5の2 ご退院
知事室に戻り、秘書に公用車と警察にパトカー先導をお願いした。
そうしておいて昼食の弁当を食べ、歯を磨き、身だしなみを整えた。おそらく報道陣も来ているであろう。昼用正装のフロックコートを着て気合いを入れた。
今日は秩父宮様ご来道の正式行事となるであろう。
十二時二十分には道庁から公用車で出発した。ゆっくり走っても二十分で、札幌医科大学付属病院に到着した。
原田は病院の特別室を訪ねた。北さんや由紀、他にも知った顔が居た。
「殿下ご退院おめでとうございます。北海道知事の原田一樹でございます」
「先日、青森でお逢いしましたね。病院の紹介を有難う」
「ご回復をお慶びいたします。妃殿下、お初にお目に掛かります。原田でございます」
秩父宮ご夫妻にご挨拶した。お元気になられた秩父宮様は胸を張って軍服をお召しであった。
「色々と有難うございます。奥方様にもお世話になりました」
妃殿下が丁寧に頭を下げられたので、原田は恐縮した。
「では、札幌グランドホテルへ参りましょう。お医者さんも良いですね」
大学病院の教授らに確認する。
「恐れ多くも秩父宮様、しばらくの間、お薬をお忘れなく願い奉ります。途中で止めると、結核はぶり返して大変ですから、何とぞお願い申し上げます」
「はい、承知しました」
ここで看護婦さんから秩父宮ご夫妻に花束が贈られた。
「有難う」と秩父宮様が微笑みを浮かべて、親しみ深い一面を見せた。
玄関前では、氷点下の寒空に双葉中尉以下二五名が整列して出迎えた。半分はホテル警護に付いているのであろう。多くの報道記者やカメラマンに戸惑う様子も見られる。
パトカー、公用車、白バイ二台、ミニバン、パトカーの隊列で並び、原田と秩父宮様はたくさんのフラッシュを浴びながら黒塗りの公用車に乗り込んだ。
ゆっくりと車は走り出した。
「昔、札幌に来たことがあります」
殿下が静かにお話を始めた。
「お伺いしております。札幌グランドホテルとスキージャンプ台は殿下のご提案だとか」
原田も応じる。秩父宮様の期待に応えて財界人がお金を出したそうだ。
「九十年は凄い。本当に平和なのですね」
しみじみと秩父宮様は窓の外の人々を見ていた。
ここで原田は二・二六事件について話そうかと迷った。これから起こる事実なのだから、お知らせしなければならない。
「平和について実は殿下、申し難いのですが、二月二十六日に東京で反乱が起きます。歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊がクーデターを決行し、重臣を殺害してしまいます。陸軍大将もこれを応援し、天皇陛下がお怒りになって戒厳令が発せられ、鎮圧されます」
「北畠秘書官から聞いております。さらに秩父宮陰謀との陛下のお疑いがないように、二十六日までは決して上京しないようにと、御注意も受けております」
なんだ、北さんが説明してくれていたのだ。
しかし、反乱を知っていての秩父宮様の平常心は凄いものである。
「鈴木貫太郎侍従長を夕食会に招いたこともあるのです。撃たれて重傷だとか」
「もしも殿下が動くと『敵方と内通している』と陛下がお疑いになります」
北さんの注意はもっともであった。
「原田知事、戒厳令の二十七日になったら、あのヘリコプターで東京近郊まで送ってもらいたい。私は陛下のご相談役に徹します」
膝の上で拳を握り、真剣な表情で前を見ていた。
「お送りいたします。たしか当日の東京は大雪でしたが、水戸あたりでは如何でしょうか」
「歩兵第二連隊ですね。お願いします」
「お約束いたします」
まもなく数分でホテルに到着するだろう。
原田は電話を掛けた。
「石田危機管理監ですか、原田です。二十七日に殿下を東京か水戸にお送りしたいのですが、ヘリの飛行計画を立ててもらいたい。忙しいところ済まない。えっ、石原莞爾が函館空港に来ているって」