2の1 北海道宣言
昨日の九月十一日は大変な一日であった。
知事の原田は熱い風呂に入った後、深夜のホテルでノートパソコンを使い「北海道宣言」の素案を描いた。
何もせずに大日本帝国に飲み込まれてしまうと、北海道の秩序が壊れてしまう。
戦前の軍国主義がやって来た場合の一般市民の混乱は計り知れないもので、ここは先手を打って対処するしかない。
地方局のテレビでは、閃光と地震、津波の直後からの異常気象について何度も放送していた。さらに通信障害は大規模なテロではないかとも邪推していた。
時空転移の事実はまだ広がっていないが、これも時間の問題であり、無対策で事実を知れば一斉にパニックになるだろう。
束の間、自宅へと電話する。妻の由紀が心配だった。結婚三十年以上の連れ合いだ。
「俺だ。テレビで見たと思うが災害対策で飛び回っていた」
「大変でしたね。昨日はどちらに泊まったのですか」
「いつもの道庁脇の(ホテル)ポールスター(札幌)だ。深夜の四時に帰宅しては、君も迷惑だろう」
「迷惑なんて在りませんわ。急に寒くなったので冬物のお着替えを届けましょうか」
「頼む。知事室に置いておいてくれ」
「この異常気象で、伸一もぼやいていました。稲の収穫の真っ最中のようです」
一人息子の伸一はJA(農協)北海道の経理係である。
そうだ。稲の収穫期は九月だった。霜が降りると枯れてしまう。こりゃ大変だ。農家は一気に刈り取らねばならない。
「お米は大事だからな、今日は全力で働けと言っといてくれ」
「あなた、伸一はもう三十歳ですよ。煩く言わなくても」
「ああそうだな。俺も仕事には口出ししてほしくないや、ははっ」
一呼吸置いて返事があった。政治家の妻だ。不満もあるだろうが、理解してくれている。
「じゃあ今日も頑張ってね、あなた」
「ああ、じゃあまたな」
陽気に電話を切った。昔から愛妻に元気をもらっている。知事の重圧に耐えられているのも家族のお陰だ。
さて今日は正念場だ。頑張るぞと気合いを入れた。
忙しさと緊張で原田は夕食も夜食も食べられなかった。ウエストが若干細くなった感じで、寝不足から軽くめまいもする。
何か食べなければと、早朝六時のコンビニで弁当とコーヒーを買って道庁に向かった。
登庁した原田は三人の副知事(片桐一郎、相川修治、塩沢文彦)と石田危機管理監を電話で呼び出す。七時に知事室で五人のトップ会談を予定した。
三人の副知事は札幌市内の自宅から急いで出勤して来るだろう。
石田は道庁で徹夜指揮を取っていた。
待ち時間に原田は、今日の公式会見で述べる「北海道宣言」について加筆した。
公設秘書の北さんにも電話をする。
「原田です。宮様のご加減は如何でしょうか」
「先生、ご安心下さい。点滴治療でお咳は良くなって来ました。今日は検査です」
「引き続きお世話をお願いします。治療費は自分が払いますので、あとで請求して下さい。それから見て頂きたい文書があります。演説の下書きです。メールしますから」
「分りました」
原田は北さんにメールを送ると、五分後に訂正されたメールが返って来た。さすがに仕事が速い。修正版を五枚ほどプリントしておく。
そうこうする間にも副知事三人と石田氏が入室して来た。資料を配って、昨夜の一件を説明した。
「昨晩、秩父宮様とお会いし、お咳が酷いので病院にお連れしました。青森は一九三六年の別世界です。おそらく北海道と津軽半島、下北半島以外は一九三六年で間違いないでしょう。陸軍将兵もこの目で見て来ました。これは現実です」
まったく不思議な世界である。意識の共有という点で、五人は歩みを揃えねばならない。その上で記者会見の要点を三分で短く説明した。
三人の副知事は元道庁職員だった。秀才なのだが官僚的である。
「時間は未来にしか進まないという学説ですが、現実には過去へ来ていますし、平行世界でしょうか」
「よく解かりませんが、今が非常事態なのは判りました」
「我々は政治家です。学説だけに頼らず、現実の問題を調整しなければならない」
ここは原田が主導する。そうでなければ決着がつかないであろう。
「青森県は津軽宮田駅から先が消えました。私は北海道治安維持の職務に戻ります」
石田は知事室と同じ三階フロアの危機管理監室に戻って行った。かなり疲れているのか、控え目な発言と強い意思であった。全道にも及ぶ地震と津波、本土との通信障害の対策で忙しかったのだろう。救援物資は足りたのか、不足だという報告はない。どこかしこから融通を利かせて持ってくる力量は、副知事たち以上である。
原田は三人の副知事にそれぞれ、議会、財界、青森県の津軽半島と下北半島への根回しを依頼した。
三人の退出後、知事室の室長に決心を持って命じる。
「九時からの知事記者会見をセッティングしてくれ」
そして定刻九時に原田は演壇に上った。TVカメラが並び、フラッシュが瞬く。
「北海道宣言
昨日、北海道と青森県の北部は九十年の時間をさかのぼりました。
我々には生命の安全および自由と幸福を求める権利があります。
そこで今いる世界においても、日本国憲法と現行秩序を維持します。
国家元首は天皇陛下、主権は北海道民のもとに、立法は北海道議会、司法は札幌高等裁判所、行政は北海道知事が代行いたします。
暦は昨日の時空転移日二〇二六年九月十一日を一九三六年二月二十日として、旧世界のものに統一し、従来の年月にはタイムスリップ前を意味する『前』を頭に付けます。例えば、前一九八〇年一月一日生まれのようにします。
日本銀行札幌支店の下に造幣局を設置して、通貨単位を円から『道円』にします。
為替レートは十年間、正確には一九四六年一月一日午前零時まで『大日本帝国の一円』を『二〇〇〇道円』に固定します。
さらに北海道庁を改革します。危機管理監を副知事級として自衛隊を管理運営します。 知事室長を副知事級とします。国際室長を副知事級で新設します。教育長を副知事級として大学改編を行います。
エネルギー政策については、石炭と天然ガスは自給できます。
ガソリンや石油に関しては、原油換算の年間消費量一〇八七万トン、原油備蓄は一三二六万トンですので、一年分しか持ちません。可及的速やかに輸入の方法を検討します。
電力需要は平均四四三万キロワットでしたが、火力、水力、地熱、風力、泊原発と東通原発もフル稼働すると一一六〇万キロワットまで発電できます。
石油節約のためにも原発を活用し、各ご家庭においても冬の暖房にエアコンやコタツの利用を推奨し、電気代の補助も行います。
繰り返しますが今日は一九三六年二月二十一日の金曜日です。
農家の皆さんは、収穫を急いで下さい。
時空の彼方にご家族や友人、愛する人と離れ離れになった人も多いでしょう。それでも我々は生きています。どうか明日への希望の灯を消さないで下さい。
以上、北海道知事 原田一樹」
再びフラッシュが瞬いた後、記者会見は質問の嵐となった。
「では、あなた」
原田はペンで、前列の記者を指名した。
「何で九十年も昔にタイムスリップしたのですか」
「詳しい事は解りませんので専門家に任せますが、過去に行けないとする物理学が正しければ、自分たちは九十年も昔に居るのですから平行世界に時空転移したのでしょう。つまりは、自分たちがタイムスリップした時点から世界は分岐しています。あくまでも推測の域ですが」
「それでは何でタイムスリップしたのか、質問に答えていません」
同じ記者が食いついて来た。科学に強いのか、それとも責任追及をしたいのか。
「地震と津波の前に空が光ったのを覚えています。超新星爆発だそうです。詳しい事は専門家に任せます」
「何も解からないのですね。先ほど総理の代行だと宣言しましたが、どう責任を取るのですか。そもそも歴史を変えていいのですか」
この記者は左翼か、あるいは論破したいだけなのであろう。
「選挙で選ばれた首長として、道民の生活と安全を守ります。そのためには皆様ひとり一人のご協力が必要です。知恵とお力をお貸し下さい。歴史を変えるなと言っても、何もしなければ飢えと寒さで大勢が死んでしまいます。さらに今は戦争の時代です。自分たちは生きていますし、これからも生きて行かねばなりません。積極的に世界と向き合う覚悟であります。他の方は」
原田は、手を挙げた別の記者を指名する。
「石油をこの世界のどこから調達するのですか」
「北海道と大日本帝国は石油の取り合いになるでしょう。政治的に協力して油田開発をして行きたいものです」
「以上で、お時間です」
知事室秘書の司会者が割って入った。
ゆっくりと退出する原田は、使命感で全身が燃えていた。