1. 転生
喪服をクリーニングに出してしまってから、誰もいない薄暗い茶の間でひとり、すっかり冷え切った番茶をすすっている。
九十を目前にして、ついに母が息を引き取った。父はとうの昔に亡くなっているので、これで私はほとんど天涯孤独の身となってしまったというわけである。(まだ親戚は健在しているので、真の天涯孤独とは言えない。)
もう何十年も昔のことになるが、不慮の事故で妻とまだ幼かった娘をいちどきに喪った時の、あの世界が音を立てて崩壊するような凄絶な絶望感は、今の私にはもう微塵もない。
ただ、長いあいだ背負い続けてきた重たい荷物をようやく下ろしたような、ある種のだらしない安堵感と、胸の奥にぽっかりと開いた風穴を吹き抜ける木枯らしの冷たさを、ぼんやりと感じているばかりであった。
勤め先の定年までも、あと数年を残すばかりとなった。このまま馬鹿正直に勤め上げれば、それなりの退職金というものも手に入るのだろうが、それを共に喜んでくれる家族は、もうこの世のどこにもいないのだ。残されたこの無益な余生を、私は一体どうやってやり過ごせばいいというのだろう。
そんなとりとめのない感傷を抱いたまま蒲団にもぐり込んだせいか、翌朝はひどく早く目が覚めてしまった。
白み始めた空の下を、私はあてもなく近所を散歩することにした。
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冷たい朝の空気が、すっかり沈みきった肺の奥にまで痛いほど沁み渡る。長く住み慣れた土地である。どこに何があるかなど、目を瞑っていても歩けるくらいに熟知しているつもりでいた。
しかし、家から少し離れた小高い丘を越え、鬱蒼とした森の入り口に差し掛かった時、ふと、今までまるで気づきもしなかった見慣れない小道があることに気がついた。
いや、存在そのものは知っていたのかもしれない。「あそこは神様が棲んでいるから入ってはいけない」と、土地の者たちが気味悪がって口を揃える、森の奥へと続く獣道である。
近頃ではパワースポットなどという妙な横文字で持て囃す軽佻浮薄な連中もいるようだが、地元の人間は滅多に寄り付かない。もっとも、神様がどうこうなどというのは、蛇や猪が出るような危険な場所に子供たちを立ち入らせないための、大人たちの浅知恵から出たありふれた方便に過ぎないのだけれど。
それでも、その朝の私はなぜだか、そのひどく陰惨な小道に強く心を惹きつけられてしまったのだ。すっかり空虚になってしまった心が、いっそ非日常という名の破滅を求めていたのかもしれない。
なにかに導かれるようにして、湿った土と腐葉土のむせ返るような匂いが立ち込める森の奥へと、私は足を踏み入れた。木々の隙間から差し込む朝日が、薄暗い空間に幾筋もの光の帯を作り出している。
「……なんだ、これは」
しばらく歩き、ふと視界が開けた場所に出た瞬間、私は思わず呆けたような声を漏らしていた。
眼前にそびえ立っていたのは、一本の樹だった。
見上げても頂上の見えぬ、途方もない高さ。何十人で手をつないだところで到底抱えきれないであろう、巨大で、醜くうねるような幹。太古からそこに鎮座し、まるでこの星の生命力そのものを無骨に顕現させたかのような、圧倒的な威圧感がそこにはあった。
こんな化け物のような樹が、このちっぽけな裏山の奥に隠されていたというのか。いくらなんでも、大きすぎる。今まで誰の目にも触れず、航空写真にすらその姿を捉えられていなかったのが、私には不思議でならなかった。
呆然と立ち尽くしていた私は、まるで何かに魅入られたように、その巨大な樹の根元へとふらふら近づいていった。苔むした、ゴツゴツと不気味な樹皮に、そっと手のひらを這わせてみる。
ドクン、と。
生々しい鼓動のようなものが、手のひらを通じて私の心臓を直接わしづかみにしたような気がした。
その、直後であった。
巨大な樹の表面から、目を射るような純白の光が爆発的に溢れ出したのである。
逃げる暇などあろうはずもなく、私の視界は一瞬にして暴力的なまでの白に塗り潰された。
「――っ!」
声にもならない悲鳴を上げた次の瞬間、私は強烈な浮遊感に襲われ、そのまま意識は深い深い闇の底へと、真っ逆さまに墜ちていったのである。




