まにあわない
「……あぁやばいやばいやばい…………やらかした……!」
男が目を覚まし、スマホに目を向ければ、何度見ようと画面には『09:00』と表示されていた。
……今日は、つい先日の競合プレゼンでの内容について、取引先であるT社と詳細な打ち合わせをする大事な日である。ましてや、T社には誠実であるという人間性を買われ、社内でも名指しで案件を振ってもらった以上、下らないミスで競合他社に仕事を取られた、なんてことは絶対にあってはいけない。
だからこうして、十分おきにアラームをセットするという荒業にまで手を染めたのだ。……なぜかアラームが一つも鳴らず、こんな時間になってしまったのだが。
もともと、男は『07:00』に起きる予定だった。男の家から取引先まではおよそ一時間くらいなので、余裕をもって家を出ようとしたわけである。が、なんと今こうして大急ぎで支度をしている間にも気づけば『09:00』が『09:05』となってしまっている。
男は、力ない笑顔でスマホを弄り……そしてすぐに家を出た。落ち込んでいる時間はない。死ぬ気で走れば、もしかしたら間に合うかもしれない。
そうして、男は打ち合わせ開始である『10:00』に間に合わせるべく、一目散に駅に向かったのだった。
「……ぜぇ……はぁ…………」
男は、既に限界ぎりぎりだった。なぜなら――
「あ、ごめんさいねえちょっといいかしら。道を聞きたいのだけど――」
「急いでるんでごめんなさい!すぐそこに交番ありますんで!」
今日この日に限って、やたらと絡まれるのである。思えば、朝からずっとこんな感じだった。
荷物が邪魔で玄関扉が開かず、仕方なくベランダから出たものの、それを泥棒か何かかと誤解され事情を説明し、それが済んだかと思えば長話をしようとするおばちゃんから強引に抜け出し、走っていると散歩中の犬にじゃれつかれ、お詫びをしようとする女性の誘いを断り、その近くで泣いている子どもを見つけ……、と散々であった。
しかし、そうこうしているうちにようやく駅が見えてきた。時刻は『09:20』。次の電車に乗れれば、なんとか時間ちょうどには着けるかもしれない。
男は息を切らしながらも辛うじて階段を上り、ホームで電車を待った。
しばらくして電車が到着し、いざ乗り込もうとしたその時。
「ドン」という鈍い音が後ろから聞こえ、男が振り返れば、大きな男がホームと電車に跨るようにして倒れこんでいるのが見えた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「…………うぅ」
「一回移動させますね…………重!」
移動どころか、持ち上げることさえ叶わない重さに男は一度手を離し、駆け寄ってきた駅員に声をかける。
「急病人です!意識はあるみたいなので、協力して運びましょう!」
「わ、分かりました!えー現在、当駅で急病人の救護活動を行っています。このため電車を一時――」
結局、四人がかりでなんとか移動させた後、『09:30』に運転再開となり、電車に揺られている男の焦りはピークに達していた。
今の時刻は『09:45』。あと二駅で降り、全速力でビルまで走ればどうにか間に合うかもしれない。しかしそれは、赤信号に引っかからなければの話。もうこの際、一個か二個は無視することも視野に入れる必要がある、か。
男は瞬きもせずスマホを眺め続け、ビルまでの最短距離をイメトレしていると、電車が一個前の駅に着いた。時刻は『09:49』。
そうして、乗り降りが終わり、電車のドアが閉まる……かと思えば、車内でアナウンスが鳴った。
「えーただいま、非常停止ボタンが押されたため、当駅で停車しております。現在、状況を確認して――」
「……ッ!!」
それを聞いた男は、すぐさま電車を降り、タクシー乗り場を探した。幸いにも乗り場は近くにあり、並んでいる人も見当たらず、すぐにタクシーを拾うことができた。
「お客さんどち――」
「T社のビルに向かってくれ!全速力で!」
「あいよー」
運転手にもこちらが急いでいることが伝わったのか、出来る限りの速度は出してくれているようだ。時刻は『09:53』。話を聞けば、『10:00』ならいけるかもしれないとのこと。
そうして、運転手と共に前だけを見続け、「釣りはいらねえ」と万札を渡し、ビルの前に着いた男が見た時刻は――
『10:03』であった。
「ご苦労、いい働きだった」
T社ビルの近くの路地裏で、スーツを着た男が目の前の男に分厚い封筒を渡した。男は恭しくそれを受け取るも、何とも言えないような顔で口を開く。
「まあ出来る限りのことはさせてもらいましたがね」
どこか納得のいっていない男に、スーツ姿の男は満足げに笑みを浮かべて語った。
「ああ、君たちの仕事は最高だったよ。これで、誠実さとかいうくだらないものしか取り柄のないアイツはもう終わりだ。遅刻一発で信用なんて崩れ去るというのに、上司の奴らもアイツを次期部長になんて馬鹿げている。まあ、これで次は俺にお鉢が回ってくるのだからおかげ様というべきか。その際は、君にボーナスを振り込むことを約束しようではないか。……それで、どうしてそんな浮かない顔をしている?」
男は、口に出すのを躊躇いながらも言った。
「……あっしは専門外なもんで分かりやせんがね」
「聞こう。言ってみろ」
「確かに数分遅らせることはできやしたが――
一時間前には既に連絡を入れてるのに、意味があるんですかい?」
「…………は?」
「まあ、あっしらは金さえ貰えればなんでもいいんですがね。じゃあ、今回はこの辺で失礼させていただきやす。またのご利用を、お待ちしております。ボーナスとやらも、期待して待ってますんで」
そう言って猫背で去る男に、スーツ姿の男はただその場で見送ることしか出来なかった。




