⑦
何もないと思っていたところに一つでも誇れるものが見つかったとき、人はどうしてこんなにも嬉しくなってしまうのだろう。
その一つだけでこの先も幸せに生きていける力を貰ったような気分になるのだ。
「長官……。花をしまって下さい…。」
アメリアは職場内に吹雪く花を頭に積もらせながら、ほわほわとした視線を向けてくるシュティルへと苦言を呈した。
部署内に舞い散る花達の出所は、先日思いがけず自分を庇って貰えたことが嬉しくて堪らないシュティル・ベイリーの視線から生み出されたものだった。
「…すまない。」
口ではそう言うがシュティル自身何度も目に力を入れてみても数秒で抑えられない感情がその視線から溢れ出してしまうのだ。
「まーまー!雨が降ってるわけじゃないし、いいってことにしようよ。それよりもこれ集めて何かにできないかな…。」
明るく笑い飛ばすアメリアの隣の席の同僚はシュティルから生み出された花を片手にぶつぶつと何やら思案していた。
「……。」
そんな同僚をジト目で見るアメリア。
部署内はシュティルが赴任した時と比べると随分と和やかな雰囲気になっていた。いつかの緊張と恐怖で体調を崩す職員が出るほどの職場とは今では思えないほどに。
それほどまでに平和だった。
恐がらずに挨拶してくれる職員。
気さくに話しかけてくれる部下。
そして目が合えば笑いかけてくれる友人。
それにあれ以来シュティルは驚くことに父から苦言を強いられることがほぼ無くなり、むしろ労いの言葉さえかけられるようになったのだ。
シュティルは今までにない幸せを噛み締めていた。
この幸せが長く続くと疑うことなどないほどに。
しかし、シュティルに話があると言って呼び出したアメリアの言葉にシュティルは耳を疑うことになる。
「……辞職…、と、言ったのか?」
アメリアがシュティルの目を真っ直ぐに見て告げた言葉に理解が追いつかないシュティルは確かめるように繰り返した。どうか聞き違いであってくれと願って聞いた返答はシュティルの思いとは違うものであった。
「はい。今年度いっぱいでここを去ります。今まで本当にありがとうございました。」
深々と礼をするアメリアにシュティルは言葉が出なかった。何か嫌なことがあったのか?仕事に嫌気がさしたのか?それとも自分自身が煩かったのか?あらゆる原因を考えるが、上官として部下の選択を邪魔することはできない。
だけど理由だけは知りたくてシュティルはアメリアへ問う。
「……理由を聞いてもいいか?」
シュティルの言葉に今度はアメリアが押し黙った。数秒の重たい沈黙の末、アメリアが口を開く。
「………結婚…、するんです。…この春この地を離れて別の領地に行くんです。」
それはあり得ないことではなかった。
むしろアメリアの年齢的には遅い方でもあった。
「そうか…。新天地での多幸を祈っている。」
シュティルが最大限言えた言葉はたったそれだけだった。
「はい…。でも、まだ後少しあるのでそれまではよろしいお願いしますね。」
まるで寂しい空気を吹き飛ばすように明るく笑うアメリアを見て、彼女がいる残り少ない時間を大切にしよう。そう心に決めてシュティルもまたアメリアに笑い返した。
幸せな時間というものはあっという間に過ぎ去るもので、ついにアメリアの退職日となった。
この日の仕事終わり、アメリアの部署の職員全員が盛大に祝いアメリアを送り出した。
終始笑顔が絶えず、楽しい時間。
冗談を言って場を盛り上げる同僚。
それに笑う職員。
そんなみんなを見て満足そうに花を降らせるシュティル。
アメリアにとってこの時間はかけがいのないものだった。
この部署の一員になれてよかった。
隣の同僚が面白い人でよかった。
シュティルが長官として来てくれてよかった。
そんな思いが胸いっぱいに広がって、アメリアは最後の日に、初めて泣きながら笑った。
「姉さんっ!姉さんっ!!」
ハッとして飛び起きると目の前には弟のレイリーが心配そうに覗き込んでいた。
「姉さん…、大丈夫?寝ながら泣いてたよ。」
自分の身を案じてくれるレイリーにアメリアは心配させまいと陽気に振る舞う。
「大丈夫よっ。あなたの姉は強いんだから!心配御無用っ!それより今日は新しい農作物の品評会でしょ?そっちのことだけ考えてなさい。」
あれから約一年。
私とレイリーは元々の家であるバーレンス邸に住んでいた。
レイリーが学院を卒業して戻って来た時、私の結婚のことを知ったレイリーは私達の家を取り仕切っていた縁戚に猛反対し、結婚を反故にした。もちろんこれには縁戚もブライム子爵も怒り狂っていたが、縁戚が長く行っていた収入や納税等の不正やブライム子爵が別名義で営んでいた違法売買を露見させたことにより事態は急変。縁戚もブライム子爵もお役御免となり、家から出ており、全くこの件に関わっていなかった私とレイリーは不問とされ、バーレンス男爵家は元の姿を取り戻したのだった。
縁戚が言っていた借金というのも縁戚が賭博で作ったもので、バーレンス家とは一切関係のないものと調査でわかり、レイリーの学費も縁戚が払っていたものではなく、もともとバーレンス家の資産から出されていたものとして処理された。
そして驚くべきことに縁戚を名乗ってバーレンス家を乗っ取ろうとした男、実はバーレンス家とは全くと言っていいほど関係がなかったのである。
アメリア達の母親の妹の旦那の妹の弟からバーレンス家の当主が亡くなり子ども達だけが残されてしまったということを聞いたその友人が賭博で作った借金をどうにかするためにこの計画を企てたということがわかったのだ。
アメリア達の父方は兄弟がおらず、親戚が殆ど他界しており、母方の親戚とは母親が結婚した後疎遠になっていたこともあり、アメリア達も母方の親戚のことはあまり知らなかったため、アメリア達の存在を知り縁戚を名乗る男に騙されるはめになったのである。
これにはアメリアもレイリーも唖然として、何故赤の他人をここまで疑いもせずにいたのか、と自分たちの愚かさを悔やんでいた。
そんな怒涛のことが起こったバーレンス家はレイリーを領主として再建することとなり、あの男のおかげでめちゃくちゃになっていた領地経営を安泰にすべく二人して奔走していた。
未だブライム家の人間からは逆恨みされ、邪魔されることはあったが、それでも一年でおおよその黒地経営を保つことができるようになったのは一重にレイリーのお陰である。
アメリアも帳簿付けやら諸々の書類制作等に追われ、昔を思い出す暇もないほど仕事をしていたので、こうして夢に見ることは初めてだった。
退職して一年。
風の噂でシュティルも婚約したという知らせを耳にしたことが夢を見たことの原因だろうとアメリアは思う。
恋ではなかった。
シュティルのことは好きだったが、それは人として尊敬していただけで、恋というには淡すぎた気がしたのだ。
真面目で堅物そうなのに中身はうるさいほどに感情豊かで人を大切にするあの上司が幸せならいいな、とアメリアは自分の執務室で決算書を作りながら、春の到来を知らせる花の蕾を窓から見てそう思った。
嬉しすぎて花を撒き散らせていた人間が降らせていた花びらと同じ花の蕾を。