「君には失望した」と婚約者に言われました。ありがとうございます!
「君には失望したよ」
婚約者のその言葉を聞いた瞬間、シャーロット・レインズは顔を上げた。
「⋯⋯本当ですか?」
「ああ」
侯爵令息のアルフレッド・グレイは、冷たい目でシャーロットを見ている。
「正直、もっとできる女性だと思っていた。将来侯爵夫人になるのだから、俺も君には期待していたんだ。だが、最近の君を見ていると——」
「もう期待していないのですか?」
「⋯⋯そう言っている」
シャーロットの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「⋯⋯⋯⋯は?」
アルフレッドが固まった。
シャーロットは嬉しかった。
心の底から嬉しかった。
なぜなら彼女は、人から期待されることが大嫌いだったからだ。
伯爵令嬢として生まれたシャーロットは、幼い頃から優秀だった。
勉強をさせれば覚えが早い。
礼儀作法を学ばせれば教師に褒められる。
刺繍も、ダンスも、楽器も、人並み以上にこなした。
すると周囲の大人たちは言った。
『シャーロットならできるでしょう?』
『あなたに任せておけば安心ね』
『次も期待していますよ』
その言葉を聞くたび、シャーロットは笑顔で答えた。
『はい。頑張ります』
そして、本当に頑張った。
期待を裏切るのが怖かったからだ。
九十点を取れば、次は百点を求められる。
百点を取れば、今度は百点を取るのが当然になる。
できないと言えなかった。
疲れたとも言えなかった。
期待されればされるほど、シャーロットは期待に応えようとした。
そんな彼女が十五歳でアルフレッドと婚約すると、周囲はますます喜んだ。
『あなたなら立派な侯爵夫人になれるわ』
『アルフレッド様をしっかり支えてあげてね』
『シャーロットなら安心だ』
その日から、彼女の予定表は真っ黒になった。
侯爵夫人としての礼儀作法。
領地経営。
法律。
税制。
社交。
慈善活動。
侯爵家と付き合いのある貴族たちの家系や好みまで覚えた。
婚約者であるアルフレッドの仕事も手伝った。
頼まれれば断らなかった。
————いや、頼まれる前にやった。
そうすれば、みんな喜んでくれたから。
『さすがシャーロットだ』
『君ならできると思っていた』
褒められるたび、シャーロットは微笑んだ。
しかし一方で、心の中では——(もう期待しないで⋯⋯)——と願っていた。
そんな日々が三年続いた。
だから今。
アルフレッドから、『君には失望した』と言われたシャーロットは、人生で初めてと言っていいほど解放感を覚えていた。
「ま、待ってくれ!」
アルフレッドが困惑している。
「どうして礼を言うんだ?」
「だって、もう期待されていないのでしょう?」
「あ、ああ」
「では、侯爵夫人になるための勉強も、もう必要ありませんよね?」
「⋯⋯まあ、そうなるな」
「毎週参加していた侯爵家の茶会も?」
「必要ないだろう」
「慈善会への出席も?」
「ああ」
「領地から届く収支報告の確認も?」
「それも俺たちでやる」
「アルフレッド様の書類のお手伝いも?」
「必要ない」
素晴らしい⋯⋯!
シャーロットは感動した。
予定表がどんどん白くなっていく。
「それでは、婚約も解消していただけますか?」
「⋯⋯⋯⋯何?」
アルフレッドが目を見開いた。
「ですから、婚約解消です」
「待て。俺はそこまで言っていない」
「ですが、私には失望されたのでしょう?」
「それは⋯⋯そうだが」
「でしたら、もっと相応しい方と婚約された方がよろしいかと」
シャーロットは微笑んだ。
「例えば、エミリア・ロウズ様など」
アルフレッドの表情が変わった。
やっぱり⋯⋯。
シャーロットは思った。
最近、アルフレッドはエミリアという子爵令嬢をよく褒めていた。
明るく社交的で、自分の意見をはっきりと言う女性らしい。
『エミリアは君と違って一緒にいて楽しい』
『彼女はいつも笑っている』
『君は何でもできるが、最近少し余裕がなさすぎる』
シャーロットに失望したというのも、おそらくエミリアと比べてのことだろう。
「エミリアのことは関係ない」
「そうなのですか?」
「ああ。ただ⋯⋯彼女を見ていると、君にももう少し変わってほしいと思っただけだ」
「分かりました」
「分かってくれたか」
「では、婚約を解消しましょう」
「どうしてそうなるんだ!?」
アルフレッドが初めて声を荒らげた。
「だって私、もう疲れましたから」
「⋯⋯え?」
その言葉は、思っていたより簡単に出た。
「十五歳から三年間、ずっと頑張りました。侯爵夫人になれるように。アルフレッド様のお役に立てるように。皆様の期待を裏切らないように」
「シャーロット⋯⋯」
「でも、もう期待していないと言っていただけました」
シャーロットは笑った。
「ですから、もう頑張らなくていいのでしょう?」
数週間後。
二人の婚約は正式に解消された。
両家は当然驚いた。
特にシャーロットの両親は娘を説得しようとした。
「あなたなら立派な侯爵夫人になれるのに」
父にそう言われた瞬間、
「そういうことを言わないでください!」
生まれて初めて父に強く言い返した。
父は目を丸くした。
「私、立派な侯爵夫人になりたくありません」
「では、何になりたいんだ?」
「⋯⋯分かりません」
シャーロットは正直に答えた。
「今まで、誰かに求められたものになることしか考えてこなかったので」
父も母も黙った。
「だから、少しだけ何にもならない時間をください」
両親は最終的に受け入れてくれた。
翌朝。
シャーロットは昼近くまで眠った。
起きたとき、時計を見て飛び起きた。
「十一時!?」
こんな時間まで眠ったことなどない。
「どうしよう!」
ベッドから飛び出しかけて、止まった。
「⋯⋯何が?」
今日は授業がない。
侯爵家へ行く必要もない。
慈善会もない。
アルフレッドの仕事を手伝う必要もない。
シャーロットはもう一度ベッドへ倒れ込んだ。
「⋯⋯⋯⋯最高」
それからの生活は、驚くほど穏やかだった。
朝、眠ければ少し長く寝る。
読みたかった恋愛小説を読む。
庭を散歩する。
お腹が空けば菓子を食べる。
気が向いた日は街へ出る。
ある日など、午後から三時間も庭で昼寝をした。
以前の自分なら罪悪感で耐えられなかっただろう。
けれど今は違う。
「お嬢様、今日は何をなさるのですか?」
侍女に聞かれ、シャーロットは答えた。
「何もしないわ」
「まあ」
「昨日も何もしなかったけれど、今日も何もしないの」
なんて贅沢なのだろう。
そんなある日。
友人のアリサ・ベルが遊びに来た。
「シャーロット、なんだか変わったわね」
「そう?」
「前よりずっと楽しそう」
「誰からも期待されていないからよ」
「普通、それは悲しむところじゃない?」
「どうして?」
アリサは笑った。
「それで、これからどうするの?」
「何が?」
「結婚とか、仕事とか。何かやりたいことはないの?」
「⋯⋯⋯⋯」
シャーロットは固まった。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
「今の、期待してるように聞こえた?」
「少し」
「重症ね⋯⋯」
けれど、その日の夜。
シャーロットは少しだけ考えた。
自分は何をしたいのだろう。
侯爵夫人になるためではなく。
両親に褒められるためでもなく。
誰かの期待に応えるためでもない。
自分がやりたいこと⋯⋯。
考えてみても、すぐには思いつかなかった。
だから、しばらく探すことにした。
一方、アルフレッドはエミリアとの距離を急速に縮めていた。
婚約解消から二か月後。
アルフレッドはエミリアを侯爵家へ招いた。
「実は、見てほしいものがあるんだ」
机の上には領地から届いた書類が積まれていた。
「何ですか、これ?」
「領地の収支報告だ。以前はシャーロットが確認してくれていたんだが」
「へえ」
「君にも少し手伝ってほしい」
エミリアは首を傾げた。
「?嫌です」
「⋯⋯え?」
「だって、私には分かりませんもの」
「いや⋯⋯。これから勉強すればいい」
「どうして?」
「将来、侯爵夫人になれば必要になる」
エミリアはしばらくアルフレッドを見つめた。
「私、侯爵夫人になりたいなんて言いました?」
「⋯⋯は?」
「アルフレッド様と一緒にいるのは楽しいですけど、そんな大変なことをするなら結婚は嫌です」
「いや、でも⋯⋯」
「シャーロット様はやっていたのでしょう?」
「ああ」
「なら、シャーロット様ってすごい方だったんですね」
その一言に、アルフレッドは何も返せなかった。
それからしばらくして。
エミリアはアルフレッドから距離を置くようになった。
『次期侯爵夫人として期待している』
そう言われるたび、顔を曇らせたという。
皮肉なことに————エミリアもまた、期待されることが好きな女性ではなかったらしい。
婚約解消から半年後。
シャーロットのもとをアルフレッドが訪れた。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
応接室で向かい合う。
アルフレッドは以前より少し痩せていた。
「シャーロット。君に謝りたい」
「はい」
「俺は君が努力していることを、当たり前だと思っていた」
「そうですね」
「君がいなくなって分かった。領地のことも、社交のことも、俺の仕事も⋯⋯君がどれだけ支えてくれていたのか」
「そうですか」
「だから」
アルフレッドがシャーロットを見る。
「やはり、君にしか任せられない」
「嫌です」
「まだ何も頼んでないぞ!?」
「今、君にしか任せられないって言いましたよね?」
「あ、ああ」
「それ、期待していますよね?」
「⋯⋯まあ」
「嫌です」
「シャーロット!」
「絶対に嫌です」
「でも君ならできる!」
「それが一番嫌なんです!」
シャーロットは思わず立ち上がった。
「できるからって、やりたいとは限らないんです!」
アルフレッドが黙った。
「私、ずっと勘違いしていました」
シャーロットはゆっくり座り直した。
「できることは、やらなければいけないと思っていたんです」
勉強ができるから。
社交ができるから。
侯爵夫人になれるから。
アルフレッドを支えられるから。
だから、やらなければならない。
「でも、違いました」
「⋯⋯何がだ?」
「できることと、やりたいことは別です」
アルフレッドはしばらく黙っていた。
「⋯⋯じゃあ、君は今、何がしたいんだ?」
「最近、見つけました」
「何を?」
「お菓子を作るのが好きみたいです」
シャーロットは少し照れながら笑った。
暇になってから、料理人に教わって始めた。
最初は酷い出来だった。
誰からも期待されていなかった。
失敗しても怒られなかった。
それが楽しくて仕方なかった。
「別にお店を出したいわけではありません」
「⋯⋯そうなのか?」
「はい。上手になりたいとも、あまり思っていません」
「じゃあ——何のために?」
「楽しいからです」
アルフレッドは目を瞬いた。
「それだけ?」
「それだけです」
シャーロットは笑った。
「それじゃ駄目ですか?」
「⋯⋯いや」
アルフレッドは小さく首を振った。
「いいと思う」
その言葉を聞いて、シャーロットは少し嬉しくなった。
アルフレッドとは、それきりだった。
復縁することもなかった。
けれど彼を恨んでもいない。
あの日、『君には失望した』——そう言ってもらえたから。
初めて、期待に応えない人生を選べたのだから。
ある日の午後。
シャーロットは厨房で焼き菓子を作っていた。
少し焦げてしまった。
「お嬢様、でも前回より上手になっていますよ」
侍女が笑う。
「この調子なら、すぐに完璧に作れるようになりますね」
シャーロットの手が止まった。
「⋯⋯今、期待した?」
「え?」
「私が上手になるって期待したでしょう?」
「い、いえ、そのようなつもりでは」
「期待しないで」
「申し訳ございません!」
慌てる侍女を見て、シャーロットは笑った。
「これくらいでいいの」
少しくらい焦げてもいい。
上手にならなくてもいい。
誰かに褒めてもらわなくてもいい。
シャーロットは焦げた焼き菓子を一つ口に入れた。
「うん。美味しい」
誰にも期待されない人生は——思っていた以上に、甘くて美味しかった。
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