3. 弁明
「待ってください。怪しい者じゃない」
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私はゆっくりと、両手を見苦しく胸の高さまで上げ、手のひらを相手に向けてみせた。
彼女は、鋸のようなものをこちらへ突きつけたまま、ピクリとも動かない。白髪の隙間からひんやりとした翡翠の瞳が、私の全身を容赦なく射貫くように見据えている。
十秒、二十秒……。長い時間、私たちは視線を交え、ただじっと睨み合っていた。いや、違う。彼女がこの薄汚い闖入者を一方的に観察し、値踏みしていたと言うべきだろう。
やがて、彼女は鋸の切っ先を僅かに下げた。
しかし、その声の冷ややかさは少しも変わらない。
「……どうやってここへ入り込んだ。そして、なぜ正気を保っていられる?」
ひっそりとした静寂の森に、その透き通った声が、冷たい波紋のように広がっていく。
私はすっかり困惑してしまい、力なく首を振った。
「どうやって……というのは、私が一番知りたいくらいです」
「気がついたら見知らぬ森の中で倒れていまして、あてもなくさまよっていたら、作業をしている音が聞こえてこちらへ…。どう正気を保っていられるか、というお尋ねですけども……すみません、私にはその意味がよく分からないです」
私のなんとも間抜けな返答を聞いて、彼女は形の良い眉をひそめた。その眼差しに、侮蔑にも似た疑念の影が濃く落ちる。
「意味がわからない、だと……?」
「ここは、森の深奥。大気中の魔力濃度が異常なまでに濃い領域だ。ただの人間であれば、足を踏み入れた途端に魔力酔いを起こして意識を失うか、最悪の場合、肉体と精神を無惨に破壊されて発狂するはずだ。」
「高位の魔法使いや、極限まで厳しい訓練を積んだ人間であれば、多少の耐性もあるだろうが……」
そこで彼女は、再び私の頭のてっぺんから足の先までを、ジロリと品定めするように眺め回した。
「お前は、とてもそのような手練れには見えない」
なるほど、全くもって彼女の見立ては正しい。
私のような、つい昨日まで平凡な中年サラリーマンであった男に、そんな特殊な訓練の経験などあろうはずがないのだ。
しかし、そんなことよりも私の心を強く打ち据えたのは、彼女の小さく美しい唇からごく自然にこぼれ落ちた、ある一つの単語の方であった。
「魔法、か……」
思わず口に出して、馬鹿みたいに反芻してみる。
やはりここは、かつて私が何十年も這いつくばって生きてきた、あの退屈な地球ではないのだ。
お伽噺や空想の産物でしかなかった魔法だのエルフだのが、厳然たる現実として存在する世界なのだ。
私は、長年の勤め人生活で骨の髄まで染み付いた、あの卑屈な営業スマイルならぬ、相手をなるべく刺激しないよう努めて穏やかな声色を作って、口を開いた。
「にわかには信じてもらえないかもしれないですが……」
「私は恐らく、この世界とは違う異世界から流れてきた人間であるかと。」
「私のいた異世界には『魔法』なんてものは存在していなかったのです。なので私自身、魔力なんて立派なものは一切持ち合わせていない、と思います。」
私のあまりにも突拍子もない戯言に、彼女は少し面を食らったように感じた。
「異世界……? 異世界だと?」
私が馬鹿正直にこくりと頷いてみせると、彼女は鋸を下ろそうともせず、ふと視線を落とし、深い思考の淵に沈むように黙り込んでしまった。
ほんの数秒の気まずい沈黙ののち、彼女の唇からひどく乾いた嘲笑が漏れる。
「はっ……馬鹿馬鹿しい」
ふたたび顔を上げた彼女の瞳には、先ほどよりもさらに冷たい光が宿っていた。
「そんな馬鹿げたこと、起こり得るはずがないだろう。」
「世界と世界の壁を越える事象など、空間と次元の理を根本から捻じ曲げる神の御業だ。どれほどの高位魔法陣を敷き、どれほど莫大な魔力を集めようとも、理論上絶対に不可能と証明されている」
よどみなくすらすらと紡がれる、あまりにも理路整然とした反論。その底知れぬ深い知性と論理的な物言いには、どうひいき目に見ても十代の小娘のそれではない、途方もない年月を生きる長命種ならではの、堆積した知識の片鱗がちらりと覗いたような気がした。
しかし、理屈はどうあれ、現にこの私はここにこうして突っ立っているのである。さて、一体全体どうやって言いくるめたものか。
私がすっかり困り果てて、だらしなく頭を掻こうとしたその時、彼女はさらに凄みのある声色で言い放った。
「こんな森の深奥まで入り込んできた手口はさっぱり見当もつかない、が――」
「どうせ、力を失って何一つ出来なくなった、このエルフの身体目当ての浅ましいごろつき、といったところだろう」
「ごろつき……? 私が、君の身体目当てだと?」
あまりにも突拍子もない言葉に、私は思わず素頓狂な声で聞き返してしまった。
「とぼけるな。こんな最果ての辺境の森にまでわざわざ人間がやってくる理由など、他にあるか」
自嘲するように、彼女の美しい顔が僅かに歪む。
「さっさと仲間を呼んできたらどうだ?私一人を捕らえるのに、こんな回りくどい三文芝居は不要だろう」
私を挑発するようなその言葉の裏には、どこか諦観にも似た感情が滲んでいるような気がした。
張り詰めた警戒と恐怖?を抱え込みながらも、彼女はその毅然とした態度を崩そうとはしなかったのである。
「そんなことを言われても、本当に何も知らないんです」
「私のいた世界では、あなたのような『エルフ』という存在は、おとぎ話や空想の物語でしかなかった。こうして生きている本物を見たのも、これが初めてなんですよ…」
私が馬鹿みたいに両手を挙げたまま、努めて静かな、落ち着き払った声色でそう告げてやると、彼女は小さな唇を固く真一文字に結んでしまった。
深い警戒と、それに混じる僅かばかりの好奇心。途方もない年月を生き抜いてきたかのような底知れぬ深淵を湛えた眼差しが、私の浅ましい嘘を暴き立てようとでもするように細められ、私という得体の知れない男をじろじろと観察し続けるのである。
数十秒にも及ぶ、息の詰まるような沈黙。
やがて彼女は、その幼い容貌には似つかわしくない、ひどく老成した、諦観にも似た深いため息を一つこぼすと、剣のように構えていた鋸を、カランと力なく地面に落とした。
「……まあ、ごろつきの類ではないか」
「信じてくれるのですか?」
「……」
彼女はふいと小さく鼻を鳴らした。
「本職の奴隷狩りや浅ましいごろつきの類ならば、無防備な私を前にしてこんな悠長な問答などするはずがない」
「どいつもこいつも欲望と悪意を丸出しにして、獣のように襲いかかってくるはずだ。お前のひどく間抜けな目には、そういった卑劣な類の濁りが見当たらない」
「それは……どうも」
「何より……」と、彼女は私の無骨な全身をふたたびジロジロと見回した。
「お前のそのアホみたいな身なりだ。散歩でもしにきたのか?」
確かに今の私は、早朝散歩のためだけに近所の服屋で購入したジャージの上下を身に着けている状態ではあるのだが…
そうだ――と言ったら匙を投げられそうなので黙っておこう。
彼女は白く細い指を顎に当て、ぶつぶつと自分自身を無理にでも納得させるかのように呟き始めた。
「そもそもごろつきのような程度の低い貧弱な輩は、この森の深奥に辿り着ける道理が無いのだ。魔力結界も張らずにこんなところへ足を踏み入れれば、いかに屈強な戦士であろうと頭痛や目眩に苦しむはず。だというのに、奴はピンピンしているどころかチリほどの魔力も感じない…」
「……魔力を一切持たないがゆえに、大気中の魔力と少しも干渉せず、猛毒が毒として作用しない。そんな人間が存在するだろうか…?いや、現に私の目の前に…。だが、とても異世界なんてものが存在するなとは…」
ひとしきり思考を巡らせたのち、彼女はくるりと私に小さな背を向けた。
「……ついてこい」
「どこへ?」
「このまま外に放り出せば、森の魔物の無残な餌食になるだけだろう」
彼女は背中越しに冷ややかにそう言い放ち、あの巨大な樹の根元に埋め込まれた、木目調の扉へと向かって歩き出した。
「それに、私としても、お前という存在には少しばかり興味がある」
相変わらず声に冷たさは残っていたものの、先程までのあのヒステリックに張り詰めた警戒心は、幾分か和らいでいるように思われた。
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わけもわからず異世界に放り出され、右も左も分からない薄汚い私にとって、今この狂ったような状況で唯一会話が成立する彼女は、文字通りの命綱である。
私は小さく安堵の息を吐き、彼女の華奢な背中を追って、樹の内部へとのろのろ足を踏み入れたのであった。




