第一章⑤限界突破
……え? 今のボク達が、見られている?
「あたしはアイドルになれないけど、萌歌は私のアイドルで居て欲しかった。むしろ、本物のアイドルになって欲しいと願った! だから、裏切った挙げ句に惨たらしく許されようとしている……」
泣き崩れる詩織に驚きすぎて言葉すら出なかった。暴力的な衝撃に伴って恐怖や混乱がボクを蝕んでいくのが分かる。
「アイドルを諦めることは考えていた。でも、あたしがアイドルを諦めたら、萌歌との関係も変わる気がして怖かったの! それでも、あたしは萌歌に輝いていて欲しかった。だから、こうした。あたしを変えた『病みクラゲ』に世界そのものを変えてもらいたかったから!」
詩織が顔を上げる。怒っているのか悲しんでいるのか分からない目をしていた。
「だから、あたしが萌歌をアイドルにする。姫を炎上すれば『病みクラゲ』は有名になるはず。今更だけど、お誕生日、おめでとう。最低で最悪なプレゼントだけど大事にしてくれると嬉しいな。……愛してる」
全てを言い切ったとばかりに詩織は立ち上がるとポケットからボクのスマホを出した。コンビニ袋や荷物と一緒に奪い取ったのだろうか。簡単にマナーモードになる機種なので弄られたようだが通知と思われるバイブが続いている。ボクは手を出せなかった。だが、詩織がモニターの画面が着けてしまう。
月宮沙織を隠すように大量の通知が入っていた。裏付けは十分だ。
ボクの脳内が霧に飲まれたかのように言葉が出てこない。互いに貫いてきた理想が壮大に崩れ、音大時代に描いた月兎耳姫を軸にした構想も消えた。一生懸命に守ろうとしてきたものは霧散し、信頼していたことさえ馬鹿らしく感じてしまいそうだ。偶像を押しつけられた重圧が孤独なボクを潰そうとしている。
「あたしのための曲は萌歌があたしを思いながら歌って欲しい」
優しく笑う詩織に「あなたはどうするの?」とボクは問いかける。詩織は無責任にも「さぁ、どうなるかね?」としか言わなかった。 現実を確認するためだろうか、詩織は自身のスマホを最大まで明るくする。大手動画サイトの配信画面だろうか、大量のコメントが流れていく。
「どうすればいいの?」
ボクの呟きに対する答えは用意されていない。だが、黙っているだけではボクの中で答えが出ることもない。
「トイレに行くね」
ボクは声を絞り出すと返答も待たずに逃げ出した。「アイドルだってトイレには行くさ」という答えにボクは扉を閉める。混乱しているはずなのに泣かない自分が逆に怖かった。
「どうすれば一番上手に立ち回れる……?」
答えを知る人なんて居るはずが……。いや、いるかも。ボクは今の状況を一番理解していそうな人に電話をかける。メモをポケットに突っ込んでおいて良かった。
「出てよ……」
ボクの呟きと同時に呼び出しが始まる。そして、長く感じられる数コールの末に不機嫌な声が。
「はい?」と投げやりな挨拶にボクは縋るように言う。
「配信、見てるよね? 最古参のサオキさん」
すると、電話口の女性が「え」と声を上擦らせる。緊張が走る中、女性は興奮気味に尋ねてきた。
「姫の婚約者で『宿命』を作った〈病みクラゲ〉様?」
「肩書きがいっぱいで困るし、今更、猫をかぶっても遅いよ。態度の悪いコンビニ店員さん」
「良かった、ツッコめるだけ冷静さはあるようで」
ボクは苦笑した。こんなに冷静なのは変だよね。衝撃を受け止めきっているのかさえも分からないけど、ボクは衝撃を受けていないかのように動いているんだし。衝撃慣れしている線も捨てがたいけど、ちょっと異常だ。
「どうすれば最善の結果が出る?」
冴木はボクの言葉に「正気の人間でも分からないよ」と苦笑する。だが、ボクは「穏便に事を済ませたいんだ。特に、姫への被害を最小限にしたい」と端的に意思を告げる。強引に答えを出そうとするボクへ冴木は少し悩んだ。ただ、答えが出てくるような確信があった。
「うーん……。なら、時間を稼ごう。結論を迫る姫から逃げて、先延ばしにした末に答えがあるかも」
正しそうな答えにボクは食いついた。
「それだったら、ボクが家を出よう。詩織が自殺しない方策が必要だけど」
ボクの決断を肯定するように、冴木は「彼女の強さを信じて待たせるべきだよ」と答える。今、詩織を傷つけないように足掻けば、逆に悪化しそうだ。ボクが限界になって喧嘩別れとかの流れは最悪だ。
「じゃあ、感情に振り回されたフリをする」
「良いと思う。ついでに、配信を切ったら二度と会わないとか言えば死なないんじゃない? あの子は弱いけど根があるから耐えられるはず」
それ以上の策を練るのは無茶というものだろう。
「ありがとう。外から彼女の安全を確認するにはそれしかないね。ついでだから、逃げ先になってよ。状況を整理する相手が欲しい」
ボクの要請に「私で良ければ」と冴木が答えてくれる。とりあえず、これで一時はしのげよう。
「じゃあ、コンビニ前で待ち合わせ。よろしく。じゃあ」
ボクはそう言うと一方的に電話を切った。そして、深呼吸をして感情を整え直してから一気に荒ぶらせる。
「おかえり」
トイレから出たボクに声をかけてくる詩織。ボクは彼女を無視して、外出用の鞄を掴んだ。
「今日中に帰ってくる」
ボクはそれだけ告げると玄関へ足を向けた。詩織は「一人にするの?」と心細げだが、思い切ってボクは怒鳴る。
「リスナーがいるでしょう? 抜き打ちで確認するから配信は続けて! 死んだら葬式にも行かないから! 死なない、逃げない、飲み過ぎない! この三つを守って! ボクも帰ってくるから!」
ボクの怒号に詩織は「はい……」としおれた返事をする。「絶対に君を捨てないから!」と叫んでから靴を履くボクに「ごめんなさい」と詩織が呟いた。何に対してのごめんなさいなのか分からないが、今までに対する謝罪だと信じよう。これから約束を破ると宣言する気だったのなら困るが確認する気が起きなかった。
外に出たボクはドアに寄りかかって崩れ落ちる。大仕事だったがやり遂げた。