1の1 転移の日
「皆さーん、北海道へようこそ」
原田一樹知事は室蘭の大桟橋で、市民音楽サークルと一緒に観光客を出迎えた。
管弦楽の華やかな音色が響き、横浜発一三万七〇〇〇トンの超巨大豪華客船「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」から乗客が下りてくる。秋の日本周遊クルーズには、お爺ちゃんお婆ちゃんから子供連れの若夫婦まで、二〇〇〇人以上が参加していた。
九月は日差しも温かく、空気も澄んでいて丁度いい。
「北海道知事の原田です。秋の北海道には山の幸や海の幸がいっぱいです。ぜひ、北海道を楽しんで行って下さい」
観光PRの仕事なので、原田は通常よりも愛想よく振舞うようにした。
「先生、そろそろ次のご予定が」
秘書の北さんがそっと声を掛けて来た。公設秘書の北畠浩司は、最も信頼出来る相棒だ。分刻みのスケジュール管理や気難しい人間関係の調整も、三つ年上の北さんに任せておけば安心していられる。
「分かりました。それでは皆さーん、北海道をたっぷりとお楽しみ下さい」
大きく手を振ってから、SP(要人警護の警察官)を引き連れて人混みを離れた。
黒塗りの公用車は、港のすぐ先に止めてある。
「あれっ、おやおや」
天空が妙に白く輝いている。まるで二つ目の太陽が薄雲の上にあるようだ。
何気なく原田が上空を仰ぎ見た時、天の一点が強烈にフラッシュした。
「うわっ、まっ、眩しい」
咄嗟に腕で顔を覆ったが、視界がまぶたの裏の赤色に染まってしまった。
「大丈夫ですか、先生」
顔を伏せた原田の背中に、北さんが優しく手を添えて心配してくれた。
「いま強烈に光ったぞ、北さんは見なかったのか。物凄いレーザー光線のようだった」
原田は薄眼を開けて手をかざし、指の隙間から空を仰いだが、そこには何も無かった。目の奥には今の強烈な光が残っている。
「そうですね。カメラのフラッシュを一斉に焚いたように周りが明るくなりました」
「そうだろう。皆に異常はないか」
目を凝らして周囲をうかがうと、ざわざわと騒ぎが起きているようだ。
「先生は道政のトップですから、まずは落ち着いて下さい」
北さんに注意されて、自分の立場を思い出す。たとえ目が見えなくても自分は知事だ。
「分かった。取り乱して済まない」
冷静になろうと腕時計を見ると目がかすんだ。視界の中心がまだ光っている。
「北さん、今何時だ」
「はい、四時ちょうどです」
北さんが腕時計を見た瞬間、膝が抜けるように大地が揺れた。地震である。
自分は知事だ。この仕事の使命は、道民の生活を守ること。それこそ安全第一である。
「地震です。津波に注意して、高台に避難して下さい」
立ち直った原田は、周囲の人々に避難を呼びかけた。
慌てた様子の人々。観光客は、知らない土地での災難である。
原田の傍らでは北さんが、各方面に緊急電話を入れてくれている。
人々の悲鳴と騒ぎの中、大音量でサイレンが流れた。
「こちら防災無線です。津波の危険が迫っています。大至急、海岸線から離れて高台に避難して下さい。繰り返します。こちら防災無線です……」
ここぞと原田は自慢の大声を活かして、観光客や住民を先導する。
「さあ、みんな走って。何よりも命が大事だぞ。お婆ちゃん大丈夫か。じゃあ、俺の背中に乗って」
露店で干物売りをしていたお婆ちゃんを背負って駆ける。
「私ゃあ、八十年も生きとりますが、こんなに大きい地震は、生まれて初めてです」
「大丈夫だよ、お婆ちゃん、それっ」
原田たちは、夢中で坂を二〇〇メートルも駆け上がった。さすがに若くないので、息が切れ、汗も吹き出た。もう五十七歳か。いや、なにくそ、まだまだ、行け行け、走れ走れ。
駆け抜けた原田は、もう大丈夫だと丘の上で足を止めた。
深呼吸して、人々が安心するように、ゆっくりと大きな声で誘導する。
「みんな落ち着いて、ここなら大丈夫だ」
地震発生から五分ほどで高台に上った。原田たちにとって、海に映る遠い夕日は、キラキラと眩しく何やら懐かしさを感じた。背中のお婆ちゃんをそっと降ろす。
「知事さん、ありがとうございます」
お婆ちゃんが恐縮して頭を下げた。なに、困ったときはお互いさま。
「いいんだよ。気にしないで。なあ、北さん」
息を弾ませながら原田は、側にいる北さんに話しかけた。
「はい、原田先生のお陰です。迅速な避難誘導、有難うございます」
北さんは、周囲を意識した返事をした。いまさら選挙活動ではないだろう。いや、観光PRは政治活動の一貫であったが、忘れていた。
無事を祝ってパラパラと拍手が起こり、周囲に波のように広がって行った。
近くには三〇〇人くらいが集まっていて、原田が夢中で行ったリーダーシップにより、大きな混乱を防ぐことが出来た。
感激したのか、お婆ちゃんも涙を拭いていた。
「あれは何、津波じゃないの」
ご婦人の誰かが叫ぶと一斉に悲鳴が上がった。見ると沖のかなたから一本の津波の帯がじわじわと寄せて来る。謎の光に加えて、地震と津波。これは天変地異である。
「先生、電話が混んでいて札幌管区気象台に繋がりません」
あの北さんでさえも困っている。周囲の手前、原田は動揺出来ない。そこでキリリと歯を食いしばって不動の姿勢を執り、心で「よし」と短く唱えた。
「知事の権限において海岸線にある全市町村に津波避難指示を出します」
その様子を新聞やテレビのカメラが撮影した。
あらためてサイレンが鳴ると、津波への不安が高まった。
「了解しました、伝えます。テレビ中継もあり、サイレンも鳴っていますので、皆が無事に逃げてくれると思います」
北さんの電話とともに、津波は白波の稜線がクッキリと見えて、そのまま襲って来た。もりもりと海水面が上昇する。
さあどうなるかと人々が息を飲む中、陸地に波が到達した。
近年整備した防潮堤のお陰で、浸水するも家屋などが流された様子は見られなかった。
「防潮堤が津波を防ぎました。大丈夫です」
北さんが、安堵の声を上げた。
おおっ、と歓声が広がる。
「何とかなったか」
原田が束の間、放心していると、北さんがハッパをかける。
「先生、急いで道庁へ」
「よし。では皆さん、私は急ぎ道庁に戻って災害対策の指揮を取ります」
「頼んだぞ、知事。頑張って」
年配者の応援や拍手をもらって原田は近くに止めてある車に向かった。
そして原田と北畠は、黒塗りの公用車に収まった。電話で各方面からの報告を聞く。全道で震度五弱、五強、六弱の強震および烈震、津波は室蘭で一メートルだった。ただし北海道の北も南も全海岸線で観測されているという。原田は道庁のある札幌へと急いだ。
車内から危機管理監の石田京ノ介に電話する。
「石田君、知事の原田です。札幌も光りましたか。ああ、そう。同じですね。早速ですが津波一メートルに対して函館、苫小牧、小樽、釧路の沿岸四都市に災害救助を出して下さい。防衛省および自衛隊には知事からの要請だと伝えて下さい。それから海上保安庁には海上救出を頼んで下さい。あと、今度の揺れで泊原発は大丈夫でしたか」
東大卒で元警察庁長官付き官房参事官だった石田を原田はヘッドハンティングして来た。緊急かつ雑多な事例を瞬時に判断できる石田に、原田は期待している。
「はい、泊原発は無事に停止して異常ありません。あの光は超新星爆発で、かつてない規模の宇宙線が降り注いだようです」
電話口の声は冷静だった。
「他に問題点は在りますか」
「道内は無事ですが、内地(本州)および海外への通信が全面ストップしました。GPS(全地球測位システム)も使えません。ただいま確認中です」
「そうですか。すぐ戻りますので、対策を考えて下さい」
大変な何かが起きつつある。いや、もう起きてしまった。原田は自分の対応が、道民の生死に係わるものだと直感した。
電話を切ると、すぐに鳴った。
車中では、細切れだが重要な情報が、数多くの苦情と共に入って来た。不幸中の幸いにして、津波は床下浸水だけで喰い止まったようだ。各方面をなだめたり、叱ったりしながら、移動する知事室として公用車は北へ走った。
二時間後、原田は札幌にある道庁に到着した。
「知事、一大事です」
車が横付けされた正面玄関では、知事秘書室の面々がライトに照らされた白い顔で出迎えてくれた。時刻は六時二十分、秋なのに驚く程冷える夜だ。息は白く、氷点下の真冬並みに寒い。電話で報告は受けていた。
「判っている。まず石田危機管理監に会おう。細かい話はその後だ」
「はい。では、ご案内致します」
「ああ、頼む。はっ、はくしょん」
寒さに思わずくしゃみが一つ出た。
原田は防災対策総合本部のある道庁三階のテレビ会議室に入った。暖房と人の熱気でむあっとする。
緊迫した会議室で石田は、中央に置かれたホワイトボードの前に立っていた。
周りには警察、消防、海上保安庁、陸上自衛隊の制服が見て取れる。各自いろいろな情報端末で命令を伝えていた。
「皆さん御苦労様です。石田君、状況は」
質問しながら、警察官や自衛官らの敬礼には答礼し、空いている席に着いた。
「知事、大事件です。道内にUターン着陸した航空機の報告から、北海道以外のレーダー及びビーコンがすべて焼失、青森のビル群も幅二〇キロの帯状に消えました。人工衛星も全ロストしています。ただ今、警察と自衛隊が情報探索しております」
周囲の電話声が煩い。情報が錯綜しているようだ。
「青森の消失とは何だ。地震や津波の影響か」
「いいえ。漂流物も残骸ガレキも有りません」
「取り敢えず我々は北海道庁だ。青森県は向うの警察に任せよう」
知事の原田には、たくさんの決裁事項が控えていた。職員の話を順番に聞いていると、警官が飛んで来て話に割って入った。
「一一〇番通報が入りました。海上自衛官からの通報で、青森港に秩父宮様がお越しになっております。さらに現在は、一九三六年の二月二十日であるそうです」
「ええっ」
会議室に衝撃が走った。二月二十日、それも九十年も昔のことである。現在は秩父宮家が断絶してから二十年以上経っている。昭和天皇の弟君だ。
「もし本当に今が二月ならば、札幌の外気温は何度だ」
原田が叫ぶと誰かから瞬時に返答がある。
「現在マイナス三度です」
「ラジオはどうなっている」
「北海道のみで、内地からは放送停止中です。無線も今は在りません」
専門家ではないので判らないが、原田の政治的な直感は、青森の事件こそが最重要だと言っていた。
「俺が行く。すぐにヘリで青森へ飛ぼう」
「知事は首長です。警察か自衛隊に任せましょう」
石田が強く引き止めた。
「これは政治的にも最重要な問題である。トップ会談で今後の危機を回避出来たら良いだろうし。石田君、後を頼んだよ」
「はい」
原田は喧騒の防災対策本郡から知事室へと移り、スーツから防災着に着替えて、冬用のコートを引っ張り出した。
「知事、道警の屋上からヘリで向います」
いつものSP(要人警護の警察官)が言う。
「有難う。北さんも一緒に行こう」
「はい。有難うございます」
出しゃばらず目立たず傍にいるのが秘書の北さんだ。もう一着のコートを貸してやる。
「護衛を増やします」
そう言ってSPがドアを開けると、小銃で武装した警察官のSAT(特殊急襲部隊)が待機していた。
「じゃあ頼みます。気を引き締めて、さあ行こう」
三階から二〇名近くが一気に階段を降りた。危機的状況にエレベーターを使わないのは原田なりの用心だ。
玄関から外は震えるほどに寒かった。なにせ秋の九月から真冬の二月になってしまったのだから。
道庁本館から道路を隔てて斜向かいの北海道警察本庁舎へ入った。高層ビルなので、さすがにここは時間を優先して、エレベーターで屋上に上がった。
「知事、道警本部長の殿畑です。秩父宮様の話は聞きました。お気をつけて」
良く知った殿畑さんだ。声が大きいのは、屋上にヘリを待機させてエンジンを回していたからだ。
「ヘリを有難う。行って来ます」
道警ヘリの「だいせつ一号」に原田と北畠、SP二名、SAT八名が乗り込んだ。
「青森市までは巡航一時間ですが、もっと飛ばしましょうか」
副操縦士の問いに原田は応える。
「大至急で頼みます」
「了解しました。現地着は二十時前後になります」
エンジンが金属的な高音となり、バタバタと羽音を出して、ヘリは夜空に上がった。
夜景まばゆい札幌から南へと進んだ。郊外の大地は暗くて、まばらに車の明かりが見て取れた。
「北さん、俺はキツネに騙されてないか。大丈夫だろうか」
騒音の為に自然と大声で不安を口にした。
「先生の判断は正しいです。ただし、首長で最前線に行くのは、元自衛官だった先生しかおりませんが。はっはっは」
「青森県も、昔の時代も、管轄外なのにな。はははっ」
原田も笑顔で応じた。それは同乗している北海道警察官も同じであろう。困ったリーダーに付き合わせてしまって申し訳ない。
「実は先生、ここだけの話ですが、二・二六事件が起こります」
「う~ん、二月二十六日の軍事クーデターか」
大変な時代に来てしまった。自分も数分後には血を見るかも知れない。
「先生も用心して下さい」
「まあ、今は東京より北海道だ。それこそが知事の仕事だろ」
覚悟を決めるしかない。沈黙が流れると副操縦士が質問して来た。
「まもなく青森市街地ですが、建物も何も在りません。どうしますか」
原田たちはまな板の鯉だ。空ではどうしようもない。
「何かしら海自さんの誘導がある筈です。お任せします」
「了解。ああ、ライトが点きました」
操縦士たちの安心した声だ。焚き火にて丸く外周が照らされ、ライトの点滅がヘリコプターへと向けられていた。
それから低空らしき所を一分くらいホバーリングして着陸した。