目覚め
ぼんやりと、目の前を動く何かを見ていた。
おまえは椅子、というものに座ったまま目の前を動く何か……わたしを見ていた。
そうして気が付く。体が、動く。
「お前……! 動けるの、か?」
わたしは手に持っていた椀を手のひらから落としておまえに近づいてくる。
「もしかして、私の言葉もわかるのか?」
おまえは、頷く。わたしはおまえにしょっちゅう話しかけてきたから、多少の言葉は分かるし今なら話せる。
「……何か言ってみろ」
「わたしは椀を落とした。いつもはそうすると声が嫌そうで舌を打つ。いいのか?」
わたしはちらりと床に落ちた椀とこぼれたシチューを見て舌を打つ。
「お前は椀を落としていない。落としたのは私だ」
「だからそう言った。椀を落としたのはわたしで、おまえは座っているだけだ」
数秒、私は目を閉じたり開いたりを繰り返す。
そうして口が孤を描き、目が楽しそうに細められる。
「私、は自分のことを指すときに使う言葉だ。お前が使うならお前を指すとき。お前は逆だ。他人を指す。使うなら私にだ」
「分かった、おまえ。私はおまえを指すときおまえと言う」
わたしがそう言うと、おまえは再び目を閉じたり開いたりし、錆びた鉄と木を混ぜたような色の髪をぐしゃりと握って下を向く。何かをぶつぶつと呟いているようだ。
「お前は自分を指すとき僕と言え。私は使うな」
僕は頷く。
「分かった」
「それと、そうだな……繰り返せ。ご主人様」
「ご主人様」
「主様」
「主様」
おまえが額を指で掻いて、腰に手を当てもう一度下を向く。
「お母様」
「お母様」
「マスター」
「マスター」
「サンデリアーナ」
「サンデリアーナ」
おまえは再び髪を握ってそれをぐしゃぐしゃと掻く。
「どれも気に食わん、面倒だ。お前は私を指すときあなたと言え、まあドラセナでもいい。これは繰り返すな」
僕は頷く。あなたのことはあなたと呼べばいい。簡単だ。
それからあなたは僕をじろりじろりと見て、頷く。
「動いてもやはりお前は綺麗だ。長い時間をかけた甲斐があった。名前が無いのも可哀そうだな」
あなたは顎に手を当ててふうむと考える。ちらりと目が窓を向いた。
「アリウム……アリア……アウリア……女っぽいな、まあいいか。アリウムだ」
「分かった。僕はアリウム」
うん、とあなたは満足げに頷く。
「もっと喜ぶもんだ、名前を貰ったら」
「そうなのか、僕は喜ぶ」
あなたはふはっと笑って、顎に手を当てる。それから本棚から本を抜き取り、僕に渡した。
「嬉しいなら笑うなりなんなりするといい。せっかく動くんだ、表情も変わるだろう。それからお前はまず言葉を勉強しろ」
受け取った本は、ずっしりと重く手に馴染んだ。
椅子に行儀よく座り、テーブルに広げた本のページを繰る。
書いてあるそれを、からくりの脳に染み渡らせる。それが僕のすべきこと。
「おーおー熱心だなぁ。感心、感心」
エンドウ豆の入った籠をテーブルの向こう側に置いて、あなたは肘をつきながら座った。
「おまえ、賢いよな。さすが私の創造物」
ふんふんと鼻歌を歌いながらさやから豆を取り出し始めたあなたを、ちらりと見上げる。
みずみずしいさやがぱりっと割れて、中からころりといくつかの豆が転がる。
ころりころりと木の椀に落ちるそれは、まるで宝石。
「あ? なんだ? これが気になるのか?」
一粒エンドウ豆を摘まみ上げてこちらを向いたあなたに、こくりと頷く。
ふぅんと摘まんだエンドウ豆を見つめてこちらを横目に見る。
「お前、物食えるのか? ま、ダメだったら分解して取り出してやるよ。口開けろ」
口にころりとエンドウ豆が転がされる。
象牙の歯で嚙めばぷちりと弾けて、口に青い匂いとほんのりとした甘みが広がった。
「私のエンドウ豆は甘いだろ? うまいって言うんだよ、こういう時は」
うまい、これがうまいなのか。
「うん、そうだ。うまい」
あなたは面食らったような顔をして、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「私の言葉遣いは悪いからな……お前はうまい時、美味しいと言え。そのほうが似合う」
エンドウ豆は美味しい、覚えた。
僕はなんだかちょっと嬉しくなって、少し笑った。
「大丈夫そうだな、そんな機能つけたつもりはなかったが……まあいい、夕飯、一緒に食べるか?」
「……えっ?」
僕は自分の前に並べられた、エンドウ豆のスープとちょっと茶色いパン。それをただじっと見つめていた。どうしたらいいのかわからなかったのだ。
あなたは慣れたようにパンをちぎり、スプーンでスープを掬って啜る。
向こうから暖炉の火に照らされて、ゆらりゆらりと光が揺らめきながら横顔が柔らかく照らされているのだと分かった。
「なんだ? 好きじゃないのか?」
僕は首を横に振る。これは否定のジェスチャー。
こんなにも満たされる香りを漂わせながら湯気をあげるパンとスープが美味しくないとは思わない。
「僕は人形だ」
あなたはふぅんと興味なさげに聞きながらパンをちぎって口へ入れた。
「……まあお前がそれでいいなら何でもいいけどよ、よくわからんが食えるんだから食っとけ。要らなくてもだ。食事は人生を彩るぞ」
食事は人生を彩る、それは知らなかった。渡された辞書にも図鑑にも、そんなことは書いていなかった。まだ読んでいない図鑑に載っているのかもしれない。
僕はパンの皿をあなたに差し出して、スープを飲もうとスプーンを持った。
「あ? 要らねぇよ、これはお前のパンだ。私のはこれ、お前のはそれ。自分の前に並べられたのは自分のもんだよ」
「でも、あなたはいつも2日分のパンを焼く。そこに僕の分はない。これはあなたの朝の分だ」
あなたの目が宙を彷徨い、髪をぐしゃりと掻き上げてはぁとため息を吐いた。
「僕は何か間違えた?」
「間違えちゃいねぇよ」
あなたはおもむろに立ち上がって、僕の椅子のそばにしゃがみこむ。
自ずと、僕はあなたを見下ろすことになった。
「いいか、お前が言ったことはなぁんも間違えちゃいねぇ。だから恐縮する必要はない。これはもともと私が朝食べようと焼いた分だ。だがな、お前にあげたんだ。」
先ほど僕が差し出したパンを、僕の手のそばに持ち上げる。
「パンはまた焼けばいい。小麦は買ってくればいい。金は働けばいい。けどお前と同じ食卓を囲む今日の夕飯は、今しか手に入らねぇんだ。私はそれが欲しい。人形にゃ食事は要らんかもしれねぇが、食えるなら一緒に食ベてくれ。人間ってのは、時々無駄なことをしたくなるもんだよ」
無駄なことをしたくなる。
なるほど、食事が不要な人形にわざわざ食事を用意して食べさせるなんて食材も時間も無駄なことだ。その無駄なことがしたくなったということか。
僕はあなたが右手で差し出すパンをそっと受け取った。
ふんわりと香ばしく小麦が香るパン。
僕は知っている、このパンを作るのはなかなか大変だと。
小麦粉に種と水と少しの塩を入れてしっかりこねる、力を入れてしっかりと。汗がじんわり額に浮かぶくらい。
パンを暖炉のそばで置いておく。これは発酵だと今日知った。
形を整えて焼く。焦げないように時折竈を気にしながら、薪を足したりしながら。
スープを見る。スープだって簡単にできるわけじゃない。
綺麗な緑色のスープは、蒸したエンドウ豆をついてつぶしたものにミルクを加えたものだ。
一抱えもあるすり鉢を足で抱え込んで、両手ですりこぎを持って潰す。
温めるための火は、あなたが汗を流しながら割った薪を燃やして熾す。
エンドウ豆は、雪が降る前に種を蒔いて、あなたが大切に育ててきたものだ。
パンをちぎる、あなたがいつもやるように。
ちぎったパンを口へ運ぶ。
酸味と少しの塩気と、小麦の香ばしさ、それから小麦の微かな甘み。エンドウ豆よりも微かな甘み。
「……美味しい」
「そうかよ、良かったよかった」
あなたはよっこらせっと立ち上がって椅子に座り、食事を再開した。
「美味しい」
スープを掬って、啜る。
パンをちぎって頬張る。
「美味しい」
あなたが、ぎょっとしたようにこちらを見た。
「おまっ、な、泣けたのか? ……そんな機能つけた覚えはないんだけどなぁ」
投げてよこした手ぬぐいを持ち上げて、僕は答えを求めるようにあなたを見上げた。
「涙拭けよ、それで」
僕はごしごしと目からあふれた水を拭いて、手ぬぐいを返した。
「ありがとう」
「あぁ」
あなたの横顔が嬉しそうに微笑んだのを、僕は見つめた。
書きながらですので更新は不定期です。ご了承ください。
なるべく間隔があかないようにします。
お付き合いくださるとうれしく思います。
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