考えなしの皇子様 2
「ええと、海図によるとこの岬の周りには岩礁が広がっていますが、ここに小さな漁村がありますよね? この漁村にはマーロの軍船が入れるほど深い港はないでしょうから、村長に協力を要請すれば水や食料を調達できると思います」
「なるほど、ではこの漁村について調べてみましょう。人口、漁船数、水揚げされる魚の種類、納税額なんかは資料が残っていると思いますよ」
「ええ~、リン先生、そこまでしなくちゃダメですか?」
「殿下、知ることを面倒臭がってはダメですよ。それらを知れば、その漁村の人たちはどんな生活を送っていたのか知る手掛かりになります。ひいてはカンバルとマーロ、どちらに味方したいと思ったのかも」
「はあ~、わかりました」
アレックスとリン先生は第二図書室で大判の海図に屈みこみ、小さな船の模型や人型を配置しながら、三十年前のゾディア海戦の再現をしていた。二人がくだんの漁村について調べるべく書架の一角に向かっていると、ノック無しで誰かが図書室に入ってきた。
「アレックス、ここにいたのね」
図書室の入口には、絶世の美女が立っていた。光り輝く金の髪、透き通る白い肌、深い青を湛える瞳。涼し気な顔立ちながらどこか妖艶で、ほっそりした体つきながらどこか官能的。艶やかな絹のドレスはシンプルだが、この女性が着れば天女の着物に生まれ変わる。
女性は優雅な足取りで歩み寄ると、アレックスの目の前に立った。
「アレックス、私と来なさい」
「……皇后陛下」
アレックスは呆然と女性を見上げた。この人は皇帝陛下の現在の妃で、アレックスの実母だ。だがアレックスはこの人を母上と呼ぶのにどうにも抵抗があり、いつも皇后陛下と呼んでいた。
とはいえアレックスは皇后から冷遇されたり、虐められたりしている訳ではない。単に関りが極端に薄いというだけだ。アレックスの頭の教育は家庭教師のリン先生に、体の教育は近衛兵団の軍人たちに、礼儀作法はマナー講師に任されている。日常生活だって女中たちが面倒をみてくれている。実母が出る幕は全くない。皇后とアレックスの唯一の関りは、たまの食事だけだった。
だがこの食事の時間がアレックスには苦痛だった。なにせ会話が続かない。まだ幼い頃はアレックスから会話を試みたことがあった。「こ、皇后陛下のお好きな食べ物はなんですか?」「好き嫌いを語るのは下品なことです」「こ、皇后陛下は普段なにをなさっているのですか?」「国事に関わることです」。
別にアレックスは本気で皇后の食の好みや国の重要機密が知りたかった訳ではない。単に会話がしたかっただけだ。リン先生なら「今のところベリーパイが首位を独走していますねえ」とか「休日は城下を散策して最新の流行を追っていますよ」とか、アレックスのしょうもない質問にも楽しそうに答えてくれる。だが皇后が相手だと質問が空回りする。最近は完全なる沈黙の中でスープをすすり、ごちそうさまと席を立つことが多くなった。
そんな感じであったから、アレックスは実母が苦手だった。その苦手な実母が、わざわざこんな辺鄙な図書室までやってきて、アレックスに話しかけるなんて。
なにも言わないアレックスに、皇后は無表情で同じ言葉を繰り返した。
「アレックス、私と来なさい」
「……」
アレックスがなにも言えずにいると、リン先生が横から声をかけた。
「皇后陛下、お久しゅうございます」
だが皇后はリン先生にはチラとも目を向けずに挨拶を、というかリン先生の存在自体を無視した。ただアレックスだけを見つめて同じことを繰り返す。
「アレックス、私と来なさい」
「皇后陛下、アレックス殿下は授業中です。なにか緊急の御用がおありですか?」
「アレックス、私と来なさい」
「皇后陛下、今は授業中です。御用がおっしゃられないなら、そうおっしゃってください。理由もなしに殿下を連れ出すことは私が許しません」
リン先生は笑っていることが多いが、今や厳しい表情で皇后に無視するなと迫っていた。身分など考えるまでもなく皇后が圧倒的に上。ここは自分が動かなければ。だがアレックスが口を開く前に、皇后がはじめて視線をリン先生に向けた。その美しい瞳は、なぜか憎悪に燃えていた。
「まさか私にあなたの許可を請えと言っているの?」
「私は殿下の教育を任されています、皇帝陛下から」
「私より教育が大事だと?」
「その通りです」
「……クソ女」
「お褒めにあずかり光栄です、皇后陛下」
皇后の罵倒をリン先生はニッコリ笑って受け入れた。アレックスはリン先生の対応より、皇后の様子に驚いていた。アレックスにとって皇后は無機質で感情のない人間だった。それなのにリン先生にはあからさまな嫌悪がむき出しで、汚い言葉すら吐き捨てている。皇后とリン先生が二人でいるところなど見たことなかったが、もしかして旧知の仲なのかもしれない。
リン先生はさきほどより幾分くだけた口調で同じ質問を繰り返した。
「それで、皇后陛下、ご用の向きはなんですか?」
「……」
「皇后陛下、黙っていてはわかりません。私にではなく、せめて殿下には用件を話してくださらないと」
「……」
「皇后陛下、教えてください。私にではなく殿下に、です」
「……」
リン先生が逃げ道を用意すると、皇后陛下はようやく口を開いた。
「……皇帝裁判が開かれるのよ」
「皇帝裁判? それはまた随分久しぶりですねえ。ああ、殿下にそれを見せたいと?」
「……この子、父親を見る機会すらないから」
「なるほど、わかりました。殿下、授業は中断して、裁判を傍聴しませんか?」
「え、あ、はい」
「そうと決まれば、殿下、まずは汗臭い服を着替えましょうか。いちおう厳粛な裁判ですからね、法廷には敬意を表しないと。皇后陛下、殿下の着替えに付き合いますか?」
「……私は結構」
「わかりました。ではのちほど」
皇后はリン先生をギロリと睨みつけ、アレックスには複雑な視線を寄越すと、優雅な足取りで図書室を出て行った。
扉が閉まり、アレックスはふうと息をついた。
「あの、リン先生、質問がたくさんあります」
「はい、なにからでもどうぞ?」
「リン先生と皇后陛下は、もしかして友達なのですか?」
「友達、ですか。そう言われたのは初めてですねえ。どうしてそう思われたのです?」
「皇后陛下のあんなご様子は初めて見ました」
「殿下、皇后陛下は可愛らしい方なんですよ」
「可愛らしい、ですか。お美しい方だとは思いますが」
「うふふ、皇后陛下は私のマネをなさっているのです」
「はあ!?」
予想外の言葉にアレックスは敬語を忘れて素っ頓狂な声をあげた。皇后がリン先生のマネ!? 二人に共通するのは性別くらいなのに!? こう言っちゃなんだが、リン先生の見た目や言動は完璧に普通のオバチャンだ。遥か遠い東の国の出身らしく、顔立ちは平板で、小さな目に低い鼻、肌は薄い黄色に髪は真っ黒。服装だっていつも質素な毛織のドレスだし。
驚きから立ち直ったアレックスは呆れて言った。
「リン先生、嘘ならもうちょっとマシなヤツを頼みます」
「嘘じゃありませんよ。まあ私が勝手にそう思っているだけですけど」
「ああ、中年女性の哀しき妄想ですか」
「あら失礼な。殿下、見た目ではなく中身ですよ」
「中身? でも中身も全然違っていますけど」
「殿下、皇后陛下は賢ぶっていらっしゃるのですよ。ほら、私は賢そうに見えるでしょう? 遠い国から来た賢者というのが私のイメージ戦略ですからね」
「ええ~? 見えるかどうかのコメントは控えますけど、まあ、リン先生は賢い方だと思いますよ」
「皇后陛下は皇帝陛下の命により殿下の養育から外されたのです。その能力が無いと判断されて」
「え?」
初めて聞かされた話に、アレックスは間抜けに返した。たしかに皇后陛下と関わることはほぼ皆無だったが、それが皇帝陛下の命だったとは。
驚きにポカンとしているアレックスに、リン先生は憐れみか同情かが滲んだ声で問いかけた。
「殿下、想像してみてください。お腹を痛めて産んだのに、その子の教育に悪いから関わるなと言われた母親の気持ちを」
「……」
「だから皇后陛下は自分を賢くみせるのに必死なんですよ。下手に喋るとボロがでるから口数を抑えて、さも国の重要事項に関わっているかのように匂わせて、美しくも賢い皇后として見られたがっている。そうすれば殿下に関わる許可が出るかもと期待して」
「……」
「皇后陛下は私のことが大っ嫌いです。私は皇帝陛下から殿下の教育を任されましたからね。でも大っ嫌いな私のことを、無理をしてまで真似ておられる、殿下のために」
「……」
思いもよらない話に、アレックスは考えた。冷たくて、ぶっきらぼうで、なにを考えているのかわからなかった皇后。でも今のリン先生の話が本当だとすると、我が母ながら、なんというか、かなりアホな気がする。そりゃ皇帝陛下からおまえは関わるなと言われてしまうのも当然。まあでも、リン先生の言う通り、可愛らしい人なのかもしれない。
アレックスは苦笑するとダメ元で尋ねてみた。
「リン先生、皇后陛下はなにをお好きかご存じですか? もしくは普段なにをなさっているかとか」
「おしゃれが大好きでいらっしゃいますよ。でも皇帝陛下がケチでいらっしゃるから、普段はお手持ちのドレスや宝石のファッションショーで我慢なさっています。あ、あと最近はチョコレートに夢中だそうです。殿下はチョコレートをご存じですか? 最近カステア国から輸入されているお菓子だそうで、甘くてとっても美味しいらしいですよ?」
「本当にご存じとは思いませんでした……」
「うふふ、実は皇后陛下の侍女の中に私のスパイがいるのです」
「そうですか……。まあ今度、僕から皇后陛下に話しかけてみます」
アレックスからの歩み寄りに、リン先生はニッコリ笑った。
「では次の休日は城下にチョコレートを買いに行かれてはどうです? 皇后陛下へのよい手土産になりますよ?」
「そうですね。リン先生、お付き合いをお願いしても?」
「はい、喜んで」
仲の良い師弟はああだこうだと話しながらアレックスの私室へ向かった。