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「君には失望した」と婚約者に言われました。ありがとうございます!

作者: 百香スフレ
掲載日:2026/09/19

「君には失望したよ」


 婚約者のその言葉を聞いた瞬間、シャーロット・レインズは顔を上げた。


「⋯⋯本当ですか?」

「ああ」


 侯爵令息のアルフレッド・グレイは、冷たい目でシャーロットを見ている。


「正直、もっとできる女性だと思っていた。将来侯爵夫人になるのだから、俺も君には期待していたんだ。だが、最近の君を見ていると——」

「もう期待していないのですか?」

「⋯⋯そう言っている」


 シャーロットの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございます!」

「⋯⋯⋯⋯は?」


 アルフレッドが固まった。


 シャーロットは嬉しかった。

 心の底から嬉しかった。


 なぜなら彼女は、人から期待されることが大嫌いだったからだ。


 伯爵令嬢として生まれたシャーロットは、幼い頃から優秀だった。


 勉強をさせれば覚えが早い。

 礼儀作法を学ばせれば教師に褒められる。

 刺繍も、ダンスも、楽器も、人並み以上にこなした。


 すると周囲の大人たちは言った。


『シャーロットならできるでしょう?』

『あなたに任せておけば安心ね』

『次も期待していますよ』


 その言葉を聞くたび、シャーロットは笑顔で答えた。


『はい。頑張ります』


 そして、本当に頑張った。


 期待を裏切るのが怖かったからだ。


 九十点を取れば、次は百点を求められる。

 百点を取れば、今度は百点を取るのが当然になる。


 できないと言えなかった。

 疲れたとも言えなかった。

 期待されればされるほど、シャーロットは期待に応えようとした。


 そんな彼女が十五歳でアルフレッドと婚約すると、周囲はますます喜んだ。


『あなたなら立派な侯爵夫人になれるわ』

『アルフレッド様をしっかり支えてあげてね』

『シャーロットなら安心だ』


 その日から、彼女の予定表は真っ黒になった。


 侯爵夫人としての礼儀作法。

 領地経営。

 法律。

 税制。

 社交。

 慈善活動。

 侯爵家と付き合いのある貴族たちの家系や好みまで覚えた。


 婚約者であるアルフレッドの仕事も手伝った。


 頼まれれば断らなかった。

 ————いや、頼まれる前にやった。


 そうすれば、みんな喜んでくれたから。


『さすがシャーロットだ』

『君ならできると思っていた』


 褒められるたび、シャーロットは微笑んだ。


 しかし一方で、心の中では——(もう期待しないで⋯⋯)——と願っていた。


 そんな日々が三年続いた。


 だから今。

 アルフレッドから、『君には失望した』と言われたシャーロットは、人生で初めてと言っていいほど解放感を覚えていた。


「ま、待ってくれ!」


 アルフレッドが困惑している。


「どうして礼を言うんだ?」

「だって、もう期待されていないのでしょう?」

「あ、ああ」

「では、侯爵夫人になるための勉強も、もう必要ありませんよね?」

「⋯⋯まあ、そうなるな」

「毎週参加していた侯爵家の茶会も?」

「必要ないだろう」

「慈善会への出席も?」

「ああ」

「領地から届く収支報告の確認も?」

「それも俺たちでやる」

「アルフレッド様の書類のお手伝いも?」

「必要ない」


 素晴らしい⋯⋯!

 シャーロットは感動した。


 予定表がどんどん白くなっていく。


「それでは、婚約も解消していただけますか?」

「⋯⋯⋯⋯何?」


 アルフレッドが目を見開いた。


「ですから、婚約解消です」

「待て。俺はそこまで言っていない」

「ですが、私には失望されたのでしょう?」

「それは⋯⋯そうだが」

「でしたら、もっと相応しい方と婚約された方がよろしいかと」


 シャーロットは微笑んだ。


「例えば、エミリア・ロウズ様など」


 アルフレッドの表情が変わった。


 やっぱり⋯⋯。

 シャーロットは思った。


 最近、アルフレッドはエミリアという子爵令嬢をよく褒めていた。


 明るく社交的で、自分の意見をはっきりと言う女性らしい。


『エミリアは君と違って一緒にいて楽しい』

『彼女はいつも笑っている』

『君は何でもできるが、最近少し余裕がなさすぎる』


 シャーロットに失望したというのも、おそらくエミリアと比べてのことだろう。


「エミリアのことは関係ない」

「そうなのですか?」

「ああ。ただ⋯⋯彼女を見ていると、君にももう少し変わってほしいと思っただけだ」

「分かりました」

「分かってくれたか」

「では、婚約を解消しましょう」

「どうしてそうなるんだ!?」


 アルフレッドが初めて声を荒らげた。


「だって私、もう疲れましたから」

「⋯⋯え?」


 その言葉は、思っていたより簡単に出た。


「十五歳から三年間、ずっと頑張りました。侯爵夫人になれるように。アルフレッド様のお役に立てるように。皆様の期待を裏切らないように」

「シャーロット⋯⋯」

「でも、もう期待していないと言っていただけました」


 シャーロットは笑った。


「ですから、もう頑張らなくていいのでしょう?」


 数週間後。

 二人の婚約は正式に解消された。


 両家は当然驚いた。


 特にシャーロットの両親は娘を説得しようとした。


「あなたなら立派な侯爵夫人になれるのに」


 父にそう言われた瞬間、


「そういうことを言わないでください!」


 生まれて初めて父に強く言い返した。


 父は目を丸くした。


「私、立派な侯爵夫人になりたくありません」

「では、何になりたいんだ?」

「⋯⋯分かりません」


 シャーロットは正直に答えた。


「今まで、誰かに求められたものになることしか考えてこなかったので」


 父も母も黙った。


「だから、少しだけ何にもならない時間をください」


 両親は最終的に受け入れてくれた。


 翌朝。

 シャーロットは昼近くまで眠った。


 起きたとき、時計を見て飛び起きた。


「十一時!?」


 こんな時間まで眠ったことなどない。


「どうしよう!」


 ベッドから飛び出しかけて、止まった。


「⋯⋯何が?」


 今日は授業がない。

 侯爵家へ行く必要もない。

 慈善会もない。

 アルフレッドの仕事を手伝う必要もない。


 シャーロットはもう一度ベッドへ倒れ込んだ。


「⋯⋯⋯⋯最高」


 それからの生活は、驚くほど穏やかだった。


 朝、眠ければ少し長く寝る。

 読みたかった恋愛小説を読む。

 庭を散歩する。

 お腹が空けば菓子を食べる。

 気が向いた日は街へ出る。


 ある日など、午後から三時間も庭で昼寝をした。


 以前の自分なら罪悪感で耐えられなかっただろう。

 けれど今は違う。


「お嬢様、今日は何をなさるのですか?」


 侍女に聞かれ、シャーロットは答えた。


「何もしないわ」

「まあ」

「昨日も何もしなかったけれど、今日も何もしないの」


 なんて贅沢なのだろう。


 そんなある日。

 友人のアリサ・ベルが遊びに来た。


「シャーロット、なんだか変わったわね」

「そう?」

「前よりずっと楽しそう」

「誰からも期待されていないからよ」

「普通、それは悲しむところじゃない?」

「どうして?」


 アリサは笑った。


「それで、これからどうするの?」

「何が?」

「結婚とか、仕事とか。何かやりたいことはないの?」

「⋯⋯⋯⋯」


 シャーロットは固まった。


「ごめんなさい」

「謝らないで」

「今の、期待してるように聞こえた?」

「少し」

「重症ね⋯⋯」


 けれど、その日の夜。

 シャーロットは少しだけ考えた。


 自分は何をしたいのだろう。


 侯爵夫人になるためではなく。

 両親に褒められるためでもなく。

 誰かの期待に応えるためでもない。


 自分がやりたいこと⋯⋯。

 考えてみても、すぐには思いつかなかった。


 だから、しばらく探すことにした。


 一方、アルフレッドはエミリアとの距離を急速に縮めていた。


 婚約解消から二か月後。

 アルフレッドはエミリアを侯爵家へ招いた。


「実は、見てほしいものがあるんだ」


 机の上には領地から届いた書類が積まれていた。


「何ですか、これ?」

「領地の収支報告だ。以前はシャーロットが確認してくれていたんだが」

「へえ」

「君にも少し手伝ってほしい」


 エミリアは首を傾げた。


「?嫌です」

「⋯⋯え?」

「だって、私には分かりませんもの」

「いや⋯⋯。これから勉強すればいい」

「どうして?」

「将来、侯爵夫人になれば必要になる」


 エミリアはしばらくアルフレッドを見つめた。


「私、侯爵夫人になりたいなんて言いました?」

「⋯⋯は?」

「アルフレッド様と一緒にいるのは楽しいですけど、そんな大変なことをするなら結婚は嫌です」

「いや、でも⋯⋯」

「シャーロット様はやっていたのでしょう?」

「ああ」

「なら、シャーロット様ってすごい方だったんですね」


 その一言に、アルフレッドは何も返せなかった。


 それからしばらくして。

 エミリアはアルフレッドから距離を置くようになった。


『次期侯爵夫人として期待している』


 そう言われるたび、顔を曇らせたという。


 皮肉なことに————エミリアもまた、期待されることが好きな女性ではなかったらしい。


 婚約解消から半年後。

 シャーロットのもとをアルフレッドが訪れた。


「久しぶりだな」

「お久しぶりです」


 応接室で向かい合う。

 アルフレッドは以前より少し痩せていた。


「シャーロット。君に謝りたい」

「はい」

「俺は君が努力していることを、当たり前だと思っていた」

「そうですね」

「君がいなくなって分かった。領地のことも、社交のことも、俺の仕事も⋯⋯君がどれだけ支えてくれていたのか」

「そうですか」

「だから」


 アルフレッドがシャーロットを見る。


「やはり、君にしか任せられない」

「嫌です」

「まだ何も頼んでないぞ!?」

「今、君にしか任せられないって言いましたよね?」

「あ、ああ」

「それ、期待していますよね?」

「⋯⋯まあ」

「嫌です」

「シャーロット!」

「絶対に嫌です」

「でも君ならできる!」

「それが一番嫌なんです!」


 シャーロットは思わず立ち上がった。


「できるからって、やりたいとは限らないんです!」


 アルフレッドが黙った。


「私、ずっと勘違いしていました」


 シャーロットはゆっくり座り直した。


「できることは、やらなければいけないと思っていたんです」


 勉強ができるから。

 社交ができるから。

 侯爵夫人になれるから。

 アルフレッドを支えられるから。


 だから、やらなければならない。


「でも、違いました」

「⋯⋯何がだ?」

「できることと、やりたいことは別です」


 アルフレッドはしばらく黙っていた。


「⋯⋯じゃあ、君は今、何がしたいんだ?」

「最近、見つけました」

「何を?」

「お菓子を作るのが好きみたいです」


 シャーロットは少し照れながら笑った。


 暇になってから、料理人に教わって始めた。


 最初は酷い出来だった。

 誰からも期待されていなかった。

 失敗しても怒られなかった。


 それが楽しくて仕方なかった。


「別にお店を出したいわけではありません」

「⋯⋯そうなのか?」

「はい。上手になりたいとも、あまり思っていません」

「じゃあ——何のために?」

「楽しいからです」


 アルフレッドは目を瞬いた。


「それだけ?」

「それだけです」


 シャーロットは笑った。


「それじゃ駄目ですか?」

「⋯⋯いや」


 アルフレッドは小さく首を振った。


「いいと思う」


 その言葉を聞いて、シャーロットは少し嬉しくなった。


 アルフレッドとは、それきりだった。


 復縁することもなかった。

 けれど彼を恨んでもいない。


 あの日、『君には失望した』——そう言ってもらえたから。


 初めて、期待に応えない人生を選べたのだから。


 ある日の午後。

 シャーロットは厨房で焼き菓子を作っていた。


 少し焦げてしまった。


「お嬢様、でも前回より上手になっていますよ」


 侍女が笑う。


「この調子なら、すぐに完璧に作れるようになりますね」


 シャーロットの手が止まった。


「⋯⋯今、期待した?」

「え?」

「私が上手になるって期待したでしょう?」

「い、いえ、そのようなつもりでは」

「期待しないで」

「申し訳ございません!」


 慌てる侍女を見て、シャーロットは笑った。


「これくらいでいいの」


 少しくらい焦げてもいい。

 上手にならなくてもいい。

 誰かに褒めてもらわなくてもいい。


 シャーロットは焦げた焼き菓子を一つ口に入れた。


「うん。美味しい」


 誰にも期待されない人生は——思っていた以上に、甘くて美味しかった。

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― 新着の感想 ―
相当病んでるなあ こりゃ回復するまで相当かかりそう お大事にー
両親が最終的に理解してくれて良かったですね。 アルフレッドは要求するだけでシャーロットの努力に何も報いてないからなぁ。唯一あった利益の侯爵夫人も自分じゃなくて家が差し出したものだし。 アルフレッドが…
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