第三章①詩織の過去
皆が無心でご飯を食べて、お腹もこなれた頃。朝香が急に「姫との馴れ初めは?」と尋ねてきた。ボクは今回ほど劇的な出会い方をしたかと思い、悩むが別に詩織は特別な出会い方をした記憶が無い。
「単純に音大の中間テストで協力し合って、気が合ったくらいだと思うよ。詩織の持つ沙織への情熱が凄いことに共感したのと彼女の声に惚れたのが決め手だろうね。詩織の声はまっすぐ響くから好きだな」
その言葉に夕香が食いつく。
「配信の時に姫のために曲を作ったって話が出てたけど、どれくらい作ったの?」
「大体30くらいじゃない? ほとんどが非公開だけど、一部は姫が動画として出してるよ。一番の思い出である初めての中間テストの時の歌とかは再生数が伸びていた気がする。約束で姫の動画は見ていないから何とも言えないけど」
そんなボクの呟きに「え、曲名は?」と朝香が食いつく。ボクはあえて「君ら、姉妹なら想像つくんじゃない?」と振ってみた。
「姫のオリジナル曲って結構少ないよね」
「その中で病みクラゲ作曲って数曲……」
そう言いながらスマホを触ろうとする夕香に朝香が「待って、動画サイト見るのは反則。思い出して言おうよ」と笑う。だが、夕香はスマホを触り続けた。
「姫の歌で病みクラゲ曲は古い順に『思い出』・『誰かが望む明日』・『汗』・『夢』・『声』・『網膜の奥』だね」
その言葉に「私はズルしなくても分かったよ?」と朝香は胸を張る。本当だろうか
「出だしを歌える?」
ボクが意地悪でそう言うと夕香は「お姉ちゃんなら出来そう」と呟いた。つまり、夕香には出来ないのか。朝香は指を立てた。
「私を舐めちゃいかんよ、何せ『月兎耳の母』だから。あの子の歌は全部歌える」
思わずボクは「おお」と声を漏らした。そうだよな、最古参だもんな。
「動画見てないなら知らないだろうけど、あの子って作曲の才能もあるんだよね。片鱗は配信の中でも見せてるし、パソコンが使えれば音楽を作っちゃうと思う」
朝香の一言にボクは思わず頷いた。そうなんだよ、詩織はパソコンが致命的に使えないから作曲できないだけでセンスはあるんだよ。
「何度も詩織に言ってるんだけどさ、〈動かしたいときは右クリック、困ったら左クリック〉の言葉の意味を理解してくれないんだよね。未だにブラウザが勝手に動くって頼ってくるのは困る。半分くらいはウイルスを踏んでるし」
「そのレベルなんだ」
朝香が大笑いする。正直、詩織は知的障害の部分もあると思っている。全般的な理解力はあるはずなのに、局所的に理解力が落ちるので扱いが難しい。
「そもそも、なんで朝香は特別な名前がついてるの? 『月兎耳の母』って言葉はコメントで見かけてたから覚えてたけどさ」
ボクの言葉に朝香は苦笑する。
「いやさ、最初は私、大人ぶってたの。だから、高校生なのに成人済みですとかコメントしててさ。中学生の頃から細かい設定も弄らずに配信してた姫の設定を教えたのは全部私なの。彼女に配信を教えるために、私は一時期、配信もしてたんだよ。配信の設定画面を自分で開いてスクショして贈ったよ。何なら機能を知るための最低限の配信もしてたんだ。人は集まらなかったけどね」
「めっちゃ熱心じゃん」
ボクの呟きに朝香は「そう!」と同調する。
「だから、『お母さん』って呼ばれてた。で、あの子が月に閉じ籠もる『月閉じ姫』をやって三年目くらいにに『月に閉じ籠もるのはやめにしたい』って言いだした。なんか、大学で大事な人が出来て気持ちが変わったとか言ってた」
「絶対にボクだね」
ボクが断言すると朝香は「絶対にそうだと思う」と笑った。
「それで私は名前まで考えたの。そしたら、植物に月兎耳ってやつがあって、教えたら『月兎耳の母』に格上げされた」
ボクはその言葉に苦笑する。
「あの多肉植物ね。家で育ててるよ。熱帯の植物だから冬が大変だよね」
それを聞いて朝香は驚く。
「本当に育ててるんだ! 私、嘘だと思ってた。あの子に甲斐性なんて無いはずだもん」
「うん、ほとんどボクが育ててる。それでも、水をあげすぎると根腐れするから手入れは適当だけど」
ボクの言葉に朝香は苦笑した。
「植物すら育てられないって、あの子の目標であるウサギを飼うのはどれだけ先よ」
「え、無理じゃない?」
「だよね」
ボクと朝香は一緒に笑った。その様子を見て、雅さんが目を細めている。
「その詩織とやらは、どんな子なんだい?」
その言葉に朝香が笑った。
「多分、萌歌も知らないことなんだけどさ。あの子、中学生の時は月宮詩織って名乗ってたの。月宮沙織に対抗してつけたって言ってたけど、真面目にダンス練習とか配信してた本気のアイドル志望だった」
そんな言葉にボクは「あの子、本名で配信してたの?」と呟く。それを聞き逃さなかった朝香が「待って、本名なの?」と尋ねた。言ってはいけなかった気がする。
「あの子、本名が月宮なの……。会ったときに運命だね、って言ったら宿命だよって言ってた」
その言葉に夕香が反応する。
「一時期、月宮沙織に隠し子がいるって話が出たのは知ってる?」
「そりゃあ、ファンだもの」
ボクがそう答えると夕香がブラウザ検索し出す。
「それって大体、20年前だよね」
その言葉にボクが「そうだね、確か沙織が『血塗れの産着』って歌を出したときに話題になった」と同調すると、夕香は「まさか」と呟く。
「あのときは事務所が全力で違うって否定したけど、本当だったら?」
「いや、まさか」
思わずボクが否定してしまう。沙織はずっと働いていたし、妊娠していたら分かっていたはず。
「妊娠しながら働いていたとかじゃなきゃ良いけどね」
雅さんの言葉にボクは「月宮沙織はそんなにタフな人じゃ無いと思うけどなぁ」とぼやいた。長い間、月宮沙織を追っかけてきた自分としては信じがたい言葉だった。
「ちなみに月に閉じ籠もってた頃は父親がアイドルとか言ってたよ? 言わなくなったけどね。普通にキャラブレの範疇かなと思ってた」
朝香の言葉に雅さんが「怪しいね」と呟く。いや、そんな。月宮沙織が子持ちなんて信じたくない。
「同時期に父親から性暴力を受けたから男性不信とか言っていたけど、今は同級生からの性暴力に変わったかな」
「そもそも、ボク、詩織のレズが先天性だと思ってた。もし性暴力が原因だったなら悲しいな」
ボクの言葉に朝香は複雑そうな顔をする。
「私は元々、女って感覚が分からないタイプだから、性暴力の気持ちは分からないんだよね」
その言葉にボクは「そういえば、朝香ってメイクしてる?」と尋ねる。すると、朝香は笑った。
「最低限しかしてない。スキンケアって言われるレベルでメイクはしてないかも。これを言うと、女の子からはずるいって言われる」
「ずるいと思う。かわいいもん」
ボクの本音に朝香は「かわいいだって!」と興奮した。かっこいいを目指しているわけでもないらしい。よく分からない。そう思っていると夕香が尋ねてくる。
「ちなみにさ、なんで萌歌は『ボク』って自称するの?」
ボクは一瞬、動きが止まった。何でだっけ。
「性暴力とか無かったよね?」
嫌な予感がしたのか、朝香が尋ねてくる。だけど、ボクは性暴力なんて受けたことない。
「……お兄ちゃんの一人称が伝染しただけかも」
その一言に朝香と夕香が口を揃えて「よかったぁ」と呟く。逆を言えば、理由もなくボクと言っているだけだからボクがレズじゃない可能性は否定できないんだけど。