冬の暮らし
冬は降り積もる雪のせいで外に出ることもままならない。
ならば暇なのだろうと、それは違う。
冬には冬でやることがあるのだ。
たとえば籠や農具の修理。壊れた籠は作り直し、農具はいつもより丁寧に手入れをしてやる。
たとえば装飾品作り。これはこの先一年間分の食べ物や必需品と交換される。
僕ははじめ、ドラセナに金属の細工を習っていた。これがなかなか難しい。
ドラセナは銀の板や線を叩いたり曲げたり溶かしたり削ったりして見事な指輪や腕輪、ネックレスをさも簡単そうに作り上げてしまう。
ところが実際やってみるとうまくいかない。曲げようと叩けばあらぬ方へ折れ曲がり、溶かしてつなげようとすれば変なところで固まってしまう。
するとドラセナは木工細工を教えてくれた。
最初に椀でも作ってみなさいと、のみと金づちを僕に握らせたのだ。
のこぎりで角を大まかに落として、のみを木に当て金づちで叩いて削る。
削れたら今度はやすりをあてて削り、最後に油をつけた布で磨く。
金属細工は硬い金属を細かく仕上げないといけなかったが、木工細工は比較的簡単だと思った。
それを見てドラセナは、初めから腕輪は難しかったのか……と頭を掻いていた。
不格好で不揃いだった椀をきれいに仕上げられるようになると、ドラセナは僕に彫刻刀をくれた。
彫刻刀を貰って思ったのは、木工細工が簡単だと思ったのは間違いということだ。
ドラセナはお守りの紋様を簡単そうに彫りだした。まるで木に埋まっている紋様を探して、周りの木を取り除いたように。
ところが、実際はそうもいかない。慎重にやればなかなか削れず、思い切れば削れ過ぎる。
「あなたは、細工をどこで習ったの?」
ドラセナが磨いていた腕輪から目を上げる。
「んーとな、昔すごい彫刻家がいたんだよ。その人は木工細工が得意だと言っていたけれど、金属細工の腕もすごかった、石も削ってたな。けども弟子を取ってなくてよ。この腕を失くすのは惜しいと思って弟子入りしたんだ」
「弟子を取らなかったのに、よく弟子になれたね」
ドラセナがにやりと笑った。
「そりゃもう、門前払いさ。でも何度も食い下がって、しまいにゃ家の前で座り込んだ。そしたら向こうが折れたよ」
どこか気に入らなかったのか、やすりを取り出して腕輪を削り始めたドラセナを見て、僕も手元の木に目線を戻した。
いたずら好きでどこか達観しているようなドラセナの、新しい側面を見つけた気がした。
このあたりは、一度吹雪くとなかなか止まない。
しかし、吹雪で外に出ることがままならなくとも、家畜の世話はやらねばならない。
屋根でつながっているはずの畜舎までの道も、横から吹き込む風のせいで雪が積もっていた。
小ぶりな畜舎には、牛が2頭と鶏がいる。
秋までは牛がもう一頭いたが年老いて体力も無くなっていたため、食料が少なく寒い冬は越せないと判断して潰したのだ。
牛には干し草と少しの穀物を、鶏にはパンを焼くときに除いた麦のカスと野菜くずを。
床を掃除して水を替え、ミルクを絞って残す卵にはカタキノという赤く染まる汁を出す実で印をつけ、新しい卵を取ったら家へ帰る。
カタキノは不思議なことに一年中実をつける。冬も、葉は落とすが実は落ちない。ただし一本に一度で実る数は少ない。便利な植物だ。
鶏の卵を少し残しておくのは、ヒナが孵るから。
老いた鶏は卵を産まない。そうなると潰してごちそうにするのだ。
卵は、新しい若い鶏が産む。
雄鶏も、老いれば弱くなり雌鶏を護れない。
そのため、新しい雄鶏が育つと老いたものは潰してしまう。
若い雄鶏が複数いる時は、戦わせて強いものを残す。
負けたものはごちそうだ。多い時は干すなり燻すなりして保存食とする。
ドラセナは言っていた。年老いたから、弱いからと殺してしまうのはかわいそうだが、これらはペットではなく家畜だと。僕もそう思う。
弱いものは死んで、強いものが残る。森に生きる動物たちと何ら変わらない。
家畜は明日の食べ物が保証されている。ただし、好きなようにどこまでも旅することはできない。それが森に生きる動物と家畜の違いだ。
「これ、食べてみたいと思わないか?」
暖炉の火でミルクを温めていたドラセナが、僕の読んでいた本を覗き込む。
そこには、パイ生地のような生地で肉や野菜を包み、パンのように丸く整形して焼き上げる異国の料理が記されていた。
「ミートパイみたいなもんか。しっかしこりゃ手間がかかるぞ。香辛料もたくさん使うし、相当なごちそうだ」
頭を相変わらず乱暴に撫でながら、ドラセナが僕を見る。
「来年の収穫祭のごちそうにするか」
収穫祭は雪が降り始めた日に、その年の実りを豊穣を司るディミトゥリアカと秋を司るフティノポリノスに感謝する祭りだ。一年で一番大きな祭で、料理も一年で一番のごちそう。
街では綺麗に飾り付けて二日間にわたり音楽を奏で、皆で踊り感謝を伝えるらしいがこの家は違う。
ディミトゥリアカは小麦に、フティノポリノスは楓の枝に宿る。
小麦の束と楓の枝に畑の実りと森の実り、それからぶどう酒とパンを供え、日が昇ってから日が傾くまで祈りを捧げる。
畑の実りはディミトゥリアカからの恵み、森の実りはフティノポリノスからの恵み、ぶどう酒とパンは人の感謝の現れだという。
そうして、次の日にごちそうを食べるのだ。
このやり方はかなり古風なやり方だという。
今ではどこも歌や踊りを捧げるのだそうだ。
聖都の教会ならまだやっているかもしれない、とはドラセナの言葉だ。
ドラセナは時々古い風習を持ち出す。
「おーい、ちょっとこっち手伝ってくれ」
ドラセナが暖炉の前で大鍋をかき混ぜながら呼んでいる。
「火からおろすからそっち持て」
火からおろしたミルクは、子牛や子山羊、子羊の胃から取れる酵素を入れて固め、型に入れて板ではさみ大きく育ったかぼちゃの重しで水を抜く。そうして塩水につけて塩気をつけたら熟成させチーズとするのだ。
酵素を入れて固めたばかりのミルクはほんのり甘いが、細かく切ってかき混ぜていると次第に甘みが抜けていく。不思議なものだ。
ところで、チーズにはいろいろな種類がある。
材料は牛のミルクだけではなく山羊や羊の物もあるし、シダを載せたり、カビで覆うようなものもある。そう言った変わり種のチーズは街で買って食べる。
ここには山羊も羊もいないし、カビを生やすものは作るのが面倒だとドラセナが笑っていた。
今日の夕食はかぼちゃのポタージュにするか、と僕は重し用のかぼちゃを運びながら考えるのだった。
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