第五話 褒めて貰えるかな?
ひとしきり泣いた後、エレノアは決意した。
「100歳で寿命がきた時、ゼルフィウス様に褒めて貰えるように、頑張ろう」
その日から、エレノアこれまで以上に精力的に聖女として各地を飛び回った。
命を粗末にすることはできないが、どうせ死なないのならと、エレノアは限界ギリギリで世の中のために必死で働いた。
国中の結界を張り直したり、魔獣の討伐部隊に参加したり、国中を慰問で旅したり、それはもう目まぐるしい程だった。
誰もがエレノアに感謝した。
癒しと幸福の象徴として、彼女は常に微笑んでいたが、その心は常に寂しさが渦巻いていた。
国中の結界を張り直した時、すでに壊れてしまっていた結界の近くの村が、魔獣に襲われ焼け跡しか残っていなかったのを目にし、泣きながら祈りを捧げた。
「エレノア様が祈って下されば、皆が浮かばれます」
一人村に残っていた老人に泣いて感謝されたが、エレノアは暫くショックで何も食べる事ができなかった。
魔獣の討伐部隊に参加した時は、魔獣の大群に足が竦んだ先陣の若い騎士や、それを庇った他の騎士がエレノアが到着する直前で死に、何とか遺体だけでもと必死で家族の元へ届けた。
「ありがとうございます、聖女様。こいつを……こいつを家に連れて返って来て下さって……」
遺体の頬を撫でながら泣く騎士の父親に感謝されたが、エレノアはそれから眠れない夜が続いた。
慰問で国中を旅した時は、到着があと僅かに早ければ助けられたはずの、冷たい亡骸になってしまった民達を、何人も何人もその腕に抱き締めた。
「この子を抱きしめて下さって、ありがとうございます。彼の国できっと……この子も喜んでいるはずです」
冷たくなった我が子に泣きながらお別れをする母親に感謝されたが、エレノアの心には絶望しかなかった。
食事が喉を通らない夜も。
眠れない夜も。
絶望でどうしようもない寂しさと虚しさでおかしくなりそうな夜も。
エレノアは布団にくるまり膝を抱え、愛しいゼルフィウスの名を唱えながら、再び朝が来るまで一人で耐えた。
「ゼルフィウス様……ゼルフィウス様に、会いたいよぉ……」
震える呟きは闇に吸い込まれるだけ。
命を粗末にしてはいけない。
ゼルフィウスの言いたい事は、痛い程に理解できた。
だが、エレノアの孤独を、寂しさを埋めてくれる愛しい存在は、死ななければ会うことも叶わない。
次に会う時には、ゼルフィウスに褒めて欲しい。
それだけを胸に、エレノアは何年も何年も、一人で必死に国中の死と向き合い、心を痛めながらも走り続けた。
それから何年経ったのか。
エレノアの心は、もうボロボロになっていた。
疲れきっていた彼女は、ある日、ミスをした。
災害で救助が必要な山奥の村へ向かうため、救助隊や騎士達と共に、切り立つ険しい崖にある道を進んでいた時。
皆が進む足元に風よけの結界を張りつつ進んでいたが、そこに僅かな綻びができてしまった。
強風に煽られ、目の前の救助隊の男性が、ぐらりと体を谷側へ傾けた。
「危ない!!」
エレノアは咄嗟にその男性の腕を掴み、自分の体重と交換に、思いっきり彼を山側へ引っ張り戻した。
どさりと地面に倒れた男性と、それを見ていた周囲の騎士達が、顔を青くして叫ぶ。
「エレノア様!!」
男性を引っ張り戻した反動で、エレノアの体は谷側へ大きく倒れ、彼女はそのまま物凄い勢いで下へと落下し始めたのだ。
深い深い谷底へ向かいながら、頭から落ちて行くエレノアが感じていたのは、恐怖ではなく、強い焦りと不安だった。
(どうしよう……)
落下しながら、エレノアの目にジワリと涙が滲む。
(どうしよう、どうしよう!! このままじゃ死んじゃう! まだ寿命じゃないのに! ゼルフィウス様に呆れられちゃう! せっかく頑張って来たのに、もう褒めて貰えない! 嫌だ……嫌だよ……!!)
そう考えている間にも、谷底はすぐそこに迫っている。
エレノアは死を覚悟するように、ギュッとその目を固く閉じた。
──その時。
「本当に、何をやっているんだ」
胸の奥に響くような低く優しい声がエレノアの耳に届いたかと思うと、大きな温もりにその身を包まれた。
冬の風のような澄んだ香りに顔を埋めながら、エレノアの目から、ぼろりと涙が溢れる。
「ぜ……るふぃう、す、様……ゼルフィウス様、ゼルフィウス様!! うわあああーーーーん!!」
エレノアが死を覚悟した瞬間、落下していく彼女を包み込んだのは、何年も何年も求めて止まなかったその人──ゼルフィウスだった。
ゼルフィウスは美しい顔を歪ませ、エレノアを守るようにきつく抱き締めたまま、物凄い勢いで一緒に落下していく。
地面にぶつかる直前、ゼルフィウスは苦しげに硬く目を閉じ、言った。
「──停止」
すると、二人の体はふわりとその場で動きを止めた。
二人だけではない。
風も、鳥も、川の流れも、世界そのものが完全に停止していた。
二人は空中に浮かびながらゆっくりと向きを変え、まるでベッドから床に降り立っただけのような軽やかさで、ふっと地面に着地した。
静止し音さえもなくなった世界で、足が地に着いてからも、二人は抱き合ったままだった。
エレノアはゼルフィウスにしがみ付き、わんわん泣いた。
「ゼルフィウス様、お会いしたかったです。本当に、ずっとお会いしたかったです!!」
エレノアの涙は溢れ続けた。
泣きじゃくる彼女を慰めるように、ゼルフィウスはエレノアを優しく抱き締め、彼女が泣き止むまで、幼子をあやすようにゆっくりと頭を撫でてくれた。
ようやくエレノアが泣き止んだのを確認し、彼女を抱き締めたまま、ゼルフィウスが言った。
「命を粗末にするなと言ったが、決して君を苦しめたい訳ではない。この世で幸せに暮らして欲しいという意味だ。だがどれだけ見ていても、君は幸せになりそうもない。魂が疲弊していく君を……見たい訳ではない」
後悔が滲む静かな声に、エレノアは声を荒げた。
「幸せになんて、そんなの無理です! 私はゼルフィウス様と一緒にいたい。でも、それは決して叶わないんですよね? せめて死んだ後に褒めて貰いたくて、今までずっと頑張って来たんです。なのにそれも失敗して、凄く苦しくて……もう、嫌だ……」
再び嗚咽を漏らし始めたエレノアを、ゼルフィウスは無言で強く抱き締めた。
何かを考え込むように暫く時間が過ぎ、ゼルフィウスは短く息を吐くと、怯えを孕んだような真剣な声で尋ねた。
「エレノア……君は本当に──私と共にいたいのか?」
彼の問いに僅かな希望を感じ、エレノアはボロボロと涙を溢しながら、声を絞り出した。
「そうです……!」
「私と共にあることを望むなら……もう二度と、この世にその魂が巡ることはない。生まれ変わることは、できないということだ。……それでもか?」
「ずっと……ずっと一緒にいたいです!」
「君に……後悔はして欲しくない」
「後悔なんて、絶対にしません……!!」
ゼルフィウスは観念したように、胸の中に閉じ込めたエレノアの髪に鼻先を埋めると、苦しげに言った。
「──わかった。……エレノア。もう時間がない。一度しか言わないから、よく聞くんだ」
焦りが滲んだ声に、エレノアは思わず顔を上げる。
見上げた先、ゼルフィウスの顔を見て、エレノアはざっと血の気が引き、叫んだ。
「──ゼルフィウス様!!」
エレノアの瞳に映ったのは、眉を歪め、苦悶の表情を浮かべたゼルフィウスの姿。
美しい筈の彼のその顔は、半分以上が、まるで炎で焼かれ炭になったかのように、じわじわと真っ黒に変色し始めていた。




