プロローグ① 絶望、希望、また絶望
「もー、お兄ちゃん! 早くしてよぉー!」
妹の優香が玄関先で呼んでいる。とはいえ、ワンルームの家なのですぐそばなのだが。
「ちょ、ちょっと待てよ。えーっと、こっちがこうかな? いや、こうか?」
俺は洗面台の小さな鏡を前にネクタイを結ぶのに悪戦苦闘していた。身につけているのは友人から借りてきたスーツだ。スーツを着ることなど人生で初めてのことなので、思うようにうまくいかない。ああ、またおかしい。
「あれー、先週教えてもらった時はできたんだけどなぁ……」
「もぉー!」
「わかったわかった! これでいいか」
ネクタイを適当に結ぶ。異常に結び目が大きく、バランスも悪いがしないよりはマシだろう。人生妥協が大事だ。俺は玄関に向かった。
「なにそのネクタイ! へったくそ!」
「しょうがねえだろ、いつもは作業着なんだから」
優香はほおを膨らませた。大きな瞳を逆三角にさせる。優香の方はブレザーの制服を着て、学校指定のローファーを履いていた。スカートの長さも規則通り。このまま学校のパンフレットの表紙を飾れるだろう。
「せっかくの私の晴れ舞台なのにさ。ほら、ちょっと貸して」
優香が俺のネクタイをぐいと引っ張る。細い指でするすると解くと手早くネクタイを結び始めた。背中まで届く黒い髪が揺れる。癖っ毛のないストレートヘアーは死んだ母親譲りだ。
「はい、できた」
「おおっ」
あっという間に結び終えてしまった。これならどこに出ても恥ずかしくあるまい。我が妹ながら要領の良いやつだ。自慢ではないが、優香は頭が良い。家事をこなしながらも勉強に励み、県内指折りの進学校に合格したのが何よりの証拠だ。そう、今日は優香の入学式なのである。
「優香、入学おめでとう」
「な、なによ。改まっちゃって」
優香が怪訝な顔をする。また自慢になってしまうが、優香は(俺に似らずに)美人だ。こうして眉を顰める姿も絵になる。おまけに運動もできるし、料理もうまいし、気立も良い。俺が優香の同級生ならほっとかなかっただろう……ん?
「優香……お前どこでネクタイの結び方を覚えた?」
「は?」
「おかしいだろ! 女のお前がネクタイの結び方を覚える機会なんてあるわけない! 男か! 男だな!? 誰だ!何処の馬の骨だ!」
「バカモノ!」
ポカリと頭を叩かれる。
「高校の制服女子でもネクタイかリボンか選べるって知ってるでしょ? 今日はリボンにしたけどネクタイも結べるように練習してたの!」
「あ、そ、そっか。そうだったな」
妹の胸元に付いているリボンに目線を落とす。そういえば最近の制服は選択肢が多いんだ。女子でもズボンを履くとか言うこともザラらしい。俺が学生の頃は全くなかった話だ。もっとも、俺は中卒なのだが。
改めて妹の胸元を見る。一年生の印である赤いリボンが重力に従って吊り下がっていた。可哀想なほど平たい胸だ。
「こんな色気のない奴に彼氏なんかできるわけないか……」
思わずこぼれたその一言。優香は聞き逃さなかったらしい。
「チェストオオオオオ!!!!」
逆水平チョップ。本来ならリングの上で屈強な男が繰り出す技を、狭い玄関先で16の小柄な少女が繰り出した。俺の胸板に優香の掌がぶつかる。
「いてえええええっ!!!」
◯●
今更の自己紹介になるが、俺は鍵山誠。21歳。中学を卒業してから近くの建築会社で働き始めた。働き始めた頃は痩せっぽっちのチビで、邪魔者扱いだったが、今では身長は180センチほどあり、人よりもずいぶん大柄になった。ようやく現場の主力になれた(と思っている)。
少し複雑な話になるが俺と優香の両親は他界している。その後遠縁の親族に俺達は別々に引き取られた。ありがちな話だが、親戚の家では肩身が狭く、俺は早々に進学を諦め、優香を引き取り働き始めた。妹は4つ下で、当時小学6年生だった。
月日が流れるのは早いもので、妹はもう高校生。上記の通り名門に行ってくれたこともあり、親代わりに優香の面倒を見てきた、俺としては鼻が高い。俺も稼ぎが増えたし、以前ほどの苦労をかけることもないだろう。他の家庭からしたらずっと不幸に見えるだろうが、俺にとっては順風満帆なものだった。
「ねぇ、お兄ちゃん聞いてるの?」
「えあ?」
大通りの信号待ちで立ち止まっていると、優香に呼び掛けられた。どうやら何か話しかけていたらしいが、聞き流してしまった。
「すまん、聞いてなかった」
「もぉーっ!」
妹は「もー」と言うのが口癖だ。牛みたいなやつだ。
「だーかーら……ありがとうって言ってんの」
「え?」
「高校まで行けたのはお兄ちゃんのおかげだと思ってるから。お兄ちゃん、仕事で疲れてるのに受験勉強中は家事とかずっとしてもらって……入学金だってタダじゃないのに全部出してもらって……」
「優香……」
妹がここまではっきりと感謝の気持ちを言葉にしてくれるのは珍しい。じわっと胸の奥の方が熱くなる。
「当たり前だろ。たった1人の家族なんだから」
そう言うと、ちょうど信号が青になった。これ以上話すと涙が出そうだ。足早に俺は足を踏み出した。左右を見渡すこともせず。
「お兄ちゃん!!!」
優香の声。はっと嫌な予感がし、左を向く。目前にトラックのフロントが迫っていた。ひどくゆっくりと迫ってくるが、水の中を歩くかのように体がゆっくりとしか動けない。死ぬ間際、世界がスローモーションに見えると言うやつか。
目線だけを優香の方に向ける。優香が必死な形相で手を伸ばしている。ああ、なんてこった。避けれない。俺は死ぬ。優香、すまない。強く生きてくれ――。
「お兄ちゃん!!」
また、妹の声。俺の方向に勢いよく足を踏み出していた。まさか。
2歩目。
やめろ。体格差を考えろ。お前に俺を突き飛ばせるわけがない。
3歩目。
来るな。
来るな。
頼む。
来ないでくれ。
優香の手が俺の背中に届いた。しかし、優香の体重はあまりにも軽く、俺の体は動かない。ああ――。
ドンッ
鈍い音が全身に響き、その瞬間世界が等速で動き出す。ぐるぐると視界が周り、また衝撃。
こうして、鍵山兄妹は幸福の最中に死亡した。
とりあえず20話までは毎日投稿します。よろしければブクマ、感想よろしくお願いします。