13の1 F参謀の伝説
山本五十六航空総長は、以前から空軍の諜報機関を総動員して米英仏独への外交チャンネルを築いていたのだが、英仏からの急な宣戦布告には対処出来なかった。
いざ戦うと決まれば、軍人だ。山本に迷いはない。
九月三日開戦からの翌朝、英領「香港」に対して台湾からの空爆を命じた。
片道が六四〇キロだからターボプロップ機の「疾風」や「流星」と「キ83」や「銀河」ならば、十分に使える距離だ。
その中で、航続に余裕を持たせた双発戦闘機の「キ83」(乗員二名)と双発攻撃機の「銀河」(乗員三名)を戦爆混合で一〇〇機。これを三波、合計で三〇〇機を使用することにした。
第二航空軍司令官の菅原道大中将は陣容を決めた。
総隊長は加藤建夫中佐(三十六歳)、第二波飛行隊長は島田健二大尉(二十九歳)、第三波飛行隊長は若松幸禧大尉(二十八歳)である。
情報参謀が、飛行前の打ち合わせで香港の状況を説明する。
「現在の香港には、戦艦も空母も入港しておりません。香港総督のサー・ジョフリー・アレクサンダー・スタフォード・ノースコート、長い名前なので『総督』としますが、総督をトップにして香港歩兵旅団、カナダ旅団、ロイヤル砲兵隊、その他義勇兵、あわせて一万二〇〇〇名が守備しています」
そこで加藤総隊長は攻撃目標を訓示する。
「攻撃目標は九龍半島の飛行場と香港島要塞の貯水ダム七ヶ所だ。余力で各所の砲台と総督府を破壊する。小さな島に一万強の兵が立て籠もれば地上戦での防御密度は高いであろう。そこで我ら空軍による三次元攻撃を思い知らせてやろう。空からの兵糧攻めだ」
「はい」
勢揃いした航空兵たちは、元気に応えた。
四日の早朝五時半、亜熱帯の朝もやの中、タービンエンジンの耳に残る高音が台南飛行場に轟いた。第一波の「キ83」と「銀河」が五〇機ずつ準備を整えて、飛び立つところであった。
「香港攻撃隊出発」
加藤総隊長の「キ83」が最先陣を切った。後に続々と部隊機が付いて来る。
「キ83」の最高速度は時速八一二キロ。「銀河」は時速六三九キロである。
したがって、巡航では一時間半であった。
速度を上げて、香港上空には午前七時に到着。
日本軍機一〇〇機の到来に対し、対空砲火はほとんど無かった。奇襲成功である。
「攻撃開始」
加藤総隊長の命令は、北海道の技術で作られた高性能無線機で全機に届いた。
よく見ると迎撃にスピットファイア戦闘機が、短い滑走で離陸して来た。その数は約一〇機と少ない。
「まずは、あいつらを落とせ」
加藤たちの「キ83」五〇機は、上空からの追い越し射撃で、スピットファイアを次々と屠った。
隊長機らしいスピットファイアは俊敏に左右に逃れて粘っていたが、多勢に無勢で、しばらくすると白いパラシュートが開いた。
飛行場や整備工場には、「銀河」が爆弾の雨を降らせた。
通常爆弾に加えて二式クラスター爆弾もあり、さぞや地上では爆発が凄まじいであろう。
一発の二式クラスター爆弾は、空中で小弾子を数千個もばら撒き、大地の八〇メートル四方が一斉にはじけるのだ。歩兵に逃げる場所はない。
十分後に、第二波の一〇〇機も飛来して、「銀河」は魚雷や爆弾で次々と貯水ダムの堤を破壊した。
香港総督府に対して「キ83」が行う地上掃射は絶大な威力であった。
単に双発戦闘機と呼んでいるが、機首に二〇ミリ機関砲二門と三〇ミリ機関砲二門を装備しており、地上襲撃機を兼ねている。
さらに第三波の一〇〇機が到来して、日本空軍の合計三〇〇機はムクドリの大群のごとく香港上空を占拠した。
ターボプロップエンジンは一基二五〇〇馬力も出すのに、重量はたったの二三〇キロしかない。レシプロエンジンよりも、おおよそ六〇〇キロ以上軽いのだ。
「キ83」も「銀河」も双発機だから、単純に一二〇〇キロも機体が軽くなって加速も機動性も格段に良くなった。
爆撃を終えた「銀河」も一二・七ミリ機銃二挺で地上を掃射した。
「よし、引き上げだ」
午前七時半には、加藤総隊長の判断で全機が香港上空から飛び去った。
これで香港島要塞はもう機能しなくなった。水源がないのだ。九龍半島と新界に総督たちは移るであろうが、あとは陸軍に任せよう。
加藤総隊長は、空軍の完全勝利に凱歌を挙げた。
翌九月五日の午前十時、広島の宇品港から輸送船で香港攻略の第八軍(第三八師団名古屋、第五一師団宇都宮)が出港した。
率いるのは本間雅晴陸軍中将で、以前は秩父宮殿下のお附き武官として、北海道にも渡った優秀なイギリス通の軍人だ。
前日の朝に、空軍から香港空爆が成功したという知らせが届いた。
これで英軍は航空機を飛ばせない。戦艦も空母も入港していないし、陸上兵力は散り散りだ。あとは日本軍が粛々と入城すれば、無事に香港は陥落するであろう。
本間中将はそう判断した。
七日に、香港攻略戦は始まった。
本間中将の第八軍は中国の深圳から上陸し、昼には九龍半島北部にある新界の高地を突破して、九龍にいる香港総督たちを包囲した。
まもなく日暮れである。八一ミリ迫撃砲を連続で撃ち込むこと一時間あまり。白旗が上がり、香港総督旗を持つ使者が本間中将の本陣を訪れた。
使者は、香港総督は降伏すると述べ、正式にタイプ・署名した降伏文書を提出した。
本間中将は武人の礼をもって、その降伏文書を受け取った。
一方で九月六日、九州の長崎から輸送船で海南島攻略の第九軍(第三三師団仙台、第五五師団善通寺)が出港した。
率いるのは今村均陸軍中将で、汪兆銘(元中国国民党指導者)を全面的に軍事支援する。
中国国民党は、軍事を担っていた蒋介石が全権を掌握し、行政長官だった汪兆銘は、命からがら海南島に落ち延びて戦っていた。
これを見た日本は、台湾とほぼ同じ面積である海南島での新政権独立を望んだ。
なぜ海南島なのか。それは、この地を取れば中国南部および仏印の大部分をエアカバー出来るからだ。
そこで日本側から汪兆銘に白羽の矢が立った。
八日に海南島攻略の今村中将と第九軍は、南端の三亜に無血上陸した。
東洋のハワイと称される三亜から、東西の二隊に分かれて北端の海口まで一気に進撃する。蒋介石派との小競り合いもあったが、今村中将は穏健な軍政をしいたので、組織的な反乱は起こらず、日本軍はほどなく全島を占領した。
九月十日、汪兆銘(五十六歳)は島の南部の三亜にて「海南共和国」の建国と初代大統領就任を高らかに宣言した。
仏印進軍は九月十一日から始まった。アジア独立のための戦いである。
それまでに空軍の加藤中佐たちが海南島の三亜基地に進出して、仏印から制空権を奪っていた。
北部仏印には第一〇軍(第二師団仙台、第二一師団金沢、第二二師団仙台)が、南部仏印には第一一軍(第三七師団熊本、第四八師団台湾)が進出して、支配地域を広げる。
両軍を指揮するのは阿南惟幾陸軍中将で、越南軍と称した。
もともと仏軍歩兵は少なかったが、ルノー戦車などもあり、市街地で日本は苦戦した。
そこで北海道産の一一〇ミリ個人携帯対戦車榴弾「LAM」が投入されて活躍し、不利な形勢は挽回する。
当初から制空権は完全に日本のものだ。
祖国解放軍として日本が民衆に支持されるようになると、仏軍は後退して行った。
サイゴン郊外にて最後の戦いが行われた。
仏軍は、さぞや日本空軍の空爆に肝を潰したであろう。
小山にある仏軍陣地では、二式クラスター爆弾の連続攻撃で小弾子が一〇〇万発もばら撒かれ、はじけた五〇〇メートル四方が阿鼻叫喚で血と炎の海となった。
「空軍はやり過ぎだ」
阿南軍司令長官は困惑した。これが敵でなくて良かったと思う。
敵兵三〇〇〇のうちで、助かったのは地面にタコ壺を掘って潜っていた兵のうち、十数名のみ。生き残りは武装解除して本国フランスへと帰したのだが、耳を塞ぎ、頭を抱える兵士の震えは、海上に出ても消えなかった。
九月二十六日に「越南国」の独立と、十三代阮保大(グエン・バオダイ・二十七歳)の皇帝復帰が宣言された。
勧善懲悪を進める阿南中将は、民衆からも大いに感謝され、独立祭では少女たちから沢山の花束をもらった。
仏印の消滅は、同盟国タイに大きな安堵をもたらした。
東からフランス、西からイギリスに領土を狙われていたタイ国は、日本軍の進駐について諸手を挙げて大歓迎した。
スイス在住の国王ラーマ八世(アーナンタマヒドゥン王)はまだ十四歳であり、革命後のタイ国内は、中国系三世のプレーク・ピブン・ソンクラーム首相(四十二歳)が全権を掌握している。
ピブン首相は、日本とイギリスが戦って、自国民は血を流さないという漁夫の利を占めたい考えであった。
九月二十八日、タイ国南部のシンゴラに第一二軍(近衛師団、第五師団広島)、英領マレーの東海岸コタバルに第一三軍(第六師団熊本、第四一師団宇都宮)が上陸した。マレー侵攻作戦の開始である。
両軍を指揮するのは山下奉文中将で、マレー軍と称した。参謀長は鈴木宗作中将。
日本陸軍は軽トラック、軽自動車、スクーター、自転車を大量に戦地へ投入した。
シンガポールまで最長七五〇キロもの熱帯を戦いながら走るのだ。
かつて石原莞爾のお供をして北海道を視察していた市川純一郎大尉は、その後、戦車開発にたずさわり、第一二軍の第三戦車団(島田豊作少佐)に加わっていた。
新開発した戦車は、八八ミリ高射砲の砲身を利用した「八八ミリ砲駆逐戦車」で、北海道のいすゞ直四ディーゼル三〇〇〇CC、一五〇馬力エンジンを搭載して重さ一五トン。車高が低く砲塔がないので敵弾からは当たりにくい。
七・六二ミリ機関銃を一挺装備して、乗員四名である。
第三戦車団には、この駆逐戦車が三〇両と歩兵一個大隊(五六〇名)が配備されている。
市川大尉は随伴する第一歩兵中隊長として、駆逐戦車の援護を任務としていた。
第一二軍は、シンゴラから峠を越えてマレー半島の西海岸を南下する。
国境線のジットラで敵は防衛線を敷いて待ち構えていた。弾丸が頬をかすめ、雨音のように周囲に敵弾が飛んで来た。
「敵さんが撃って来たぞ。気を付けろ」
市川大尉は、歩兵に駆逐戦車の陰に隠れるように注意する。じっとしていると南方の密林は湿度が高く、蒸していて額から汗が流れ落ちる。
味方駆逐戦車の機関銃が一斉に前方を薙ぎ払った。
「こっちも応戦だ。撃て」
市川大尉たちも手に持った八九式五・五六ミリ小銃を撃った。弾倉は三〇発入りなので、弾幕は高密だ。小口径弾は人体を突き抜けずに回転して内蔵をかきむしるから、敵方は堪ったものではない。
「こちら戦車団長、駆逐戦車は前進、敵陣を突破せよ」
島田戦車長が前進を命じた。最新式の無線は軽量高性能で、市川大尉たちにも使いやすい無線だ。駆逐戦車は雑木をバリバリと押し退けて進む。太陽光の差し込む広場に出た。
ここが最前線の陣地であったが、無敵の駆逐戦車に驚いた敵兵は、我先にと逃げ出した。
イギリス軍が難攻不落と考えていた「ジットラ線」ではあるが、いかんせん、インド兵の士気は低かった。
情報将校の藤原岩市少佐は、武器を持たずにインド人捕虜の中に入って行って「君たちはインド独立のためにこそ戦うべきだ」と説いて廻った。
この藤原少佐の情熱はインド兵の心を動かした。
特にモハン・シン大尉は立ち上がり、落涙して話した。
「勝利した軍の参謀が捕虜と同じインド料理を同じテーブルで食事するなど、今までの英国インドでは想像も出来なかった。日本の藤原少佐の行動は、人種や民族を越えた友愛の証である。我々は日本を信じよう。そしてインド独立のために立ち上がろう」
割れるような拍手の中、微笑みの藤原少佐は素手でカレーを平らげた。そして空になった皿を持ってモハン・シン大尉の隣に立ち、おどけて見せた。
明るい笑いが巻き起こったのは言うまでもない。
その食事の場でインド兵たちは「インド国民軍」として自らを名付けた。
この「F参謀の伝説」は、数日でマレー半島中に広まった。