3の1 グリーン
原田は知事室に戻ってテレビを点けると、地方局の美人アナウンサーが今さっきの記者会見の様子をリポートしていた。
内容は深刻で、一九三六年にタイムスリップして、戦争が心配だと述べていた。
テレビ画面は札幌市内に切替わり、ガソリンスタンドに並ぶ車の列、食料品や洗剤、ティッシュやトイレットペーパーを買い求める客、混雑する銀行、証券ストップに怒る株主たちが、次々と映し出された。
原田の予想通りだ。過去に時空転移してモノが手に入らない。品不足となると現金で持っているより、モノで持っている方が良い。だから買占めとなる。すると物価高でインフレーションとなる。予め日本円と道円とを固定相場にしたのは、計算であった。
たぶん食料品、灯油、ガソリン以外にも、コンピュータ機器、家電製品、自動車、金やプラチナ等も高騰するであろう。
原田は庁内電話の受話器を取った。
「原田です。すまないが総務部長、総合政策部長、経済部長の三人を呼んで下さい。よろしく」
知事室の秘書に頼むと、すぐに同じ階の総合政策部長がやって来た。
「知事、お呼びでしょうか」
「総合政策部長に頼みがあります。まず石油調達について、勇払の石油資源開発株式会社と満洲から原油を得る方法について検討して下さい。米国および蘭印からの原油輸入も検討して下さい。一年以内の調達を求めます。あとは戦前の歴史資料を纏めて下さい。今後の世界戦略に活かしたいのです」
「分かりました。しかし、本当に一九三六年なのですか。信じられません」
「本当です。自分は昨夜、青森で過去の人々に会って来ました。そこには陸軍中将もいました」
「ほう」と頷く総合政策部長。そこに二人の部長も入って来た。
「総務部長、二つ頼みがあります。一つ目は国税の北海道納入について、札幌国税局と調整して下さい。二つ目は国際室長の人選をお願いします。優秀ならば官民問いません」
「はい、承知しました」
一歩下がる総務部長。最後に経済部長にも指示を与えた。
「経済部長、生活必需品の輸入とハイテク製品の生産について調達計画を纏めて下さい。パソコンや自動車が作れるかどうかは、我々の文明を維持出来るかどうかの瀬戸際となります」
「分かりました」
「北海道民の生活と安全を守るために、お互い頑張りましょう」
原田は前に進み三人の手を取って協力を求めた。
すぐに電話が鳴ったので原田が出ると、部長三人はそっと退出して行った。
「先生、北畠です。殿下はインフルエンザでしたが、もうだいぶ良くなっております。ただし、初期の結核感染で治療が必要です。と言っても発病前で良かったです。弘前に居る勢津子妃と侍女などを病院に呼びたいそうですが、ご許可頂けますか」
「もちろんです。殿下に代わって下さい」
秩父宮様に電話を代わって貰う。待っている間、原田は少し緊張した。
「はい、もしもし雍仁です」
無線で慣れていたのか、携帯電話にも違和感なく出られた。弟君でも帝王学が身に付いておられるのであろう。
「昨夜お会い致しました北海道知事の原田一樹でございます。病気からのご回復をお喜び申し上げます。お妃様の件、お伺い致しました。下元中将と無線にてご相談の上で、お妃様は津軽半島にあります津軽宮田の無人駅から鉄道にお乗り下されますよう願います。案内には山根三佐をご同行下さい。準備万端ご用意してお待ち申し上げます」
「わかりました。よろしく」
原田は、迎えに誰をやろうかと考える。向うの話し相手が代わった。
「先生、北畠です」
「津軽宮田駅にてお待ちしますと答えました。この先からは線路がありません」
「私がお迎えに行きましょうか」
「いや、殿下のお世話を頼みます。こっちは妻の由紀にでも当たってみましょう」
「殿下のご入院は一週間くらいですので、その後は知事公館かホテルをご用意するのか、またご相談いたします。それでは」
電話は切れた。病院で携帯の使用は控えたいのであろう。
それで、由紀に電話を入れる。
「俺だ。テレビで見たと思うが記者会見をしていた。今、どこにいるの」
「九十年も過去に来たって本当ですか。ラジオで聞きました」
「そうだ。で、頼みたい事がある」
「今、タクシーで着替えを持って道庁前まで来ています。何ですの」
そうだった。今朝の話を忘れていた。忙しかったから。
「三階の知事室まで来てくれ。その時話す、じゃあ」
突然ドアがノックされ、血相を変えた石田危機管理監が入って来た。
「知事、客船ボイジャー・オブ・ザ・シーズが横浜に向けて出港しました」
おっと忘れていた。確か十時出発の予定であった。しかし、緊急事態なのになぜだ。
「どうしてだ、記者会見やニュースを見ていないのか」
「知事の記者会見が九時からで、十時には出港したそうです。飛行機やフェリーには注意しましたが、まさか外国客船の強引な出港までは阻止できませんでした」
「石田君、無線で話せないか」
「船長を説得しましたが、乗客が騒いで、横浜へ帰らせろと聞く耳持たないそうです」
そこに妻の由紀が開いたままのドアから、やって来た。
「お取り込み中、すみません」
「ああ、石田君、妻の由紀だ。一緒に話そう」
手招きして応接椅子を進めた。由紀は着替え袋を両手に持って来ていた。
「実は由紀には、秩父宮様のお妃である勢津子様を津軽半島の津軽宮田駅まで迎えに行って欲しいのだが、どうかな」
「ええっ、詳しくご説明下さい」
戸惑う由紀だ。だって夫に着替えを持って来ただけなのだから。
「今、秩父宮様が札幌医科大付属病院に結核で入院されている。初期の結核で心配はないが、入院先まで勢津子妃をご案内する役目を、同じ女性の由紀に頼みたい」
頷いて由紀が答えた。
「分かりました。津軽宮田駅ですね。はい、あなたの着替え。では、行って来ます。あ、私の服装はこれで良いですか」
ピンクのセーターにデニムのジーンズ、腰下までの長い茶色のダウンコートを羽織っている。
「いいんじゃないの。軍資金はあるかい。それから道警の殿畑さんと調整して、SPを付けてもらって」
由紀は「分かったわ。じゃあね」と、しゃきっとして出て行った。流石は政治家の妻だ。
「では、防災対策総合本部へ行こう」
原田は同じ三階のテレビ会議室に向かった。ここは石田の戦場である。
石田に続いて部屋に入ると原田は敬礼した。各人が直立する。道警、消防、海保、陸自、海自、空自の責任者が集まっていた。
「ボイジャー・オブ・ザ・シーズの代表者と話したい」
原田が要求すると、しばらくして無線回線が繋がった。船長が英語で出たが、
「横浜行きは乗客の要求なので仕方がない」
と歯切れが悪い感じだ。シージャック寸前だったのか。
「日本人乗客は暴動など起こさないだろう。どうして無理をしたのだ」
原田が、たしなめると、
「違う。乗客のリーダーは米国人のトーマス・グリーンだ」
船長は苦々しく答えた。
「グリーンと話せるか」
「はい、このブリッジに居ます」
なぜ乗客が、やはり反乱が起きたのか。
「こちらトーマス・グリーン。知事が何の用かね」
「過去世界は危険です。北海道に戻って下さい」
原田もクールな英語で応じる。
「我々が生きているのは過去でも未来でもない、今だ。北海道に戻っても、期待するところはない。私は家に帰る。他の乗客も同じだ」
熱くて堂々としたものだ。一体何者であろうかと疑問に思った。
「グリーンさん、あなたは何者ですか」
「私はドイツ系アメリカ人で、クルーザーメーカー『ブルームーン』の社長だ。五十歳だから、もう一旗揚げるには今しかないのだ。今度の家族旅行が、北海道で良かった。外の世界は九十年も退化したのだろう。これも神のご加護さ」
時空転移を前向きに捉えているらしい。
「周りの日本人も同じ考えですか」
「ああ、家に帰りたいと嘆いていたさ。そこで私は帰ろうと提案した。さあ、通信はこれで終わりだ。私たちは家に帰るだけさ」
なかなかの豪気で、声は自身に満ちていた。本当に一旗揚げる気らしい。
「危険は見過ごせないが、無理強いは出来ない。よかろう。幸運を」
「知事よ。この時代のファシズムに染まるなよ。さようなら」
ここで通信は切れた。トーマス・グリーンか。彼は何かやりそうだと、原田は心にその名を刻んだ。