いのです」
コントロフィグア、と呼ばれたもう1人のキアロは、キアロの影にずぶずぶと沈んでゆく。それと共に、キアロ自身が段々と漆黒に染まっていった。自慢の深い栗色の髪も、淡い翡翠の瞳も、全て。
「では、これにて夜想曲はお終いにいたしましょう。ご静聴有難う。貴方に幸有らん事を。…ま、私が言うのも可笑しいかも知れませんがね」
空は、何時の間にかその色を白へと変えていた。キアロはそんな空に溶ける様にして消えてゆく。
「もう会う事も無いでしょう、さようなら、《arrivederci,》マティルダ・スチュアート《mia milady adorata》。」
薄明るい路地裏に、その一言だけを残して。
月影の旅人は
その陰を引き連れて
今日も夜闇を巡るのさ
月や星々かがやきて
彼の征く道を照らすだろう
最終の夜想曲
貴方に幸有らん事を
他の物がヒジョーに滞っているという現実…絶望したッ!