4の1 妃殿下
北海道知事夫人の原田由紀は特急と新幹線を乗り継ぎ、津軽半島の貨物線と在来線を通って、特別列車で津軽宮田駅までやって来た。護衛にはSPが五名ほど付いている。そのうちの一名は女性である。
外は純白の雪景色であった。ただし静かとは言い難い。本土へ帰ろうとする老若男女が、あるいは外国人が、無人駅周辺にたむろしていた。
降り積もった道なき道を南へと歩いて行き、寒さで進めないので諦めて、駅に戻って来て嘆く。そんな人々で溢れていた。ここから先は過去の世界。線路も数百メートル先で途切れている。
由紀は時計を見ると午後の四時前であった。
目的の人物である「勢津子妃」を探して駅前を歩いた。小さな集落だが、旅人が多い。
ざっと見たところ、妃殿下は居ないようであった。
「居りましたか」
SPに聞いてみる。彼らの集中力は半端じゃない。相手が戦前昭和の女性なら簡単に見つけられるであろうと思ったからだ。
「居ません」
SPのリーダーは短く答えた。間違いないだろう。
「もう少し待ちましょう」
由紀は覚悟を決めた。相手は青森から約一〇キロの雪道を歩いて来るのだ。一日や二日は遅れるかもしれない。
札幌の原田に電話を掛けた。
「あなた、津軽宮田駅に着きました。妃殿下は、まだお見えになって居りません。しばらく待ちます」
「頼むよ。札幌はマイナス七度だ。そっちも寒いだろう。風邪をひかないように」
夫の知事は忙しいようだ。しばらくは列車内で妃殿下を待っていた。
しかし、お腹も空いたので近くの小さな食堂に入った。町の洋食屋さんで海鮮パスタを頼んだ。時空転移の二日目なので、食材はまだ残っていたようだ。ここは暖かくて、料理も美味しかった。外は凍える白銀の別世界。窓一枚でこちらは天国だ。長丁場なので、ワインを注文して粘った。
SPさんから「妃殿下ご到着」の知らせが来たのは、夕方の五時過ぎであった。冬の二月なので外は暗い。
やっと御対面を果たした。
一〇〇名程の帝国軍人の中心に妃殿下は居た。灯油ランプの明かりの中に、防災頭巾と毛糸のマフラーで顔を覆い、綿入れ半纏にモンペ姿の女子が三名。
「こんばんは。私は知事夫人の原田由紀です。勢津子様でしょうか」
お伺いには、代わりに付き人が応えた。
「お出迎えご苦労様です。こちらが妃殿下です。私は侍女の九条華子です。娘の桃子も同行いたします」
三人は頭巾とマフラーを外すと、九条さんは四十代であろう。娘さんと妃殿下は二十代であった。
「寒かったでしょう。何か温かいお茶でも飲んで下さい。私も寒くて、ワインを飲んでしまったわ」
由紀が笑うと相手も笑顔となった。
「海上自衛隊の山根忠雄三佐であります」
むくむくした毛皮と白い制服で敬礼された。毛皮のコートは現地調達であろう。
「まあ、主人も元海自ですのよ」
「知事からお伺いしております。さあ、参りましょう」
うながされて津軽線のホームに歩く。しかし、兵隊さんたちが付いて来るのだ。由紀は振り返って立ち止まった。
「ちょっと待った。兵隊さんも来るなら、武器を置いて行ってちょうだい。銃刀法違反ですよ。山根さん、説明して」
「双葉薫中尉殿、こちらの日本では銃刀法というのがあります。刃渡り五・五センチ以上の刀剣及び銃器類は原則禁止です。銃の所持には都道府県安全委員会の許可が必要です。歩兵銃も拳銃も軍刀も持っては行けません」
「なに、軍人の誇りを。それでは肝心な時に戦えぬではないか」
抗議の双葉中隊長に「そうだそうだ」と怒る兵隊たち。あまりの寒さに苛立っていた。
困った山根三佐に代わって、由紀が説得した。
「兵隊さんたちの目的は、妃殿下をお護りして無事に送り届けることでしょう。争いを起こして、使命を全う出来ずに終わっても良いのですか。全員、武器をここに置いて行ってちょうだい。ダメなものはダメです」
きっぱりと言ってやった。
「ならぬことはならぬのです」
それまで黙っていた勢津子妃が毅然として応援してくれた。たしか彼女は、会津藩松平容保公の孫娘である。
「承知しました。皆よく聞け。武器はとなりの寺(清岸寺)に置いて行くぞ。半分の五〇名はここに残れ。残りの者は布を短冊に切って名前を記し、軍刀と拳銃に縛り付けよ。誰か指揮棒になる枝を拾って来い。以上だ、始め」
双葉中尉の命令で兵たちは一斉に動いた。手拭いを裂いて名前を記し、軍刀に巻くようだ。駅のとなりの寺に、三八式歩兵銃と軍刀、拳銃を置いて、五〇名の警護が立った。
見ていると何事にもテキパキしている。五時半には五〇名が勢揃いして出発。
津軽二股駅まで汽車に揺れること四十分。
切符の問題は今朝、知事が記者会見で「一円=二〇〇〇道円」と宣言したのだが、ここは青森県。由紀は到着した駅で六〇人分を自腹会計し、札幌まで切ってもらった。自動車が買えるほどの大赤字だ。とほほと涙が出る。
北海道新幹線に乗り換える。
彼らはロングノーズのH5系新幹線を見て大層驚き、子供のように目を輝かせていた。なにせ蒸気機関車の時代である。まったく予想もしなかったのであろう、夢の超特急電気列車だ。
「凄いな、おい」
由紀にも、兵隊たちのうかれる声が聞こえて来る。
全員が乗車し、まもなく静かに発進する。チャイムが鳴り「この列車は……」と車内アナウンスが流れると「おおーっ」と歓声が上がった。
「函館まで行くそうだ。それも一時間かからないぞ」
「海底トンネルか」
ざわざわと声が上がった。
窓側から妃殿下、桃子さん、華子侍従の三人掛け。隣に女性SPと由紀が座る。山根三佐と双葉中尉はその後ろに座った。
青函トンネルには妃殿下もびっくりして居られた。
車内販売で妃殿下にお茶を差し入れし、四十五分で新函館北斗駅へ着いた。
「終点」という言葉で、兵隊さんたちは我に帰ったようだ。護衛が任務だ。まったく知らない土地で、武器を持たない緊張感は極限であろう。
札幌行き最終で十九時六分発の特急「北斗」に乗り換えた。夫の原田に電話を掛ける。
「順調に北斗に乗りました。二十二時四十一分に札幌に着きます。それで兵隊さんが五〇人も付いて来ちゃったのですけど。どうしますか」
こんな事は、知事も予想外であろう。
「そうか、では兵隊さんたちは札幌グランドホテルに泊まっていただき、勢津子妃とお供は札幌医科大学付属病院にご案内してくれ。じゃあまた連絡して」
知事も大変らしい。疲れて倒れないか心配するところである。
由紀は立ち上がって後ろの二人に声を掛けた。
「山根三佐さん、双葉中尉さん、今日は札幌グランドホテルにお泊まり下さい。札幌駅から地下街を南に五〇〇メートルほど行った先です。山根さんはご存じですか」
「はい。北海道で一番格式のあるホテルですね」
隣の双葉中尉に説明してくれる。
「私と妃殿下、九条さんたちはタクシーで、病院の秩父宮様をお見舞いしてからホテルに行きます」
今後の予定を披露して席に着いた。
「自分も行かせて下さい」
と双葉中尉が懇願したが、山根三佐に、
「我々とはお立場が……」
とか何とか言われて静かになった。
「兵の指揮官はあなただ」
など、ぶつぶつと話している二人。
しばらくして由紀は、いい揺れと真っ暗な車窓にワインや昼間の疲れも出て寝てしまった。気が付くと十時半過ぎで、二十分後には札幌に到着する。起きて周りを見た。
勢津子妃は起きていた。
「青森から津軽宮田駅までの約一〇キロを私たちは歩いて来ました。しかし、こちらの世界は暖かく快適な列車で、海までも越えて行きます。とても凄いことです」
感慨深げな様子だった。
「もうすぐ秩父宮様に逢えますよ。良い薬もあり、すぐにご回復なされるでしょう」
「有難う」
「外は寒いですから、厚着して下さいね」
脱いでいた上着を着るように勧めた。
まもなく特急は札幌駅に到着した。
由紀とSP二名、妃殿下とSP二名、九条母と娘にSP一名の九人は、タクシー三台に分乗して秩父宮様の居られる病院に向かった。
山根三佐と双葉中尉に兵隊五〇名は整列して見送ってくれた。この後はホテルに行って宿泊するであろう。
病院の秩父宮様にはSPの警備が付いていた。由紀たちは顔パスで最上階の個室へと入った。
十一時二十分くらい、でも秩父宮様はまだ起きていた。何やら秘書の北畠さんと、偉い軍人さんと三人で熱心に話しをしていた。
「おお、これは」
深刻な表情の秩父宮様が、ぱっと明るくなった。
「雍仁殿下」
勢津子妃殿下が駆け寄った。
「ご体調の方は如何でしょうか」
「心配ありません。明日、一緒に町を歩きましょう」
かなりお元気そうに見えた。
「北畠さん、その話は明日にしよう。勢津子さん、この近代的な都市は凄いだろう。まだ、私も窓から見ただけだが、楽しみです」
ここで北さんが、由紀を紹介してくれた。
「殿下、こちらは原田知事の奥様であられます由紀様です」
「そうですか。勢津子さんを連れて来てくれて有難う」
秩父宮様にお礼を言われて嬉しかった。妃殿下も感謝の礼をしてくれた。
「こちらこそ、有難うございます。原田由紀です。お目に掛かれて光栄です」
北さんが帰宅のご挨拶を入れる。
「では殿下、もうすぐ十二時になりますので失礼いたします。お疲れになるといけませんので、妃殿下におかれましては明朝再びお話しては如何かと思います。由紀様もお疲れさまでした」
「では、お休みなさい」
秩父宮様とご挨拶をした。
由紀と妃殿下と九条母娘に、北さんがタクシーを手配してくれ、一緒に札幌グランドホテルへと移動した。
無事に戻って来た妃殿下に、直立不動で待っていた双葉中尉は落涙して、
「恐れ多くも秩父宮殿下のお加減は如何でしたでしょうか」
と侍女の九条さんに、ぐっと訊ねた。
「お元気なご様子でした」
その言葉で、さらに男泣きした。
「自分は(秩父宮)大隊長殿の部下であります。此度お一人にされてしまい申し訳なく、志願して北海道にやって来ました。早くご尊顔を拝みたい気持ちであります」
北さんが一歩前へ出て言った。
「お附き武官の本間雅晴少将が、お側に居りますから大丈夫ですよ。では、また明日」
北さんは敬礼を返した。
ホテルの妃殿下チェックインを済ませて、丁寧にご一行と別れた。
由紀は北さんの若い頃を知らないが、知識豊富な選挙参謀として東京で出逢ってから、もう二十年の付き合いになる。知事の裏方として、最も信頼できる人間だ。確か元警察官僚だったと聞いた覚えがある。
「奥様もお疲れさまでした。私も徹夜明けなので今晩は帰って休みます。タクシーにどうぞ」
北さんに促されて由紀がタクシーに乗ると、時計は深夜一時を回っていた。明日も主婦は早い。疲れたので、お化粧を落として、すぐ寝てしまおうと思った。
今日は電車賃に大金を使ってしまった。はたして眠れるかどうか。とほほ。




